東南アジア実況中継_150525

歴史に彩られた交易の要衝に中国の影響

第2の都市マンダレーに見る、ミャンマーという「位置」

2015/5/25
「ヤンゴンだけを見て、ミャンマーを語っていてはいけない」。これは、ミャンマーに長く暮らす方から言われた言葉のひとつだ。今回はその真意を伝えるべく、ミャンマー第2の都市マンダレーについてご紹介する。

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ミャンマー第2の都市は、中国・タイ・インドを結ぶ要衝

ミャンマーでヤンゴンに次ぐ第2の都市がマンダレーであると知る方は少ないだろう。マンダレーはミャンマー最後の王朝の首都としての歴史がある街だ。位置関係でいえばミャンマーのほぼ中心にある。街のつくりは碁盤の目状で、日本でいえば京都のようなイメージに近い。

そのマンダレーは今、ミャンマー北部・中部の商取引の中心になっており、物流の大動脈である。首都・ネピドーからも北270キロの距離にあり、今後の東南アジア諸国連合(ASEAN)統合後アジア物流の動脈ともなりうる魅力を秘めた街である。

現時点では道路網の整備が追いついておらず、中国との交流のみが目立つ。しかし、今後の開発状況によっては、マンダレーは地理的にも中国、タイ、インドを結ぶ交通の要衝になる。

1999年に中国の援助でつくられたマンダレー国際空港からは、エアアジアやバンコク航空がそれぞれ毎日1便飛んでおり、シンガポールとも週2便、中国・昆明も週1便などと定期便で結ばれている。

実はマンダレーは、1885年に大英帝国に併合されるまで独立を保った、最後の王朝の首都である。その痕跡が所々に残る。

マンダレーの旧王宮、700を超える仏塔(パゴダ)はその代表格である。旧王宮は第2次世界大戦時に完全に焼失し、以前から残っているのは石造りの台座のみだが、街の中心にはその後忠実に複製されたものがそびえ立つ。2km四方に及ぶ 旧王宮、それを8mの城壁とその外堀が囲み、旧王国の規模を十分感じることができる。

ユネスコの記憶遺産に「世界最大の本」として登録されている「クドードーパゴダ」もまた、王宮の権威を感じる施設だ。無数の白い仏塔が建ち並び、その一つひとつに経典が刻まれた石盤(本)が納められている。石盤は合計729個あり、その両面に金の文字で仏陀(ぶっだ)の教えが刻まれている。

コンパクト、だが国内第2の人口を誇る街

ミャンマーは7つの地方域と7つの州、そして5つの自治区と1つの自治管区から構成される。

ヤンゴン地方域735万人(愛知県の人口とほぼ同じ)に対して、マンダレー地方域の人口は614万人(千葉県の人口とほぼ同じ)と、人口規模はそれほど変わらない。しかし、ヤンゴン地方域の面積は1万171平方km(日本でいえば岐阜県とほぼ同じサイズ)だが、マンダレー地方域はその3倍以上の3万7024平方kmある。

旧王宮の北東に位置する場所にマンダレー・ヒルという小高い丘がある。高さ230メートルの丘の頂上は広いテラスになっている。そこからマンダレー市街や旧王宮はが一望できる。そこからの街並みは、国内2番目の都市には見えないほど狭い。

端から端まで車で走ったとしても1時間かからず、渋滞も夕刻のラッシュ時を除いてほとんどない。マンダレー地方域全体で見れば、土地はかなり広いがマンダレーの市街地はかなりコンパクトだ。そして、少し郊外に足を運べば、そこは緑が広がり、農業の担い手として牛が活躍する様子がそこかしこに見られる農村地帯だ。

そんな歴史をもち、国内2番目の人口を抱える巨大な街、それがマンダレーなのだ。
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「援蒋ルート」から続く、中国雲南との緊密な往来

マンダレーは中国雲南と地理的距離が近いこともあって、長年中国との交易の拠点都市となってきた。1930〜1940年代、英米がインドやマンダレーを経由して、蒋介石(当時の政権党、中国国民党総裁)に対日戦用の武器・弾薬を送り込んだ輸送ルート(通称「援蔣ルート」)の要衝がこの土地だった。

ミャンマーから中国へモノが運ばれていったルートをたどり、物流は今もなお続く。しかし、当時とは逆に中国からミャンマーにモノが流れ、「Made in China」であふれている。

その代表的なものがバイクである。ヤンゴンでは市内へのバイク乗り入れが禁止され、多くの市民の交通手段はバスだ。一方で、マンダレー市民の主な交通手段はバイクである。

中国やタイから極めて安価なバイク(新車は日本円にして3万円程度から入手可能、中古車はさらに安価で手に入る)が密輸も含めて流入しており、特に裕福でなくとも購入できる。夕刻のラッシュ時には東南アジアおなじみのバイク渋滞が広がる。

ミャンマーはまた世界有数の翡翠(ひすい)産出国だ。現在、商業ベースとして世界中に流通している翡翠のほとんどはミャンマー産だといわれる。マンダレーにはミャンマー北部の鉱山から翡翠の原石がここに集まる。翡翠には、化学組成の違いにより軟玉(ネフライト)と硬玉(ジェダイト)の2種類があるが、産出量が少なく、高品質で価値が高いとされる硬玉がミャンマー産なのだ。

そんなミャンマー翡翠最大の消費国が中国。ミャンマー翡翠は特に質がよいと、中国人商人が大量に買い付けにやってくるため、市場内は中国語があふれている。
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禁止されてもあふれかえる中国語、始まった日本企業の進出

もともとマンダレーの人口の30~40%は中国系で、ミャンマー語が話せない人もいる。中国との国境に近いところから来た華僑が、ミャンマーの国民登録証明書を持ってミャンマー人として暮らしているケースもある。

そのため、以前は中国語の看板が氾濫していた。だが、そうした事態を重く見た政府が「看板表示はミャンマー語と英語に限る」と規定し、中国語の看板が取り外され、数年前に一度景観が一変したそうだ。

とはいえ、現在のマンダレーには、まるでヤンゴンのチャイナタウンのように、商店やレストランの看板に漢字が掲げられている。店内でもメニューを広げれば漢字表記があり、強い影響力を感じる。

ホテルのテレビでも中国語の番組が流れているし、中国語対応可能というホテルも少なくない。旅行代理店のカウンターには入口から漢字が並び、塾の集まる場所に行けば中国語のクラスが他の言語に比べて割安で提供されているなど、 中国が身近であるからこその場面は多い。

軍事政権の執政期には、欧米を中心とした国際社会から制裁を受けていたミャンマーだが、中国とは親密な関係が続き、軍事政権は中国への依存を強めた。

中国が計画した大規模なダム建設計画を、環境問題を理由にやめさせるなどミャンマー全体でも中国離れが進んでいるように見える。だが、2015年1月にはミャンマーから中国への石油パイプラインが開通し、運転が開始されるなど、やはり中国の影響は色濃い。

その一方で、中国の援助でつくられたマンダレー国際空港の改築と30年間の運営権を三菱商事が落札した。また2015年に入ってパナソニックもショールームをオープンするなど、日系企業のマンダレー進出にも動きがある。

ミャンマー第2の都市マンダレー。ミャンマー国内だけでなくアジア交通の要衝ともなる可能性を秘めた都市。今の、そしてこの先のミャンマーを考えるうえでは、ヤンゴンだけでなくマンダレーという都市を名前だけでも知っておいていただければ、と思う。

※本連載は毎週月曜日に掲載予定です。