「命」が軽くなると、「ことば」が重くなる
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「多少の犠牲は厭わない」という根本思想。先頭で血を流す人に対する引け目があり、次は先頭に立とうとする貸し借りの感情。そして言葉ばかりが重くなっていく。
そして、書かれてないけどそこに参加するのは、どこか世の中に「認められていない」という負の感情を持つ人だし、世の中的に「インテリ」と見られている人こそ多かったりする。
若者が新興宗教にハマっていく構図と同じなんだろうと思うし、ISの中で起こっていることなんでしょう。戦争含めた扇動において、言葉が果たす役割が大きい。記事ではブラック企業で例えているが、昨今は一種情報戦争の時代。ネットで「声が大きくなる」こともそれの一種だろう。ことばの重さ、ちゃんと考えたい。自分の意見、それを理想だと思っても、ほかの人を過度な言葉で傷つける「犠牲」を正当化してよいと、自分は思わない。
『内側から見た学生運動は、いまで言うブラック企業と同じ構図ですよね。「おおきな理想を達成するためには、多少の犠牲は厭わない」という発想が、組織全体を覆っている。
デモ隊の先頭で血を流す人ほど認められるし、そういう人に借りができたような気になって、今度は自分が先頭に立とうとする。やがてお互いが貸し借りでつながって、逃げられなくなっていく。
そして段々と「ことば」が重くなってくるんです。おおきな、重たいことばばかりが、まわりを飛び交うようになる。
それはなぜかというと、「命」が軽いからですよ。人は「命」を軽く扱おうとするとき、それをごまかすために「ことば」を重くするんです。』デモ隊の先頭で血を流す人ほど認められるし、そういう人に借りができたような気になって、今度は自分が先頭に立とうとする。やがてお互いが貸し借りでつながって、逃げられなくなっていく。
これは納得です。過激な献身争いになる。格闘技団体でもあって、実際に僕はそれをしていた。今、思うとスマートじゃないと思うけども、当時はわからなかったです。