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自らをメディア化し社会と向きあう

【落合陽一】なぜ、僕は21世紀を「魔法の世紀」と呼ぶのか

2016/2/8
本日より、“現代の魔法使い” とも呼ばれる落合陽一氏がプロピッカーに参画することとなった。昨年刊行された著書『魔法の世紀』も大ヒット中の落合氏が今最も注目していることとは? NewsPicks編集部は落合氏に寄稿を依頼した。
コンピュータとアナログなテクノロジーを組み合わせ、物理世界をハックする作品や研究で知られる。2015年より筑波大学助教・デジタルネイチャー研究室主宰。研究室では、デジタルとアナログ、リアルとバーチャルの区別を超えた新たな自然「デジタルネイチャー」を科学し、哲学し、実装することで未来を目指している。14年にはCG Channel(有名CGサイト)が選ぶBest SIGGRAPH論文にも選ばれ、アート部門、研究部門のプレスカバー作品をひとりで独占した。BBCやディスカバリーなど世界各国のメディアに取り上げられ、国内外で受賞多数。研究動画の総再生数は380万回を超え、近頃ではテレビやバラエティ、コメンテーターなど活動の幅を広げている

コンピュータとアナログなテクノロジーを組み合わせ、物理世界をハックする作品や研究で知られる。2015年より筑波大学助教・デジタルネイチャー研究室主宰。研究室では、デジタルとアナログ、リアルとバーチャルの区別を超えた新たな自然「デジタルネイチャー」を科学し、哲学し、実装することで未来を目指している。14年にはCG Channel(有名CGサイト)が選ぶBest SIGGRAPH論文にも選ばれ、アート部門、研究部門のプレスカバー作品をひとりで独占した。BBCやディスカバリーなど世界各国のメディアに取り上げられ、国内外で受賞多数。研究動画の総再生数は380万回を超え、近頃ではテレビやバラエティ、コメンテーターなど活動の幅を広げている

1.はじめに

こんにちは、落合陽一です。初めましての方は初めまして、テレビで見たことあるな、という方はこの記事を読んで落合が大体どういう人間なのかということをわかっていただけたらなと思います。

普段は筑波大で助教としてデジタルネイチャー研究室という研究室を主催しているほか、メディアアーティストとして作品をつくっていたり、研究の社会実装として会社を起こしたりしています。今回は僕が研究や表現のときに使っているデジタルネイチャーという概念や、今後の世界の行方を考える上で参考になるであろう「映像と魔法」のパラダイムなどについてお読みいただければと思います.
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僕の目指している世界は「20世紀的映像のパラダイム」の次に来る世界のことです。僕は、20世紀を映像の世紀と呼んでいますが、21世紀はそれを超えた魔法の世紀だと思っています。なんだそれは?! と思うかもしれませんが、短い記事なので最後までお付き合いください。

2.映像というパラダイムを超えて

19世紀末、エジソンやリュミエール兄弟によって映像装置が発明され、人類はイメージと時間を共有することが可能になりました。映像自体が社会的なパラダイムだと思っている方はさほど多くないでしょうが、20世紀的映像コミュニケーションはいくつかの様式を決定しました。
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何かの仕組みに発信者がいて受信者がいること、皆で消費できるコンテンツがあり、それを提供するメディアがあること、そして、2次元的なイメージをベースとしたコミュニケーションがあり、それが虚構的なお話を生み出すことなどがあります。

たとえば、テレビというメディアについて考えてみてください。

テレビはテレビ局からほぼ一方向的に番組が発信され、バラエティ番組やニュース番組などのコンテンツがあり、それは電波によって伝えられテレビスクリーンというメディアによって映し出される。

画面は2次元もしくは2.5次元的な映像を映し出し、それを視覚的聴覚的に拾うことによって受け手は、ストーリーを理解する。

画面の向こうで紡ぎ出されるお話は「制作された」虚構のものであり、今その画面の上で起こっているわけではありません。

旧来のメディアを用いたコミュニケーションはこのような性質があり、皆で共有できる大きなコンテンツが送られてきました。

たとえば、前世紀の戦争対立や世論や風潮といったものがかたちづくられるためにはこういうマスコミュニケーションが大きな役割を果たしていました。他にも、たとえば、テレビ電話をかけても一度二次元化された視覚イメージ以上の対話は不可能でした。

今、21世紀になり、あらゆるところでコンピュータが使われ、インターネットをかたちづくり、一方向性のあるコミュニケーションは無指向性の、そして双方向性のあるコミュニケーションスタイルに変わっていきました。

たとえば、誰一人として同じタイムラインを持っているTwitterユーザーはいませんし、リプライを送ればハリウッドスターにも到達可能であり、時間は同期されているように見えて、アプリを開くタイミングによって擬似同期性のある対話関係を形づくっています。
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このような変化は、大きなコンテンツや文脈を消費するといった形態から、個別のコミュニティに特化した文脈主義へと取って代わり、コンテンツの消費からコミュニケーションの消費になりつつあります。

たとえば、AKB48を見れば、一人1万枚の売り上げのあるアイドルを100人集めて100万枚の売り上げを形づくるようなシステムになっていますし、握手会を含め、コンテンツから体験できるコミュニケーションに形が移って行っています。

他にもたとえば国内で見れば映画産業の総売上とハロウィンの総売上が変わらなくなってきているし、コンテンツとしての大きいものからコミュニケーションへの移行が次々に行われるようになってきました。
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その流れをつくっているのは無指向性・コミュニティ性の高くなったインターネットコミュニケーションだといえるでしょう。

こういった社会変化を1981年にモリスバーマンは「デカルトからベイトソンへ:世界の再魔術化」の中で、科学技術によるまじないの消失・脱魔術化に対するパラダイムとして、社会の再魔術化という言葉で説明しました。

僕が頻繁に使用する「魔法の世紀」や「魔法」という言葉はそのオマージュです。1980年代に指摘されたような工業社会の性質がポスト工業社会、そして、コンピュータ社会の枠組みではさらに魔術化が進行していく。コンピュータの情報独立的性質=互いにブラックボックス化していく性質によって、それは個々人の専門性の範疇以外では魔法でしかなくなる。
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インターネットやSNS、一見すると仕組みのわからない関係性によって無指向性・無関係性的に接続された個人たちによるメディアは一方向的だったマスコミュニケーションとは異なった様相をつくるのではないかという指摘であり、その一部なコミュニケーションの消費へ、そして大きな文脈であったマスコンテンツは徐々にコミュニティコンテンツに移行し、技術はコンピュータによってさらに高度に魔術化し、人間中心の人間観も変化していくという予想を持っています。
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3.ユビキタスからデジタルネイチャー

では、それを支える技術的な側面と、人間観はどう変わっていくのでしょうか。ユビキタスという言葉が言われて久しいですが、ユビキタスの先はどう変わっていくのでしょうか。それにはコンピュータと人の関わりの歴史をひもといてみる必要があると思います。

ちょっとコンピュータと人の関わりの歴史を復習しましょう。1937年、クロードシャノンが彼の修士論文の中でブール代数をスイッチ回路で解くことを示し、デジタル計算機という概念が醸成されていくきっかけになりました。
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その後クロードシャノンがMITの教職についていた1960年代、教え子のアイバンサザランドがコンピュータグラフィクスを発明し、バーチャルリアリティのためのヘッドマウントディスプレイを発明した頃、コンピュータは専門家が設計や医療などの問題を解くためのツールでした。今年でHMDの発明から50余年、研究においてコンピュータのツールとしてのコンセプトは数十年単位で先行しています。
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1970年代になるとアランケイがパーソナルコンピュータを提唱し、やがてマルチメディアを扱えるプログラム可能な装置が社会に出てくることを予見しました。

80年代になるとビルゲイツやスティーブジョブズといったパソコン革命の立役者によって社会実装され、90年代にはマークワイザーによってユビキタスコンピューティングが提唱されるに至ります。

1991年に書かれたThe Computer For 21 centuryという論文では高度に発達した無線網によって「我々がデジタル計算機とそれ以外の区別をすることなくコンピューティングをしていくこと」が提案されます。ユビキタスコンピューティングの提唱です。
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まさにそこに出てくる図は25年後のわれわれの姿を予見したような図でした。われわれが働くとき、プロジェクターなどにより二次元イメージを移しだすことによって共有し、それを情報処理ツールを駆使して受け取る。

今、デジタル計算機が生まれて80年、ちょうどデジタル化の波は成熟し、次のわれわれの世界に関するビジョンが求められています。

僕はポストマルチメディア・ポストピクセルのコンピューティングに向けて”デジタルネイチャー”というビジョンを打ち出し研究しています。

デジタルネイチャーとは、人間のためのコンピュータ観を捨て、精神・物質・身体が統一的にコンピュータによって記述されている環境です.

たとえば、下記のような研究をしているのですが、物理場を操ることで、この世界にハードウェアから独立した表現をつくり出していく.コンピュータと言うものを形あるものから形ないものに変えるため、音場をホログラム合成して、どういう形にするか.ものの動きや触覚をどう記述するのか、光をホログラム合成してできるプラズマによって視覚や触覚をどうやって記述していくのかということをやっています.

研究室を始めて9カ月余り、今年は、僕らしい外見上も魔法的な表現から、人間性を問いかけるような作品まで多くのものが出てくると思いますのでご期待ください。

このようなデジタルネイチャー観ですが、上述したようにそこではデカルト的ではない人間観が存在し、デカルト的な「人間という精神と肉体」を主体とした世界理解から、計算機によって、ベイトソン的な「もの、精神、身体が統一的に記述されていく」と考えています。

これは上記バーマンの指摘でもあるのですが、そこと異なる点としては、ベイトソンが自然と対峙する人間像を示したのに対しベイトソンの時代と異なり、記述装置としてのコンピュータを手に入れたわれわれは、計算機によって解釈される自然=デジタルネイチャーというパラダイムへ移ることができる。

僕らの生きる21世紀にはこのパラダイムがコンピュータという演算・観測・干渉装置によってわれわれの物理的身体や物理的社会、精神・情報処理・芸術・文化のあらゆるところに干渉してきます。

そのために物理場を操ることで、ものや空間をコントロールし、同じロジックで感覚の逆行列や、身体性の拡張、精神や現実認識のコントロールを行っています。映像から物質へ、イメージから実体へ、画面という不完全な二次元イメージから、三次元イメージをつくり出すため、研究室の仲間と日々研究したり、制作したりを行っています。

4.21世紀のアーティスト・研究者像

そのような価値観の元研究をしているのですが、同時にメディアアーティストと名乗る芸術家として世界のギャラリーや芸術祭などで作品を展示したりもしています。

僕の定義するメディアアートとはコンテンツなき芸術、芸術を表現するためのメディアを発明することによって社会批評性や文化批評性のある芸術を行う、メタ芸術的なものです。こう書くと理解しにくいのですが、たとえばエジソンのことを考えてみてください。

エジソンは生涯に1000以上の発明を行い、われわれの人間性の認知範囲や拡張を行っていきました。彼が芸術家やメディアアーティストでなく発明家や起業家として捉えられるのは、当時の社会の文化的構造に彼を表現者として批評する枠組みがなかったからだと考えることもできます。

そのように、発明の連続によってわれわれの精神・物質・身体に関する批評を行い、人の心を動かすような計算機をつくる。

そのためにメディアアートをし続けていく。僕にとって重要なのは、そのプロセスを最大化することなので、その手段は大学教員でもあり、アーティストでもあり、起業家でもあります。

それを実現していく可能性があるならばあらゆる情報発信や、メディアなどにも積極的に出演し、人類にそう言ったパラダイムをインストールするため、日々頑張っています。

日本の研究や文化がダメになる理由に助成金や税金があります。クールジャパンと言った瞬間に寒いものになり、税金を投入して研究するのが常態化すると研究者が自らお金を稼がなくなる。

その文化を変えて、21世紀の像をつくっていくには、偉いとか権威とかといった旧来の内向きの価値観を捨てて、自らをメディア化し社会と向きあって働いていくことが重要だと思います。

そういった文脈でNewsPicksでは僕の視座をメディアとして提供できるよう頑張っていきます! よろしくお願いします!
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(バナー写真:Maxiphoto/iStock.com、図表、記事内写真提供:落合陽一)