解読吉田調書 (1)

【第24回】解読「吉田調書」

「小さな安心を求めすぎ、大きな安全をおろそかにする」

2015/3/25
吉田調書は、未曾有の国家危機の中で、危機対応にあたったひとりの人間が、どのような情報から、何を考え、どのような判断を下し、どう動いたかという危機対応の追体験を可能にしてくれる。この調書は、吉田昌郎の遺言である。私たちは、そのように受け止めて、彼の肉声に耳を澄ませ、そこに潜む真実をつかみだし、そこから引き出した教訓に学ばなくてはならない。本連載では民間事故調のワーキング・グループ有志メンバーが吉田調書を解読するとともに、それを踏まえて、民間事故調報告書で明らかにした事実と分析の検証を行う。

「安心」までを押し売り

政治家や行政官が、住民の「パニック回避」をこうまで恐怖するのは、住民に「安全」を約束するだけでなく「安心」までを押し売りしているからである。それは、政府を父母のように、国民を子供のように見なし、取り扱う統治におけるパターナリズムに起因する。

日本人論でかつて一世を風靡(ふうび)した山本七平は、『日本はなぜ敗れるのか――敗因21カ条』で日本人は「現実的解決を心理的解決に置き換えようとする」と述べたことがある。

砲兵少尉として送られたフィリピン戦線で地獄を見た山本七平の日本社会論は、「原発敗戦」とも言うべき日本の社会システムの、なかでもリスク、ガバナンス、リーダーシップの課題に関する洞察が含まれているが、「現実的解決を心理的解決に置き換えようとする」という指摘は、本来「安全」のみに照準を合わせて行うべき安全規制と安全文化の確立をむやみに「安心」にも拡げ、むしろここでの「内面指導」を通じて、政府お墨付きの「安全」を受け入れさせようとする心理的、社会的、政治的構造の問題点を鋭く射抜いている。

安全を安心の皮膜で包み込み、安全という現実的解決を安心という心理的解決に孵化(ふか)させようとすると、リスク評価があいまいにな
りやすい。そこではリスクを表に出して、その確率と「行動するリスク」と「行動しないリスク」のトレード・オフを冷静に評価し、リスクの受容範囲を決めていくリスク管理システムが生まれにくい。

コスト、社内手続き、経営、対住民対策、対メディア、政治の面で、リスク管理を貫徹させにくい場合、リスク評価の方を変えようとする誘惑に駆られやすい。そして、「行動しないリスク」よりも「行動するリスク」を問題視する減点法的な姿勢に流れる傾向を生むことになる。

かくして、政治と行政は「人々の小さな安心を追い求めるあまり、国民と国家の大きな安全をおろそかにする」傾向を強める。

(山本七平の指摘については、新形信和『日本人はなぜ考えようとしないのか』=新曜社、2014年=の教示を受けた)

「メード・イン・ジャパン」論

「原発敗戦」から再建に向けてなかなか踏み出せない日本の状況を見るとき、日本に特有な社会システム上の課題が存在するのではないか、さらには日本の文化そのものに問題があるのではないか、との疑問が湧いてくる。その代表的な見方が、国会事故調の黒川清委員長の福島原発事故は「メード・イン・ジャパン」論であろう。

国会事故調報告書の英文版の要約の中で黒川委員長は、福島原発事故は「われわれの反射的な従順さ、権力者を疑問視したがらない態度、『計画を守り通す』ことへの情熱、集団主義、島国根性」にあったと指摘し、それは『メード・イン・ジャパン』の災害だったと総括した。しかし、日本人全体、日本社会全体の特性と特質に注目して、そこに問題の本質があるとする日本文化論(ないしは日本人論)で物事の本質を解析するのは、歴史決定論やイデオロギーと同じく、知的枠組みとしては問題が多い。

そもそも、こうした文化論、ないしは日本人論は、日本が急上昇する際も急下降する際も、その理由を説明する際にその都度、都合よく引っ張り出されてきた。ただ、そうだとしても、日本の官庁や企業の組織文化(InstitutionalCulture)の歴史的、構造的背景がの組織内の個人の思想と行動を規定し、それが危機対応の際に必要なリスク、ガバナンス、リーダーシップのあり方を制約し、結果として「失敗の本質」を構造化することはありうる。

その際、日本社会の文化的特質と心理的傾向が、日本の組織文化を羊水のように包み込み、そこに滲み込むことは否定できない。過酷事故対策の義務化、対原発テロ対策の国際協調、汚染水の海洋放棄の際の事前の国際連繋の遅れなどの背景にある“一国安全主義”的発想と惰性もまた、こうした日本の組織文化を下敷きに生まれるものだろう。

別の言い方をすれば、原発事故の歴史的、構造的要因は、「メード・イン・ジャパン」(日本製)にあるのではなく、「メード・インサイド・ジャパン」(日本仕様内製)にあるということである。もう一つ、日本文化決定論に依拠すると「失敗から学ぶ」のを難しくする。

・悪いのは文化だとなると、個人の役割と責任が捨象されてしまう。全体の責任となると誰の責任でもなくなる。

・文化は変えようがないから、どんなに努力してもムダだ、という敗北主義をもたらす。

・日本の文化の問題とすると、世界には関係のない出来事となる。世界とともにこの原因を究明することも、その教訓を世界と共有することも意味がなくなる。

どこの誰が、どの組織のどこが、どういう状況の下、構造の中、どのような判断と計算によって取った行動が、どのような結果をもたらしたのか。そこを一つ一つ、科学的に調査・検証することが不可欠である。その解を国民文化に丸ごと投げ込んではならない(この点については拙著『原発敗戦危機のリーダーシップとは』=文春新書、2013年=を参照していただきたい)。

「想定外」の事象にしてやられた

結論を言えば、日本の国家と社会と組織は、リスク、ガバナンス、リーダーシップの課題をまともに見据えてこなかったし、正面から取り組んでこなかった、そこに問題の本質があるということである。福島原発事故は、具体的には次のような課題を浮かび上がらせた。

・「最悪のシナリオ」を忌避し、安全を安心に置き換え、安全神話に立てこもる。備えもロジも訓練も「型」と化す(リスクのタブー視化)。

・異なる視点、立場、集団を排除し、身内だけでやりくりする。縦割り、たこつぼ、縄張り争いに明け暮れる。システム全体を見渡す能力を磨き、「一丸」となって取り組む体制をつくるのが苦手(ヨコのガバナンスの欠如)。

・権限と責任を明確にせず、指揮命令系統を確立できない(タテのガバナンスの欠如)。

・損切りを含め明確な優先順位を決められない(リーダーシップの欠如)。

・危機の時に「国民一丸」となって取り組む「大きな政治」がつくれない(リーダーシップの欠如)。

・進んでリスクの情報開示をし、失敗を失敗として受け入れ、そこから立ち上がるレジリエンス(回復)の道筋をつけるのが下手(リーダーシップの欠如)。

同時に、先行例から教訓を学ぶ難しさもまた知っておく必要がある。吉田自身、2007年の中越沖地震の時の柏崎原発のケースを例にこの点に触れている。

「柏崎の中越沖地震は(中略)要するに、無事に安全に止まってくれたわけですよ。(中略)あれだけの地震が来ても、ちゃんと止まったではないの、なおかつ、後で点検したら、設計の地震を大きく超えていたんですけれども、それでも安全機器はほとんど無傷でいたわけです。(中略)設計用地震動を大きく何倍も超えている地震でそれがある意味で実証されたんで、やはり日本の設計は正しかったと、逆にそういう発想になってしまったところがありますね」(11月6日)

設計を超えた事象が来ることはある。ただ、設計を超え、マージンを取った柔軟な対応をしたために、無傷で済んだ。ところが、この時の成功を設計の正しさだったと見なして、設計の形を祭り上げたため「想定外」の事象にしてやられた。吉田は、恐らくそう言おうとしたのだろう。

(一部敬称略)