【岡本美鈴】カナヅチ同然だったフリーダイバーが挑む、水深90mの超人的世界

2016/4/11
2012年、フリーダイビング国際大会のコンスタントウェイト・ウィズフィン競技で個人戦初優勝を飾った岡本美鈴は30歳までほぼカナヅチだった。にもかかわらず、なぜ世界の頂点に立つことができたのか。
深く呼吸をして、心を静める。ヨーガの呼吸法であるプラーナーヤーマを繰り返すと、徐々に心拍数が落ちていき、気持ちが安らかになると同時に集中力が高まっていく。  
合図と同時に音もなく頭から水に入り、ドルフィンキックで潜行を開始する。
全身に神経を張り巡らせて、耳抜きの空気がどれぐらい残っているか、身体の疲労度、意識をしっかり保っているかなどを細かくモニタリングしながら、水の中を縫うように、滑らかに、深く、深く、潜っていく。
だんだんと水の色が深く変わっていき、陽の光が途絶えると暗闇が訪れる。
その頃になると猛烈な水圧で肺が縮み、重力のほうが強くなって、ドルフィンキックをしなくても身体が沈んでいく。フリーフォールと呼ばれる状態で、宇宙を旅しているような気分になる。
(photo by Daan Verhoeven)
暗闇の底には、一筋の光が見える。撮影用のGoPro(カメラ)のライトだ。
その光に照らされて、ダイブ成功の証しとなるタグがくくりつけられたプレートが浮かび上がる。
フリーフォールのまま、宇宙船に降り立つようにふわりとプレートに到達すると、タグを手に取り、身体を反転させて視線を上に向ける。
このとき、水深92メートル。
潜るときとは真逆の心もち、「よっしゃ、いくぞ!」と自分に気合を入れて、浮上を始める。気を抜けば水圧と重力で海底に引き込まれるから、全身の筋肉をフル稼働させてキックを続ける。
迎えのダイバーがいるのは、水深30メートル地点。
最初の人間に会うまでの孤独な時間に少しでも不安がよぎると一気にパニックになり、ブラックアウトしかねない。海の上で、日本で待ってくれている人たちに会いたい、ただその一心で海面を目指す。 
これは、プロフリーダイバー・岡本美鈴が表現するダイビング中の風景と心境だ。
彼女の話を聞いていたら、映画『グラン・ブルー』で、主人公の伝説的フリーダイバー、ジャック・マイヨールが口にする言葉を思い出した。
深く海に潜るんだ。深すぎてブルーは消え、青空も思い出になる。

『トゥナイト2』を観て小笠原へ

昨年、バハマで行われた国際大会とキプロスで開催された世界選手権で2つの金メダルを獲得した岡本だが、30歳までほぼ泳げなかったという。
カナヅチ同然だった彼女が、誰よりも深く潜れるようになるまでの道程、いや、海程はどのようなものだったのだろうか。
すべてのきっかけは『トゥナイト2』だった。1994年4月4日から2002年3月29日まで放送された、深夜の情報番組である。
1999年のある日、テレビを付けたら、『トゥナイト2』のリポーターの女の子が、野生のイルカと一緒に泳いでいた。
「え、何これ! と思ってテレビにくぎ付けになりました。そのとき、小笠原でイルカとスイムができるという特集をしていたんです。野生のイルカと遊べるようなところが日本にもあるんだと、驚きましたね。私はもともと動物や自然が好きなので、一度、小笠原に行ってみたいと思いました」
岡本美鈴(おかもと・みすず)
1973年東京都生まれ。30歳までほぼカナヅチだったが、イルカと泳ぎたくてダイビングを開始。3年後の2006年にはコンスタントウェイト・ウィズフィン競技で初めて日本記録を樹立。2012年には同競技の国際大会で水深90メートルのアジア記録を出し、個人戦初優勝を飾った。2015年フリーダイビング世界選手権では個人戦で金メダルを獲得している。競技以外では2010年、NPO法人エバーラスティング・ネイチャーとパートナーシップ契約を結び、海洋環境保全PR活動「Marine Action」を立ち上げた。ヨーガインストラクター、グラフィックデザイナーとしても活動する。

青い海で受けた衝撃

東京の南約1000キロの太平洋上に浮かぶ小笠原へは、船で25時間かけて行くしか道がない。
気軽に訪ねるにはハードルが高い場所だから、岡本は「一生に一度のつもり」だったが、現地でイルカを見るツアーに参加して、その考えはあっさりと覆された。
「私は泳げなかったから、ライフジャケットを借りてプカプカ浮かびながら水中を見ていました。小笠原の海は本当に青くて、青い空間の中でほかの参加者と野生のイルカがぐるぐるまわったり、追っかけっこをしたり、まるでドッグランで遊んでいるみたいに楽しそうに泳いでいる姿は衝撃的で、1回でいいから体験してみたいと思ったんです」
イルカだけでなく、陽気で大らかな島の人たちや豊かな亜熱帯の自然に魅せられた岡本は、小笠原に通うようになった。
多いときには年に3回も足を運んだ。そのうちに海にも慣れ、2、3メートルほど潜れるようになって、イルカと遊ぶこともできるようになった。

日本代表選手と偶然の出会い

小笠原に夢中になっている間に時は過ぎ、迎えた2003年2月。旅行で沖縄に行った岡本は、帰路の機内で偶然にもフリーダイバーに出会う。
「普通だったら隣席の人と話すことはないのですが、たまたま何か機体のトラブルがあって、機内に1時間ぐらい足止めされちゃったんです。それでお互いに暇だからしゃべり始めたら、フリーダイビングの日本代表選手ということだったので、私は『イルカと泳ぐのが好きなんですけど、うまく泳ぐコツはありませんか?』と質問したら、フリーダイビングの練習をするのが近道だという話になりました。それからフリーダイビングがどんなに素晴らしいスポーツかという話が始まって、気づいたら羽田に着いていました」
その日本代表選手は、羽田に到着してすぐに東京近郊のフリーダイビング愛好家が集まる東京フリーダイビング倶楽部の代表に電話をかけて岡本を紹介すると、「翌月、神奈川県内のプールでフリーダイビングの日本選手権があるから見学に来ませんか?」と誘った。

「海洋哺乳類のように見えた」

機内の会話でフリーダイビングに興味を持った岡本は快諾し、実際に大会の見学に出向いたのだが、会場に着いて焦ったそうだ。
「水泳の大会と同じように観客席から見るものだと思っていて、ちらっと顔を出してサッと帰るつもりだったんです。でも、会場に入ってみたらスタッフも含めて30人ぐらいしかいなくて、プールサイドに連れて行かれて、あいさつせざるを得ない状況になって。結局、すぐに帰ることもできず、終わった後にみんなで一緒にご飯を食べました」
日本のフリーダイビングの歴史は浅く、選手が初めて国際大会に参加したのは1998年のこと。
それから5年しか経っていなかった当時、競技人口も少なく、日本選手権といってもアットホームな雰囲気だったのだ。
このときに打ち解けた東京フリーダイビング倶楽部のメンバーが、後日、海外の大会のDVDなどを岡本に送ってきた。このDVDが、岡本を海中の世界に誘う。
「そのときに初めて選手が海に潜っている映像を見て、めちゃくちゃきれいだと思いました。ハウスのBGMに乗って選手が潜っていく様子が流れていくんですけど、選手が海に馴染んで深みに消えていく姿が美しくて、海洋哺乳類のように見えたんです。それから毎日、家にいるときはずっとDVDを流しっ放しにして、すべての選手がどういう蹴り方をしているのかを覚えてしまいました」
もっとうまくイルカと泳ぎたいと思っていた岡本にとって、海洋哺乳類に見えるフリーダイバーたちは憧れの存在になった。
居ても立ってもいられなくなった岡本は、当時日本女子王者だった松元恵氏が主催するフリーダイビング講習会の門を叩いた。(文中敬称略)
(バナー写真撮影:大倉清司、文中写真提供:岡本美鈴)