【宮崎辰】うつになるほどの重圧をはねのけ、レストランサービス日本一へ

2016/2/13
早くサービスマンとして一人前になろうと、宮崎辰はがむしゃらに勉強した。
しかし、実際にゲストと接するホールでの仕事は、知識や技術だけでは全うできない。
ホール内のささいな変化に気づく感性やさまざまなオーダーに対応できる柔軟性、ゲストとの適切な距離感など、現場で必要とされるテーブルサービスのイロハを宮崎にたたき込んだのが、坂井ひろしだった。矢野智之が支配人を務める港区のレストランに、副支配人として入ってきた。

2人の師匠から学んだ感覚

坂井は、緻密に計算された隙のないサービスをする職人タイプで、宮崎に「サービスとは『間』」だと説いた。
「坂井さんは、ダイニングでの存在感はほとんど『無』。でも、絶妙なタイミングでパッと出てきて料理を出し、皿を下げて、いつの間にか消えている。まるで、切れ味の良い名刀のような美しいサービスです。この『間』がおまえにはわかるか、と言われたのですが、わからないからずっと坂井さんの仕事ぶりを見ていました。そうしたら、ゲストとの間合いを測るために、目だけじゃなくて、すべての感覚を研ぎ澄ませて仕事をしていると気づきました。これはすごい、この人みたいに仕事ができるようになりたいと思いましたね」
まだ駆け出しの頃に、「この人のようになりたい」と思える師匠、矢野と坂井に出会えたことは幸運だった。目指す背中が遠くにあるなら、その距離を詰めるために全力で駆けるしかない。
宮崎は、2人の師匠それぞれの強みを自分のものにするために、それぞれの仕事を必死に観察し、脳裏に焼き付けて、まねすることを何度も繰り返した。
そうして24歳になった頃、メートル・ドテルのサポート役であるシェフ・ドランに昇格。このときに仕立ててもらったタキシードが、12年後の世界大会で勝負服となる。

日本一に立ちはだかる壁

少しでも2人の師匠との距離を縮めようと、わき目もふらずに仕事に打ち込んでいるうちに、宮崎の実力は日本トップクラスになっていた。
2006年、坂井が支配人を務めるレストランに移り、シェフ・ドランをしていた29歳のとき、レストランサービス日本一を決める「メートル・ド・セルヴィス杯」に挑戦する。
この大会で、初出場にして準優勝に輝いたのである。このとき、自分が歩んできた道に手ごたえを感じた宮崎は、次の2008年に開催される大会で必ず日本一になると心に決めた。
翌年にはついにメートル・ドテルに昇格し、順調にキャリアを積んで迎えた2度目の挑戦ではしかし、3位という成績に終わる。
「敗因は、精神力です。その場の雰囲気にのまれて、落ち着いていつも通りのサービスができなかった。本来、フランス料理のサービスはフォーマルなのですが、ある審査員がずいぶんとフレンドリーな雰囲気で、どんどん話しかけてきました。その方の話術に乗せられて、調子に乗って少しフランクなサービスになってしまったのです。後日、その方がつけた僕の点数がものすごく低くて、『彼はダメだね』と言っていたと聞きました」

給料を注ぎ込んで修行の日々

2年前よりも順位が落ちているということは、周囲と比べて成長の速度が遅い、あるいは成長が止まっていることを意味する。
働いていたレストランからは、「坂井支配人が店を去るから、後任に就かないか」というオファーを受けたが、このままでは終われないと辞退し、退職する。別のレストランに移ると、日本一になるために、サービス、語学やワインの勉強などすべてをイチからやり直した。
たとえば、日本におけるレストランサービスの第一人者である下野隆祥氏の講習会に何度も足を運んだ。
さらに、苦手としていたデクパージュ(切り分け)の腕を上げるために、肉や魚を大量に買い込んでは自宅で練習に明け暮れた。家賃など必要な経費を除く給料のほとんどを、食材の購入につぎ込んだほどだった。

最高峰レストランから異例の誘い

「誰しもに『こいつがトップだ』と認められるためには、技術、話術、すべてで圧倒的な差をつければいい」と、まさにすべてを投じて日本一を目指していた宮崎に、予想外のオファーが舞い込んだのは大会決勝の数カ月前だった。
日本最高峰のフレンチレストランであるジョエル・ロブションから、「メートル・ドテルとして働かないか」と誘われたのだ。伝統と格式のあるジョエル・ロブションほどのレストランではメートル・ドテルを外部から採用するはまれで、しかもまだ33歳の人間に任せるという判断は異例のことだった。
本来であればこれ以上ない話だが、宮崎は動揺した。大会直前に職場を変えることに対する不安と、自分の力が通用するかという重圧を感じた。しかし、「世界でも名を知られる店で働くチャンスを前に怯んでいては、日本一にもなれないだろう」とオファーを受けた。
そして大会決勝2カ月前の2010年9月、宮崎はジョエル・ロブションのメートル・ドテルに就任した。
全方位から「新しいメートル・ドテルはどんなものか」という視線を向けられながら、レストランの司令塔として、調理も含めたスタッフの名前を覚え、性格を把握して、万事が滞りないように采配を振るのは神経を使う。この仕事だけで胃が痛くなりそうだが、宮崎はさらに大会に向けての準備も続けていた。 

苦境の中、師匠の手紙で覚醒

怒濤(どとう)の日々の中で、宮崎は体調を崩し、原因不明の倦怠感と不安感に襲われた。病院に行くと、うつ病と診断された。このままでは、ロブションの仕事も大会も中途半端になってしまう。それは、プロフェッショナルとして許されないことだ。でも、どちらも完璧にこなすのは難しい……。
宮崎は、眼前にぶ厚い暗雲が立ち込めてくるのを感じたが、大会直前のある日に届いたFAXがすべてを吹き飛ばした。
3枚届いたFAXには、師匠である矢野からのアドバイスがつづられていた。激励のメッセージの最後には、こう記されていた。
「絶対に勝ちたいという強い気持ちを持て。それがなければ勝つことはできない」
弱気になりかけていた宮崎は、この言葉で思いっきり横っ面を引ったたかれ、目を覚ました。この2年、自分は誰よりも努力を重ねてきたはずだ。やるべきことはすべてやった。これで勝てなければ、そこまでということ。悔いの残らないようにやろう──。
2010年11月25日、宮崎は3度目の挑戦で念願の日本一の座を手にした。(文中敬称略)
(撮影:TOBI)