河原シンスケ氏(1)
【河原シンスケ】パリでアートの仕事をするということ
2016/8/7
今、日本と世界は大きな転換期にある。そんな時代において、世界レベルで飛躍する、新時代の日本人が生まれ始めている。本連載ではビジネス、アート、クリエイティブなど、あらゆる分野で新時代のロールモデルとなりえる「グローバルで響いてる人の頭の中」をフィーチャー。経営ストラテジストの坂之上洋子氏との対談を通じて、各人物の魅力に迫る。第5回のゲストは、アーティストの河原シンスケ氏。80年代初頭よりパリを中心に活動し、エルメス、バカラ、ルイヴィトンなどとコラボレートするクリエータと語る。
第1回:パリでアートの仕事をするということ
第2回:70歳でも恋愛。フランスの自由な恋愛スタイル
第3回:アートは「動物的勘を試す機会」になる
コネもない状態でひとりでパリに
坂之上:シンスケさんはずっとパリでアートのお仕事をなさっていますが、いままで手がけたなかで一番大きな仕事は何ですか?
河原:うーん。終わった仕事って、すぐ忘れちゃうんですよね。興味があるのは次にやることだから。
坂之上:教えてくれないんだ…(笑)。
河原:大きな仕事よりパリで初めてした仕事ならよく覚えてます。
坂之上:どういうお仕事ですか?
河原:僕がパリに行った1980年代のはじめは、日本人があまりいなかったんです。高田賢三さん、入江末男さん、島田順子さんなどファッションデザイナーの方々は活躍していたけれど、もちろん僕なんかとは交流もない。もちろんフランス人の知り合いもいない。
坂之上:なんにもコネもない状態でひとりでパリにいらしたのですね。
河原:それで、とりあえずイエローページで新聞社の番号を調べて、電話ボックスから電話をかけたんです。フランス語もろくにできないから、「日本人です。アーティストです。アポを取りたいです」ってフレーズを紙に書いて、それを読み上げた。
坂之上:大胆。
河原:そしたら会ってもらえたんですよ〜。そしてわりとすぐ仕事が来たんです。
坂之上:それはイラストで?
河原:挿絵ですね。原稿を渡されて、「これに合った絵を描いて。締め切りは1週間後ね」って言われました。
坂之上:すごい。
河原:でも、そんなに長い文章じゃなかったけど、フランス語の読解力もぜんぜんなかったので内容がわからないんです。辞書を片手に何が書いてあるのか必死で理解しようとしました。そのことは今でもはっきり覚えています。
坂之上:すごい話ですね。
坂之上洋子(さかのうえ・ようこ)
ブランド経営ストラテジスト。米国ハーリントン大学卒業後、建築コンセプトデザイナー、EコマースベンチャーのUS-Style.comマーケティング担当副社長を経て、ウェブブランディング会社Bluebeagleを設立。その後同社を売却し、中国北京でブランド戦略コンサルティングをしたのち帰国。日本グローバルヘルス協会最高戦略責任者、観光庁ビジットジャパン・クリエイティブアドバイザー、東京大学非常勤講師、NPOのブランディングなどを行った。『ニューズウィーク』誌の「世界が認めた日本人女性100人」に選出
目的を持って行ったわけじゃない
坂之上:アーティストとして、自分に才能があるとわかったのは何歳ぐらいのときなんでしょう?
河原:そんなの、今だってわかんないですよ。
坂之上:じゃあ、「アーティストとして成功したいからパリに行く」とか、そういうんじゃないのですか?
河原:ないない。パリに何か目的を持って行ったわけじゃないです。
坂之上:なのに、ずっとパリで順調なのですか? 挫折とかは?
河原:挫折? 挫折はあったと思うんですけど、忘れました。すごくドラマチックなことも実はたくさんあったと思うのですけど……。
坂之上:じゃあ、そのドラマチックなことを教えてくれませんか?
河原:今ここで?
坂之上:今、ぜひここで。
河原シンスケ(かわはら・しんすけ)
武蔵野美術大学卒後、80年代初頭よりパリを拠点に活動を開始。フランスのフィガロ、エル、マリクレール、ヴォーグ等のイラストや、プランタンデパート、エルメス、バカラ等の広告を手掛けるほか、ルイ・ヴィトン「LE MAGAZINE」のクリエイティブ・ディレクション、La Rochelleのリゾートホテル「côtè ocean」の総合デザイン及び、250m2の天井画を完成させる。2007年には、オーナー・デザイナーとして、サロンレストラン「usagi」の総合プロデュースを手がけた。
パリで社交界をつくった
河原:う〜ん。10年くらい前かな。そのころはもういろんな企業のディレクションだの、展覧会だの、個人宅の壁に絵を描いたりだの、アートの仕事をするようになっていたんですが、ふと、「パリに来た藤田嗣治は、そりゃもう大変だっただろうな」と思ったんです。
坂之上:藤田嗣治さんの時代ですか。
河原:でも当時パリで活躍した人たち……たとえばロシア・バレエのディアギレフだって、ピカソだって、みんな外国人でしょう? たぶんパリにはサロン文化みたいなものがあったから、よその国から来た人でも溶けこめたと思うんです。それで僕も、「そうだ。サロンをつくろう!」と思った。
坂之上:え。突然サロンですか?
河原:そう。17世紀に建てられた古いビルの1階に、看板も出さない、会員制に近いような「usagi」という店を作ったんです。世界中から変な人たち、面白い人たちがいっぱい集まりましたよ。
坂之上:河原さん、パリで社交界をつくってしまったわけですね
河原:はい。その店のトイレの中でしか聞けないラジオ放送というのをしたりして。
坂之上:とっぴな発想ですね。楽しそう。
河原:でね、サロンはすごく順調だったんですよ。世界中のいろいろな分野の方々がきてくれて。
でもあるときですね、スタッフから電話がかかってきて、「大変です。天井がミシミシいってます」という。
坂之上:?
河原:駆けつけたら、その瞬間、屋根が縦に割れて、建物が崩壊したんです。
坂之上:わーっ。
全部グチャグチャになった
河原:もう全部グチャグチャになりました。それからが大変でしたね。いつ営業を再開できるかまったく見込みが立たないから、店を閉めるしかない。でも、こういうとき日本人のスタッフは退職金を渡すと辞めてくれるでしょう?
でもフランスではこういう事情があっても、人を辞めさせられないんです。
坂之上:店は営業できないのに給料を払い続けないといけないというわけですか?
河原:そう。それで一気にお金を使い果たしました(笑)。まぁ、1年半後ぐらいにやっと軌道修正できましたけど。
坂之上:で、もう一度最初から、はじめられた?
河原:いや、はじめません。はじめません(笑)。
坂之上:でもサロンは、そんなに成功していたのに? 経営も順調だったんですよね? 別の場所でやったらまた成功するでしょう?
河原:まぁ、金銭的にもやった方が良いでしょうね。でも、あんなストレスはもういやです。
坂之上:成功していたことに、こだわらない?
河原:そう、それが「今」「いつも」幸せでいれるコツですかね。
※明日に続きます。
(撮影:遠藤素子)







