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豊田章男とモリゾウ

なぜ豊田章男は「道楽者」と揶揄されても、レースに出るのか

2016/4/9

「僕は道楽者だと言われる」

今から5年前のことだ。ドイツ西部にあるニュルブルクリンクというサーキットで、私はトヨタ自動車の社長・豊田章男に初めて話を聞く機会を得た。

そのとき彼はクルマと工具の騒音が響き渡るピット内で、こちらに聞こえるように声を大きくしてそう言った。

ノルドシュライフェと呼ばれるニュルブルクリンクの北コースは、全長約20キロメートルの歴史あるサーキットだ。

世界中のメーカーが開発テストに利用する自動車開発の聖地と呼ばれる場所で、2011年6月のその日、そこでは年に1度の24時間耐久レースが開かれていた。
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トヨタは2台のレクサスLFAを持ち込んでおり、2007年からこの耐久レースへの参戦を主導してきた豊田は、役員時代には自らもドライバーとして参加していた。

彼はチーム名である「GAZOO Racing(ガズーレーシング)」のジャンパーに帽子という姿。

社員の中から選抜された半分素人のメカニックに声をかけ、ドライバーたちとクルマの調子について気さくに話し合っていた。

「道楽者」という言葉をその中で使ったのは、そのようにレースに参戦することに対する社内外の視線が、今よりもずっと厳しいものだったからだ。

だが、なぜ彼はそうした批判の声にかかわらず、現在に至るまでモータースポーツに力を入れ続けるのだろうか。

その背景を知ることは、豊田章男という経営者の実像を知るうえで欠かせない要素の一つだ、という思いが私にはあった。

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「僕は馬鹿だ、のろまだと言われてきた。何しろこんな苗字でしょ。でも、その中で社長になるにあたって決めたことがある。それは逃げないこと、嘘をつかないこと、誰のせいにもしないこと」と、彼は続けた。

「僕の目的はこうした極限の経験を、最終的には普通のモデルに生かしていくことなんだ。その意味は言葉ではなく、クルマづくりの中で示さなければならない。いずれそのことはわかってもらえるはずだ、と信じているんだ」
 
社長就任以来、豊田には発し続けている一つのメッセージがある。それは「もっといいクルマづくり」という言葉だ。

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そのシンプルで抽象的なメッセージは当初、マスメディアだけではなく多くの社員を戸惑わせた。

誰もがこれまでと同じように、具体的な数値目標をトップの口から聞きたがったからだ。

それは14年ぶりに創業家出身の社長が就任して、最初に表れた大きな変化の一つだった。

豊田はこのキャッチフレーズにこだわり、自身の経営手法の中心に据えてきた。

その背景には自身をニュルブルクリンクの耐久レースに誘い、「師」と仰いだ成瀬弘という名の社内テストドライバーの姿がある。

成瀬弘は前年の2010年、ニュルブルクリンク近郊でのテスト走行中に事故死した人物で、私は彼の評伝(『豊田章男が愛したテストドライバー』小学館刊)を書くための取材を続けていた。

その中で豊田に成瀬との日々を尋ねることが、ドイツのサーキットをはるばる訪れた理由だった。

結果的にその取材は5年間にわたった。そこで、ここでは成瀬との交流を取材することで見えてきた、豊田の人物像の一側面を紹介したい。

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豊田が成瀬に出会ったのは約15年前のことだった。当時、アメリカ現地法人の副社長だった豊田は、豊田市の本社ビルで成瀬とある会話を交わした。

成瀬は専門学校を卒業後、トヨタに入社した叩き上げの50代のテストドライバー。

日本におけるレースの黎明(れいめい)期を20代のメカニックとして過ごし、トヨタの歴代のスポーツカーの開発にも携わった。

社内の評価ドライバー育成制度の頂点にいる彼は、このときこう言ったという。

「運転のこともわからない人に、クルマのことをああだこうだと言われたくない」

「不思議と嫌な気はしなかったんだ」と豊田は振り返る。

「このトヨタの中には、俺たちみたいに命をかけてクルマをつくっている人間がいる。そのことを忘れないでほしい」成瀬はそう話すと、「月に一度でもいい、もしその気があるなら、俺が運転を教えるよ」と豊田を運転訓練に誘った。

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それは臨時工出身で現場一筋の一人の社員と、豊田姓を持つ創業家の男との運命的な出会いだった。

以来、2人は静岡県袋井市にあるヤマハのテストコースなどで、過酷な運転訓練を月に一度のペースで行うようになった。

「それから、僕はアメリカで本当に好きだったゴルフをやめた。真剣にクルマをやり始めたら、ゴルフをしている場合じゃなくなったから。優先順位ってものがあるでしょ。クラブをステアリングに持ち替えたんだよ」

成瀬は時にトヨタ車やトヨタのクルマづくりに対して、豊田に対してもほかの開発者に対しても、厳しい意見を繰り返し語ってきた。

彼は国内外のさまざまな車種に豊田を乗せ、そして1台のレクサスを少しずつ改造しては、乗り味の変化を感じさせた。

クルマづくりには終わりがないこと。だからこそ、人を鍛え、クルマを鍛えるのだということ……。

そうして自動車の本質や魅力を伝えようとすることは、当時のトヨタが見失っていたものづくりの哲学、本来の「現地現物」の精神を豊田に気づかせようとする試みだったに違いない。

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ニュルブルクリンクでの24時間レースへの参戦も、そんな「社長育成」の一環として成瀬が提案したものだった。

欧州のメーカーでは重役がサーキットを走るのは、それほど珍しいことではない。

20年以上にわたってニュルブルクリンクを走り続け、欧州の自動車文化を深く知る成瀬は常にこう語っていたそうだ。

「自動車会社の社長がクルマに乗って何が悪い?」
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(文中敬称略、写真:奥野静香)