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ハーバード・ビジネススクール 竹内弘高教授(前編)

ハーバード竹内教授の原点。手紙と交渉で勝ち取った外資系の内定

2016/1/27

日本人で唯一、ハーバード大学経営大学院で教授を務める人物がいる。経営戦略の世界的エキスパート、竹内弘高氏だ。

ハーバードの同僚、マイケル・ポーター教授が「業界」や「競争相手」を分析して経営戦略を決める授業を行っているのに対し、竹内氏は主に日本企業を事例として「思い」や「信念」から始まる経営戦略を教えている。

時計の針を戻せば、竹内氏の人生の転機となったのは1964年東京五輪だった。2020年に再び東京五輪を控えた今、ハーバードに至る半生は現代の若者たちに大いに参考になるはずだ。

多くの学生団体の支援を行う横山匡氏(アゴス・ジャパン)が聞き手となり、次世代へのヒントを探る。

東京五輪に通訳として参加

横山:今、人材の国際化の必要性が高まっています。そもそも英語と出会ったきっかけは?

竹内:東京で生まれ育ったのですが、父親の意向で横浜にあるインターナショナルスクールに入りました。

父親は装身具をつくり自分の店で売っていたのですが、戦後に外国人の顧客と接する機会が増え、言語能力の必要性を痛感したのだと思います。

「これからは国際化だ、自分にないものを身につけさせたい」という思いから子どもたちに外国語を勉強させた。姉はフランス語を学び、末っ子の私は英語でした。

横山:竹内教授が高3のとき、東京五輪(1964年)が開催されました。それが人生の分岐点になったそうですね。

竹内:はい。自分の人生で東京で行われるオリンピックは最初で最後だと思い、大会の公式通訳をするためにインターナショナルスクールに「2カ月間休ませてほしい」とお願いしました。まさか再び東京でオリンピックが開催されるとは想像していなかったので(笑)。

東京五輪の公式通訳は、基本的には大学生ということだったのですが、どうしてもやりたかったので「五輪中に18歳になる」と言って、馬術競技の通訳になりました。

竹内弘高(たけうち・ひろたか) 1946年東京都出身。横浜のインターナショナルスクールから国際基督教大学に入学。マッキャン・エリクソン博報堂で1年半働いたあとに渡米し、1971年に米カリフォルニア大学バークレー校で経営学修士、1977年に博士号を取得。ハーバード・ビジネススクールで7年間勤め、娘の教育のために帰国して一橋大学へ。一橋大学を定年退職後、再びハーバード・ビジネススクールから声がかかって2010年に同校の教授に就任。ファーストリテイリングを経営する柳井正氏のパーソナルアドバイザーも務めている

竹内弘高(たけうち・ひろたか)
1946年東京都出身。横浜のインターナショナルスクールから国際基督教大学に入学。マッキャン・エリクソン博報堂で1年半働いたあとに渡米し、1971年に米カリフォルニア大学バークレー校で経営学修士、1977年に博士号を取得。ハーバード・ビジネススクールで7年間勤め、娘の教育のために帰国して一橋大学へ。一橋大学を定年退職後、再びハーバード・ビジネススクールから声がかかって2010年に同校教授に就任。ファーストリテイリングを経営する柳井正氏のパーソナルアドバイザーも務めている

ICUの学生との出会い

各大学の学生が競技ごとに割り振られ、馬術はICU(国際基督教大学)の担当でした。24人ほどいて、ICUでなかったのは私と麻生雪子さんの2人のみ。雪子さんは麻生太郎さんのお姉さんで、馬術をやっていた縁で通訳として参加していました。ちなみに私の父親は日本馬術連盟の役員でした。

馬術競技は軽井沢で行われ、皆でいっしょに万平ホテルにずっと滞在しました。驚いたのはICUの学生たちがすごく流ちょうに英語を話していたことでした。私はインターナショナルスクールに通っていたので、できるのは当たり前ですが、彼らは1年間フレッシュマン・イングリッシュをやっただけで、ほとんど変わりなく話せていました。

さらにICUは徹底したリベラル・アーツ教育を行っていて、彼らが「ハイデガーがどう、ニーチェがどう」といった哲学の話をしていて、私にはまったくわからなかった。彼らの持っている世界観、歴史観、文学観、すべてに驚かされて、彼らのようになりたいと思い、ICUに行こうと決めたんです。

横山匡(よこやま・ただし) 1958年、東京都生まれ。オートバイデザイナーだった父の仕事の関係で、中学2年時にイタリアへ。16歳のときにアメリカ・ロサンゼルスへ移り、現地の高校を経てUCLAに進学することになる。大学1年時のバスケットボールブームに魅了され、2年時にバスケット部のマネージャーに合格。卒業後は日本に帰国して留学指導・語学教育に携わり、のちにアゴス・ジャパンを設立。世界の名門大学、大学院を始め海外への留学指導とサポートを通じ世界を舞台に活躍したい人材の応援を行う。NewsPicksの佐々木紀彦編集長も、スタンフォード大学大学院への留学前にアゴス・ジャパンで学んだ

横山 匡(よこやま・ただし)
1958年、東京都生まれ。オートバイデザイナーだった父の仕事の関係で、中学2年時にイタリアへ。16歳のときにアメリカ・ロサンゼルスへ移り、現地の高校を経てUCLAに進学。大学1年時のバスケットボールブームに魅了され、2年時にバスケット部のマネージャーに合格。卒業後は日本に帰国して留学指導・語学教育に携わり、アゴス・ジャパンを設立。世界の名門大学、大学院をはじめ海外への留学指導とサポートを通じ世界を舞台に活躍したい人材の応援を行う。UCLAバスケットボールチーム・マネージャー時代の経験「なぜ日本人がUCLAバスケ部のヘッドマネージャーになれたのか」が昨年7月、NewsPicksに掲載された

前例を覆して提携の他校に留学

横山:人生のロールモデルに若くして出会う。素晴らしい縁ですね。

竹内:ただし、インターナショナルスクールに通わせたのは、アメリカの大学に行かせるためだったので、父親は烈火のごとく怒りました。それでも反対を押し切り、「必ず大学在学中に留学するから」と約束して、ICUへ行くことを認めてもらいました。

9月入学したらクラスの30人中25人が女性で、その中には、後に音楽・演劇・映画プロデューサーになる奈良橋陽子さん(『ラストサムライ』や『バベル』などの日本人のキャスティングに携わり、NHK朝ドラ『マッサン』のヒロインであるシャーロット・ケイト・フォックスを発掘)がいました。余談ながら、妻もこの25人の中の一人でした(笑)。

学園紛争で授業がなかったので、父親との約束を守るために、大学3年時にカリフォルニア大学バークレー校に留学しました。

横山:それまではICUの生徒はカリフォルニア大学サンタバーバラ校に留学していたのに、竹内教授はあえてバークレー校への道を選んだそうですね。

竹内:なぜサンタバーバラかと聞いたら、気候が良くて、安全だからだと。当時、1968年のバークレーは、フリースピーチ・ムーブメント(学生運動)の真っただ中で、「これは本家に行かなくちゃいけない」と思って、バークレー行きを直訴しました。大学側は「自分で交渉するなら良い」と認めてくれました。

バークレーでは寮に入ったのが良かったと思っています。みんな大学院に進学する話をしている。ロースクールだ、ビジネススクールだと。

当時、日本でビジネススクールに進学するのは特別なことでしたが、バークレーでは違った。僕が後にバークレーの大学院に行くのは、この時に出会った寮生たちのおかげです。

手紙でつかんだ外資系の内定

横山:ICUを卒業後は、一度就職したんですよね?

竹内:はい、マッキャン・エリクソン博報堂(現マッキャン・エリクソン)に就職しました。

なぜその会社かというと、ゆくゆくはバークレーのビジネススクールに行きたいと考えて、バークレー校留学中に日本とサンフランシスコに支店がある会社を図書館で調べました。そうしたら10社あった。

で、その社長たちに対して、こんなずうずうしい手紙を書きました。

「将来はバークレーのビジネススクールに行きたいと考えています。大学を出たら、まず御社の東京のオフィスで働かせてください。そして実際にバークレーに留学したら、御社のサンフランシスコのオフィスでアルバイトさせてください」

アメリカの会社ってすごいですね。驚くことに、10通中、6通返事が来たんですよ。

2社は「われわれの知ったこっちゃない」というつれない返事でしたが、4社から「東京に帰ったら誰々に会え」という具体的な返事が届いた。最初に来たのが、マッキャン・エリクソンでした。ジョン・ファーレーという社長がいるから、彼に会えという内容でした。

帰国したのは大学4年の9月ですから、もう就活は終わっていた。それで手紙を持って同社の人事部へ行ったんです。

日本人の担当者に「いや、うちの就職活動はもう終わりました。あなたの大学からも1人採用した。計9人内定していますのでお引き取りください」と断られた。当たり前ですね(笑)。

でも、そこで引き下がらず、私は「アメリカ本社の社長から、東京の社長に会いなさいという手紙をもらっているんですが、それでもよろしいんですか?」とその手紙を見せたのです。

口約束を書面に書かせた

横山:脅したわけですね(笑)。

竹内:ものすごく嫌な顔をされ、「ちょっとお待ちください」と言われた。結局、3時間待たされたんですが、社長に会わせてくれた。そこで、「面白い!」と即決で内定をもらうことができました。

帰りがけに日本人の担当者のところに行き、「来年からよろしくお願いします!」、ちゃんとあいさつもしました(笑)。

ただ、家に帰ったら、父親から「バカヤロー! 口約束を信じるな。すぐに書面をもらってこい」と怒鳴りつけられました。

次の日に再びオフィスに行き、社長に対して「父親が書面をもらってこいと言っている」と伝えたら、顔がみるみる赤くなった。これはもうダメだと思ったら、その場で秘書にタイピングさせて、約束を書面にしてくれました。

後から聞いたのですが、父親はある商社に話をつけて、内定をもらっていたそうなんです。とにかく父親の期待を裏切る息子でした。

マッキンゼーからの「宿題」

横山:結局、竹内教授はマッキャン・エリクソン博報堂で1年半、働きましたね。

竹内:実はICU在学中にマッキンゼーにも手紙を書いていたんです。ちょうどマッキンゼーが東京に出てくるときだったので。

「MBAを持っていないと、うちは取りません」と手紙で断られたのですが、裏を返せば、MBAを取れば雇ってもらえるとも解釈できる。そういう経緯もあって、さらにバークレーでMBAを取りたいという思いが強くなりました。

正直に言えば、当時学者になるつもりなんてまったくありませんでした(笑)。

(構成:木崎伸也、写真:大隅智洋)

*続きは明日掲載します。

*目次
前編:ハーバード竹内教授の原点。手紙と交渉で勝ち取った外資系の内定
中編:マッキンゼーとハーバードからオファー。てんびんにかけて下した決断
後編:ハーバードの学生に人気の「インサイド・アウト」の授業