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非常時に求められる臨機応変の対応

【猪瀬直樹】東日本大震災から5年、今われわれが考えるべきこと

2016/3/11
本日は3月11日。2011年に東日本大震災が発生して丸5年となる。今、われわれが改めて考えるべきことは何なのだろうか。NewsPicksでは2011年当時、東京都の副知事であった猪瀬直樹氏からの寄稿を掲載する。猪瀬氏は副知事として未曽有の危機にどう立ち向かったのか、また、首都圏の防災に必要なことは何なのだろうか。当時を振り返りながら執筆してもらった。
1946年、長野県生まれ。87年『ミカドの肖像』で第18回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。『日本国の研究』で96年度文藝春秋読者賞受賞。以降、特殊法人等の廃止・民営化に取り組み、2002年、小泉純一郎首相より道路公団民営化委員に任命される。東京大学客員教授、東京工業大学特任教授などを歴任。07年、東京都副知事に任命される。2012年から13年、東京都知事。2015年より日本文明研究所所長、大阪府市特別顧問。主著に、『ペルソナ 三島由紀夫伝』『ピカレスク 太宰治伝』『昭和16年夏の敗戦』『天皇の影法師』、近著に『さようならと言ってなかった わが愛 わが罪』『救出: 3・11気仙沼 公民館に取り残された446人』『戦争・天皇・国家 近代化150年を問いなおす』(田原総一朗氏との共著)などがある。

1946年長野県生まれ。1987年『ミカドの肖像』で第18回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。『日本国の研究』で1996年度文藝春秋読者賞受賞。以降、特殊法人等の廃止・民営化に取り組み、2002年、小泉純一郎首相より道路公団民営化委員に任命される。東京大学客員教授、東京工業大学特任教授などを歴任。2007年東京都副知事に任命される。2012年から13年、東京都知事。2015年より日本文明研究所所長、大阪府市特別顧問。主著に、『ペルソナ 三島由紀夫伝』『ピカレスク 太宰治伝』『昭和16年夏の敗戦』『天皇の影法師』、近著に『さようならと言ってなかった わが愛 わが罪』『救出: 3・11気仙沼 公民館に取り残された446人』『戦争・天皇・国家 近代化150年を問いなおす』(田原総一朗氏との共著)などがある

東日本大震災が発生

5年前を振り返ってみたい。そしてどんな教訓を得たらよいか考えてみたい。

2011年3月11日14時46分、マグニチュード9.0を記録した東日本大震災が発生した。その日、14時20分に都議会が終わっている。最後の議決が、たまたま耐震化条例だった。

東京23区内をぐるりと巡る環状7号線(通称「環七」)の両側には、築35年とか築40年のマンションがたくさん立っている。1981年以前の建物は耐震基準が緩いので、耐震補強をしないと、地震のときに倒壊のおそれがある。阪神・淡路大震災で倒れたビルが幹線道路をふさいで、救急車や消防車などの緊急車両の通行を妨げた。

その教訓を踏まえ、東京都は主要道路の沿道にある建物を対象に、耐震診断を義務化する条例を可決したのである。それが東日本大震災発生の直前のことだったのだ。

耐震工事をした場合の自己負担は6分の1で済むようにした。従来の補助金は国が3分の1、東京都が3分の1、自己負担が3分の1だが、東京都の負担をかさ上げし、自己負担を軽減してインセンティブをもたせた。

壁面に斜めに鉄骨を入れたりする補強工事をすれば、工事代金の6分の1が自己負担で、残りの6分の5は補助金が出る仕組みである。しかも耐震診断は無料とした。

石原慎太郎知事と副知事の僕は都議会本会議のある議会棟から渡り廊下を歩いて、本庁舎7階の知事室に入った頃だった。

突然、知事室がミシミシと不気味なきしみ音を立て始めた。超高層ビルは柔構造になっていて、柳のように揺れる。都庁舎は強風の日でもミシミシと揺れることがある。「この建物は、よく音を立てるなあ」などと話しをしていたが、なかなか揺れが収まらない。「あれ、これは地震かな。ちょっとテーブルの下に入ろうか」と石原さんが言うので、僕も入った。

ところが、あのときは揺れが長く続いて、30秒ぐらいすると、大丈夫ではないかと、2人を顔を見合わせてテーブルの下から抜け出した。だが、まだ揺れている。それどころか揺れが大きくなった。

これは大変だと思い、揺れが収まったのを見計らって、石原さんとともに9階の防災センターへ向かった。エレベータに乗ろうとしたが、職員が「エレベータ」は停まっています!」と叫ぶので、僕は急勾配の非常階段を一気に駆け上った。

都県境など無意味なのだ

防災センターには大画面があって、しばらくすると千葉県市原市のコンピナートから炎が立ち上った。

東京消防庁の防災部長に、消防艇を出せないか、と提案した。消防艇で海側から放水すればよいのではないか。千葉県側からの要請がないと東京消防の消防艇は出せないのだが、コンピナートは東京湾でつながっている。

都県境など無意味なのだ。それで要請がないけれど、出動することにした。出発して現場に到着するまでに時間があり、その間に要請が入るに違いないと思ったからだ。事後報告でよいのだ。事実あとから千葉県知事の要請があった。

もう一つ、要請がないけれど現場にかけつけた例は、気仙沼市へのヘリコプターの出動だった。

気仙沼湾が火の海になっている。NHKの映像を見たのは午後8時過ぎだった。自衛隊機からの空撮映像である。

帰宅困難者があふれていた。JR東日本が午後5時30分に「今日は電車を動かさない」と決めてしまった。私鉄や地下鉄も一時的に運行を停止した。

乗客は復旧し次第、電車が動き帰宅できるかもしれないと期待し、電車が動きそうになければ徒歩で帰宅するしかないと考えたり、一晩を過ごす場所があればそこに避難すればよいのかもしれない、とさまざまな判断の間で迷っていた。情報が求められていた。

小中学校や高校や劇場や催場など公的施設の開放状況を随時、都庁ホームページに載せた。午後8時にNHKが「東京都のホームページで避難場所をご覧ください」とアナウンスするとアクセスが殺到し、ホームページはパンクしてしまった。

パニックの際にはデマが多い

そこで僕はツイッターで避難場所や地下鉄の運行状況の情報を流し始めた。アクセスできないホームページのバイパスをつくった。都営地下鉄が午後9時過ぎから動き始めた。そのツイートを続けると、リツイートが1万を超えた。ツイッターの役割を痛感した。

その後、発信が一段落すると、ツイートがどの程度届いているのか、帰宅困難者からどういう反応や要望が届いているのか、僕の使っているアカウントへのリプライを紙に刷りだした。かなりの枚数になった。一つひとつチェックした。その一つに目が釘付けになった。

「障害者児童施設の園長である私の母が、その子供たち10数人と一緒に、避難先の宮城県気仙沼市中央公民館の三階にまだ取り残されています。下階や外は津波が浸水し、地上からは近寄れない模様。もし空からの救助が可能であれば、子供達だけでも助けてあげられませんでしょうか」

パニックの際にはデマ情報が多い。関東大震災では、朝鮮人が井戸に毒を入れた、というデマが流された。だがこの一文はデマとは思えない。そこで東京消防の防災部長を呼んで感想を求めた。彼もデマではない、と判断した。

救出するにはどうしたらよいか。気仙沼の消防署は被災して、現地では119番が崩壊しているのだから、要請が来るわけがない。こちらで勝手に判断するしかない。防災部長に、「前例がなくてもやれますね」と確認すると「緊急事態です。やりましょう」と言ってくれた。こうしてヘリコプターの出動を決めた。

ヘリは有視界飛行なので早朝に発進した。中央公民館では食糧も水もなく446人が孤立しながら励まし合って一夜を過ごしていた。0歳児を含めて保育園児が71人もいた。

障害児施設の園長が震える手で打ったメールは「公民館にいる」「火の海 ダメかも 頑張る」という短いものだったが、それを受け取ったのはロンドンに住んでいる息子だった。その息子が打ったツイッターを@inosenaoki宛てに送ってきたのは見ず知らずの零細企業の社長だった。

当たり前だが非常時には臨機応変の対応が求められる。一刻を争うので形式的な手続きなどはあえて無視して構わない。手続きなどしたくてもできないのだから。そしてSNSの持つ潜在力である。気仙沼、ロンドン、東京と空間的な距離が意味を持たないフラット感、それが威力であった。

気仙沼だけでなく被災地では基地局が津波に襲われた。倒れなかった基地局も電源が切れ通信が途絶えている。緊急用折り畳みの小型基地局の設置など、今後の教訓になるだろう。

参考・拙著『決断する力』(PHP研究所)、『救出 3.11 気仙沼公民館に取り残された446人』(河出書房新社)

(写真:iStock.com/Starcevic)