インドで仏教徒1億人を率いる、日本人僧侶の破天荒人生(前編)

2016/8/1
仏教発祥の地インドで、全国の仏教徒から敬愛を込めて「バンテージー(上人様)」と呼ばれる日本人僧侶がいる。  
今年8月で81歳、インドに渡って50年を迎える佐々井秀嶺だ。
13億1000万人を超える人口を抱えるインドには、推定5000万人から1億人の仏教徒がいるといわれる。佐々井は日本人でありながら、その膨大な数の仏教徒の頂点に立つ。
ヒンドゥー教が大多数を占めるインドで、政治的、宗教的に重要な位置を占めているのがイスラム教、シーク教、仏教など少数派の発言権を確保するための委員会、マイノリティ・コミッション。
各宗教のトップが名を連ねるこの委員会で、佐々井は2003年からの3年間、インド全仏教徒の代表を務めた。
委員は政府の副大臣に相当する要職で、当時すでにインド国籍を取得していたとはいえ、日本を母国にする僧侶がインド仏教徒を率いるのは前代未聞である。
委員を退任して10年経ついまも佐々井の影響力は衰えておらず、昨年には、カースト制度を廃止したインド憲法の起草者であり、インド仏教復興の祖でもあるB・R・アンベードカル博士の名を冠したアンベードカル記念協会の会長に就任した。
この博士については後に詳しく記すが、会長職は、佐々井自身が「インド仏教徒の最高位」と称する地位である。
これまで、海外の企業や組織でリーダーを務めた日本人は何人もいるだろう。
しかし、海外で数千万人から1億人規模の組織の長に就いた人物は、佐々井をおいて他にいない。
空前絶後の存在である佐々井秀嶺は、どういう人生を送ってきたのか。どのような経緯で、トップに登り詰めたのか。佐々井が考えるリーダー像はどんなものだろうか。
今年6月、一時帰国していた佐々井を訪ねて京都に向かった。

2度も死線をさまよいながら復活

筆者は昨年、岡山でも話を聞いているが、佐々井と向き合うと身体が一回り小さくなったように感じた。
聞けば、一昨年に続き、昨年も体調を崩して死線をさまよったそうだ。
それにもかかわらず、日本滞在中は多忙で、疲れがたまっているという。
そんなときに話を聞いても大丈夫かと不安がよぎったが、その眼を見て心配無用だとわかった。
対峙(たいじ)する者を射抜くような鋭さを持ちながら、いたずら好きの少年のようでもある佐々井の双眸(そうぼう)は、1年前と変わらず、炯々(けいけい)と光を放っていた。
佐々井 秀嶺(ささい・しゅうれい)
1935年岡山県生まれ。25歳のとき、高尾山薬王院にて得度(とくど=僧侶になるための出家の儀式)。1965年タイにわたり、現在はインドで仏教徒1億人のトップに立つ。

劣等感に満ちた少年時代

岡山の農村で生まれ育った佐々井の少年時代は、「上人様」と慕われている現在の姿からは想像がつかない。
「終戦の日、ラジオで敗戦を知った村の人が泣いていたんだ。私はその日の夜、みんなが寝静まると、白墨で村中に書いて回った。『戦争負けて、いきびだ』と。いい気味だという意味だ。翌日、大人たちに袋だたきにあって顔が腫れたなあ」
「いま考えても、なぜそういうことを書いたのだろうと疑問に思う。いわば持って生まれた反骨精神で、いまだにその反骨精神はずっと続いているんだ」
子どものときは、「ケンカをしても、マラソンをしても負けなかった」というから、相当に元気なやんちゃ坊主だったのだろう。
しかし、ちょっとした事故から、風向きが変わる。
「中学2年のときに、山で転んで気絶して、急性肺炎になった。それから毎日41度、42度の熱が出て、ずっと寝たきりになって、中学3年のときは1日も学校に行ってない。なんとか卒業はしたけど、力が出ないし、頭も働かない。何をしてもダメになって、劣等感を持つようになったんだ」
「それで、どうにかして身体と心を鍛えなきゃいかんというわけで、山にこもったり、上京して精神鍛錬道場に入ったりしたんだ。でも、どうもダメなんですよ。それから岡山に戻ったけれども、何度も家出を繰り返して、東京では血を売ったり、淫売屋に入ったり、汚名を着せられて少年院にも入った。18歳のときには、恋心がこじれて、自殺未遂もした。まさに、人間失格の人生だ」

自殺未遂がきっかけで出家

人間失格の青年は、何をしてもうまくいかないまま20代になった。そして次第に、この生きる苦しみから逃れるために「仏にすがろう」と僧侶を目指すようになった。
しかし、どこの寺を訪ねても、中卒の学歴を理由に受け入れてもらえず、再び絶望して大菩薩峠で2度目の自殺未遂を起こしている。
この2度目の自殺未遂が佐々井を仏道に導いたのだから、人生はわからない。
「大菩薩峠に登ったら、(頂上にある)妙見堂から『死んだと思え』と声が聞こえたんだ。それで、私は大菩薩峠で生まれ変わったんだと思うことにした。それからなんとか甲州街道まで降りたんだが、勝沼で行き倒れになっちゃった」
「そしたら村人が私を担いで、大きなお寺(大善寺)の庫裏(くり)に運んでくれたんだ。そこでしばらく世話をしてくれた尊父様に、高尾山薬王院にいる兄弟子のもとで得度しなさいといわれて、高尾山に行ったんだ」

寺を飛び出して大学へ

──得度した後、人生は変わりましたか。
「私は高尾山で、飛び抜けて荒々しい坊主だった。夜は山の頂上まで行って大声で経を読んだり、滝に打たれたりして、そういう荒々しいことをしていたら、ほかの庫裏から文句が出てね。老僧たちが、うるさくて眠れないというんだ」
「どうも高尾の空気が俺には合わない。それで、もうここを出ようと思ってね。坊さんは勉強しないといけないから、東京に出て仏教を教える大学の聴講生になった」
──大学ではどんな生活だったのですか。
「新聞配達をしながら、不良学生の親方をやっておりました。大学院の学生ともケンカしたしね。酒も飲んだし、タバコはむちゃくそだった。1日に2箱ぐらい吸わないと、吸った気がしないんだ」
「でも勉強は一生懸命やりましたよ。今の坊主はダメだ。自分の宗派のことしか知らない。たとえば真言宗の坊さんは、親鸞を知らない。昔の坊さんはそうじゃなかった。八宗兼学といって、放浪して、討論して八宗(日本の代表的な仏教の宗派)を荒らしまわる坊主がおったんだ」
「俺も10年勉強してそういう坊主になってやろうと思ったんだ。そのためにキリスト教や他の宗教の勉強もしたが、あるとき、『神と仏、どちらが苦しみから救ってくれるのか』という疑問が湧いてきてね。どうしてもその謎が解けなくて煩悶しているうちに、どんどん苦しくなってきて、謎が解けない以上は宗教なんて何もない、死ぬしかないと思うようになったんだ」

3度目の自殺未遂を経てタイへ

何も死ななくても、と思うが、「俺はイノシシで、前しか見えない」という直情型の佐々井は、思いつめたら後戻りはきかない。
24歳のときに、乗鞍岳で3度目の自殺を試みた。
しかし、予想を超える寒さで凍え死にそうになると恐怖がこみ上げ、「ここで眠ったら死んでしまう」と手近にあった石を何度も頭に打ち付けて、激しく流血しながら「神様、助けてください!」と絶叫した。
そのときに、一つの気付きを得た。
「自分は神様を見たことがない。本当にいるかわからないから、いくら助けを求めても、助けてくれるかわからない。しかし、仏教は天地自然、大宇宙が『我』と説く。天地自然で自分は構成されている。すなわち、いま、ここにいる自分は阿弥陀の一部なのだ」
仏門に入ってから初めて仏の存在を身近に感じた佐々井は、命からがら下山すると、それまでより一層真剣に勉強を続けた。
しかしある日、高尾山薬王院から「戻ってこい」と手紙が来た。何かと思って訪ねると、師匠が「費用は寺が負担するから、タイに留学しろ」という。
佐々井は最初、もっと勉強がしたいから、先輩をタイにやってくれと断った。
すると師匠に「ほかの坊主は職業坊主だから、お前じゃなきゃダメなんだ」と説得され、佐々井は1965年、渋々とタイに渡る。
このとき、30歳だった。(文中敬称略)
(撮影:川内イオ)