【岡本美鈴】生死のラインを2度越えて、“普通のOL”から海の王者へ

2016/4/12
小笠原の海でイルカと泳げると知ればすぐに小笠原に行き、それが楽しいと感じたら、片道25時間をかけて何度も島に通う。  
フリーダイビングの大会に誘われれば見学に行き、DVDを観て心をつかまれると、躊躇(ちゅうちょ)なくスクールに通い始める。
まるで「思い立ったら即行動」を体現するようなエネルギーだが、岡本美鈴の子ども時代は本人いわく「なんの特徴もない普通の子」。短大を卒業して社会人になってからも、「絵に描いたような普通のOL」だった。
実際、彼女は体格も小柄で、失礼ながら世界の頂点に立つ女性には見えない。 
どこにでもいるような目立たない女性だった岡本を決定的に変えた2つの出来事がある。
1つは岡本が22歳のとき、1995年3月20日に起きた。
そう、地下鉄サリン事件である。

偶然で得た「九死に一生」

昇降機やビルのメンテナンスを手がける企業で営業をしていた岡本は、実家の浦安から営業所のある東銀座まで通っていた。
舞浜から京葉線で八丁堀まで行き、日比谷線に乗り換えて東銀座に向かうのが通勤路だ。
岡本はいつも、八丁堀で日比谷線に乗り換えるとき、最後尾の車両に乗っていた。
ところが3月20日に限って、珍しく早起きをしていつもより時間に余裕があったため、東銀座の降り口に近い前方の車両に乗った。
この偶然が、運命を分けた。
築地で電車が止まり、「逃げてください」と車内放送が入って、わけもわからず車外に出ると、後方の車両から出てきた大勢の人が、口を覆いながら前方の出口を目指していた。
そこで上司に会った岡本は、一緒に地上に出て事務所に向かったのだが、次第に体調がおかしくなった。
目に猛烈な違和感があり、立っていられないほど気持ち悪くなった。
机に突っ伏していると、テレビで事件を知った母親が「うちの美鈴は大丈夫か?」と事務所に電話をかけてきて、周囲の人が岡本の異変に気づき、病院に担ぎこんだ。
幸い軽症で済んだが、こみ上げてくる恐怖心を抑えることはできなかった。
「サリンは後方の車両でまかれたので、いつもの最後尾の車両だったら、危なかった。私はものぐさだから、きっと最後まで動かなかったでしょう。そしたら、私も死んでいたかもしれないと思って、ガツンと頭を殴られた感じがしました。人が亡くなるニュースを見てもいつも他人ごとで生きてきたけど、この事件を体験して、こんなに普通の人間の私でさえも明日生きている保証はないんだと、思い知りました」

重さ5キロの腫瘍が破裂寸前

体調が回復した後も、特捜部の人間が何度も職場を訪ねてくるなどして落ち着かない日々が続き、岡本は次第に事件に関して口を閉ざすようになっていった。
このときのストレスが影響しているわけではないだろうが、翌年、今度は病魔に襲われる。
太ったのかな? というのが最初の印象だった。気づかないうちに、おなかがポッコリと出ていたのだ。
少しでもおなかをへこめようと腹筋をしたが、まるで効果がない。それどころか、ますますおなかの出っ張りが目立ち始め、ついには空腹なのに食べられない、何もしていないのに息苦しいという症状が出てきた。
さすがに心配になって母親におなかを見せると、母親は仰天。翌日、2人で病院に行ったところ、即手術という診断がなされた。
「『腫瘍がおなか全体に広がっていて、すべての臓器を圧迫しています』と言われました。それで臓器の精密検査をしてから摘出手術をしたのですが、取り出してみたら、腫瘍が5キロもあったんです。中身は水だったけど破裂寸前で、破裂したら即死。それを知らないでガンガン腹筋していたし、本当に危なかった。お医者さんには、『一命を取り留めましたね』と言われました」

死のリスクを抱え、意識が変化

5キロといえば、スーパーで売っている米袋と同じ重さだ。それがおなかの中で膨張して、命を脅かしていたのである。
しかも、体内には良性の腫瘍が残されていて、医者には「注意して観察して、そのたびに対応していくしかない」と言われた。
地下鉄サリン事件と巨大な腫瘍で2度も生死のラインを踏み越えかけたうえに、今後の人生でもリスクを抱えていくことになる。
この重い事実によって、「普通のOL」だった彼女の意識が変化していく。
「やりたいことがあったら、今やっておかないといつ死んじゃうかわからないし、いつ手術しなきゃいけなくなるかわからない。先のことは考えますけど、でもその先はあるかどうかもわからない。だから、いつかやろうじゃなくて、やりたいことはどんどんやらなきゃと思うようになりました」
悔いのないように生きたい。
口先ではない切実なこの想いが、彼女をフリーダイビングの世界に導いたのだ。

恐怖心克服し、海の世界を開拓

2003年、30歳のとき、ひょんなことからフリーダイバーたちと出会い、興味を持った岡本は、当時女性の日本王者だった松元恵が主催する1泊2日のフリーダイビング講習会に参加。
知人から借りたフリーダイビングのDVDに登場していた松元を目の前にして、「テンションマックスで、目が星になってた」岡本は、200%吸収しようという意気込みで初めてのトレーニングに臨んだ。
海で行われるフリーダイビングには、3つの競技がある。足ヒレをつけて潜る種目(コンスタントウェイト・ウィズフィン)と、つけずに潜る種目(コンスタントウェイト・ウィズアウトフィン)、手でロープをたどって水中に降りていく種目(フリー・イマージョン)だ。
当時、ほぼカナヅチだった岡本は必然的に足ヒレをつけて練習を始めた。
松元に素潜りのコツを教わると、足ヒレのおかげもあってすぐに水深8メートルまで潜れるようになり、「海の中でイルカと遊べるように、もっと深く、長く潜りたい」と、一気にフリーダイビングにはまっていった。 
そして、「足ヒレがないと溺れてしまう」という恐怖心を克服するために、市営プールの水泳教室とスポーツクラブに通い、1年間で2キロ泳げるようになった。そうしたら、海中の世界が開けていった。
「泳げないときは常に、足ヒレが脱げたらヤバいと思っていたから、緊張して身体に力が入って、酸素消費量が増えて、水中で息も続かない。でも泳げるようになると、裸足でも平気になって、水の中で心からリラックスできるようになりました。水の中が、アウェイからホームになったんです」
泳げるようになると、練習のメニューの幅も格段に広がる。過去の経験から、好きなこと、楽しいことを追求することに躊躇がない岡本は、あっという間に10メートル、20メートルと記録を伸ばしていった。(文中敬称略)
(バナー写真撮影:Daan Verhoeven、文中写真提供:岡本美鈴)