【第4話】清水直行インタビュー1回
収入より今は自己投資。元侍戦士が野球未開のNZで切り拓く道
2015/5/23
プロ野球選手のセカンドキャリアは、70%が野球関係だ。彼らにとって野球は最大の力を発揮できる分野である一方、野球以外で生計を立てるのはなかなか難しいのが実情である。そんな中、7割のマジョリティとまるで違う道を開拓している男がいる。2000年からロッテ、DeNAでプレーし、100勝以上を挙げた清水直行だ。北京五輪や2006年の「WBC」に出場した元日本代表投手はなぜ、ほとんど収入にならない活動をニュージーランドで行っているのだろうか。
セカンドキャリアの選択肢は限定的
──清水さんが現役引退を意識し始めたのはいつ頃ですか。
清水:左膝を手術して、2013年くらいですかね。リハビリがうまくいかなくて、ダメかなと思ったのが、意識したときかもしれないです。
──そのときに、引退後の人生を思い描いたと想像します。どんな選択肢がありましたか。
選択肢はないですよ(苦笑)。野球選手が終わった後のセカンドキャリアって、解説者とか、コーチとか、野球塾をやられている方とか、あとは飲食店をやるというイメージしかなかったので。その中から選ばなければいけないのかなっていう気はしていました。
──2014年ニュージーランドに渡り、同国野球連盟のジェネラルマネージャー(GM)補佐、代表の統括コーチとして活動されるようになったきっかけは。
2013年の「WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)」に出る、出ないって、日本ですごく議論になったことがありました。そのとき、「なんで出ないんだろう?」と感じて、表面だけ見ていてもわからないから「世界の野球を調べてみよう」と思ったんです。
それでアメリカにしろ、WBCを開催しているところが世界で深く野球振興をしているなって気付かされた。「自分もやったほうがいいんじゃないかな」と思うようになりました。
──清水さんのキャリアを考えたら、プロ野球でコーチになる道もあったと思います。
「引退します」と早く言っていたら、コーチの話もあったかもしれないですね。でもそれより先に、野球振興に興味を持ってしまったので。やりたいほうをやろう、面白いほうをやろうと思って。
長嶋茂雄の言葉で「世界」を意識
──野球をやりながら、「世界」を意識したのはいつからですか。
2004年にアテネ五輪の代表に選ばれたことで、世界の野球を見るきっかけになりました。僕は日本代表になったことが、すごく自分の人生においてターニングポイントだったなと思っているんです。それまではナショナルチームと無縁だったけれど、ああいうところで日の丸をつけて戦って、いろいろなものを感じて。
あのとき、長嶋(茂雄)さんの体調があまり良くないということで。そういったところで、大会が終わって「野球の伝道師になれ」というお話をしてもらったときには、日本だけのことだと思っていたんです、正直。日本で僕たちが次の子どもたちに、負けた経験、それでも銅メダルを獲った経験を日本の中で伝えていくもんだ、と。
それが年を取って、いろいろ見たことがきっかけとなって、「日本の野球を外に知らせていくこともひとつの目的なんじゃないか」って。もう勝手な解釈ですよ、自分の。
──その場所として、なぜニュージーランドを選んだのですか。
極端に言ったら、安全な国。住まなければ、できないと思ったので。
──じっくり腰を据えて、という意味ですか。
ボールを送ったり、用具を支援したり、その国に行って野球教室を少ししたりすることは、もちろん素晴らしいことだと思うんです。でも、「それだけで普及になるのかな?」って思ったんですね。
その国の文化を知って、地元の人々の中でネットワークをつくってやらないと、本当の普及にはつながってこないんじゃないかなって。候補の国は日本以外全部で、まだ誰もそういう活動をやっていなかったので、「僕がひとつ目をどこでやろうかな?」と思って。
──そうしてニュージーランドが浮かび上がってきた、と。
あまり野球が強いところに行っても、あんまりだなと思って。だったら、WBCの予選に出ているところから探そうと思ったんです。WBCの第1回に出たのは16チームで、今は28チーム。本大会の前に予選をやっていることすら知りませんでした。
で、見ていると「あっ、ニュージーランド、やっているんだ」と思って。世界ランキングを見ると60位くらい。タイやフィリピンと試合をしている映像を見て、面白いかもしれないと思って。メジャーリーグもガーッと進出していなかったので、「ここでやろう」と一点に絞りました。
家族は当初、大反対
──具体的にどういうアプローチをしたんですか。
自分で手紙を書いたんです。日本語で書いて、マネジメント事務所に英語に訳してもらいました。小学校からの生い立ちから、プロ野球のことまで。10枚くらい書いたかな。それを訳してもらって、メールでニュージーランド野球連盟に送ったんです。
──そうしたら返事が来た。
すぐに来ましたよ。「ぜひ来てくれ」って。「待ってました」みたいな感じでしたよ。向こうにすれば「冗談も含めたサプライズかな?」っていうのもあると思うので、「Skype」でまず顔合わせだけして、「とにかく行くわ」って。英語もわからないので、通訳の人を入れながらやり取りしました。
それで一人でオークランド空港まで行ったら、向こうで待っていてくれたんです。現地のスタッフと一緒に、日本人のボランティアの方がいました。多分、向こうで受け入れる側が、「清水さんが来るけれど、英語はほぼしゃべれない。だったら、通訳が必要じゃないか?」ということで、英語のしゃべれる日本人で通訳してくれる人を用意しておいてくれたんです。
「今の野球の状況はどうか?」「これからどうしていきたいのか?」「僕に手伝えることはあるのか?」。そうやって話を進めていきました。
──気になるのが、ご家族の反応です。
いや、最初は大変でしたよ。妻と中学生2人、小学生の子どもがいますが、「どうやってご飯食べていくの? 誰が面倒見てくれるのよ」って。
ニュージーランド野球連盟と別に契約があるわけでもないし、お給料が決まっているわけでもない。生活面を「どうするの?」って妻に言われて、「いや、こういうことは絶対大事だから」って説得したんです。で、もう渋々というか。
──説得は簡単ではないですよね。
簡単ではないですよ(笑)。「なんでわざわざ?」って。それでニュージーランドを選びました。妻と子どもを納得させられる、英語圏である、安全である、銃の所持のない日本と似ているところということで、必然的に選んでいます。
セカンドキャリアは自分でつくり出すもの
──ニュージーランド野球連盟との契約は、収入的にはボランティアというかたちですか。
そうです。ボランティアとは思ってないですけれど。うーん、そうですね。それほど、食べていく、というような環境ではないですね。セカンドキャリアを自分でつくっているわけですから。
──今は自己投資の期間。
ビジネスになるかもしれないと感じているところもあるので、その投資はしていますね、自分で。僕がやっている野球普及活動って、何のマニュアルもないので、やりながら覚えていくんですよ。これまでに文章を書いたこともないし、企画も挙げたことがない。こうすれば、こうなるっていう答えがないから、難しいんじゃないですか。
これまで日本の野球界で、「世界に野球を普及させることが大事なんだ」って裸一貫で行った人が、僕の知る限りではほとんどいない。そういったモデルをつくるじゃないですけれど、自分が身をもって体験したいとは思っています。
──すごい行動力ですね。本人は「普通のこと」としてやっているのかもしれませんが。
いろいろ考えていますよ。野球が終わって、解説者として食べていけるのはひと握り。だから今の活動を、「セカンドキャリアとして仕事にしなければ」と思っています。
誤解しないでほしいのは、野球をやっている間に貯めたおカネで、僕は生活しているわけではないです。それができるのって、結局トッププレーヤーだけなので。
僕には家族がいるので、今の活動をビジネスとして、ご飯を食べられる状況にしなければいけない。「ボランティア? 清水だったら行けるよね。あんだけ稼いでいたんだもんね。余裕あるよね」って思われるのは、ちょっと違うと思います。「おカネに余裕のない人ができないか?」と言えば、そうではない。行動だけだと思うんです。
──でも多くの人は、「清水さんだからできる」と思っていると想像します。
誰かがやらなければいけないなら、貯金を食いつぶした生活じゃなくて、自分に自己投資をして、ビジネスにしてあげないと、後ろの人が続かないと思っています。
「直(なお)さんだからできたんじゃん」というのであれば、僕は別にニュージーランド野球連盟に入っていません。勝手に自己投資して、ビザ取って、移住して、ジャージ着て、野球のボランティアのおっちゃんをやればいいだけなんです。
でも、そうじゃないと思っているので、今の道を取っているんですね。ニュージーランドでいろいろな経験をして、「こうしたら、もしかしたらご飯を食べられるかも?」みたいなところはあるかなっていう感じですね、今。
なので、「現役時代に活躍していないから、自分にはできない」というのではなく、「こういう道もあるよ」っていうのを残してあげたいな、と。僕だけのためではなくて、やらなければいけないんです。
(聞き手:中島大輔)
※本連載は毎週土曜日に掲載予定です。インタビューの続きは次回掲載します。