たった一度の人生を変える勉強をしよう

【0時限目】もう「勉強」だけでは役に立たない

「なんのために生きるのか?」。“正解”のない課題に取り組む

2015/3/24
暗記中心の「勉強」は、もはや役に立たない。では、かわりに何を学べばいいのか? 世の中のさまざまな問題を学習する「よのなか科」の生みの親である藤原和博氏が、中高生とその親のために書き下ろした新刊、『たった一度の人生を変える勉強をしよう』(朝日新聞出版)をNewsPicks上で毎日掲載します(第0章、1章を無料公開。第2章以降は有料となります)。

開講の辞「中高生のきみへ」

みなさん、はじめまして。藤原和博です。

これからみなさんには「人生を変える授業」に取り組んでいただきます。たぶん、ほとんどの人が経験したことのない、まったくあたらしいタイプの授業です。そのおもしろさと実用性の高さは、ぼくが全面的に保証します。

たぶんうれしいニュースだと思うけど、ぼくは教育学者とか、大学の先生とか、そういう堅苦しい立場のおじさんではありません。大学卒業後、リクルートという会社でトップ営業マンになり、東京都の公立中学校では初の民間人校長になり、現在は 「ビジネス×教育×人生」をテーマに全国各地で講演するなど、アドバイザー的な立場で活動している人間です。ビジネスも教育も知っていて、ついでに人生を変える技術にちょっとだけ明るい、ひとりの先輩だと思ってください。

そこで唐突ですが、みなさんに問題を出します。

「人はいったい、なんのために生きるのか?」

「人にとっての幸せとはなにか?」

これは、われわれ人類が有史以来ずっと答えを探し続け、いまなお誰ひとりとして明確な“正解”を出せずにいる課題です。むしろ“正解”のない課題、といってもいいかもしれません。

ぼくはあえて、この問いから今日の授業をはじめようと思います。数式や英単語、歴史の年号みたいな正解ありきの授業をやるつもりはありません。これからみなさんに取り組んでもらうのは、どこにも“正解”がない課題に、自分だけの答えを探していく授業です。

きみはいったい、なんのために生きるのか。きみにとっての幸せとはなにか。きみは将来、どんな大人になって、どんなよのなかをつくっていくのか。この授業を終えたあと、きみは自分の手で、これらの問いに答えを出せるようになります。

ある意味これは、「考える」ということの正体を突き詰めていく特別授業です。考えるとは、答えを暗記することではありません。誰かのつくった答えを探す作業でもありません。「考える」とは、答えを探すことではなく、答えを「つくる」作業なのです。

いったいそれがどういうものなのか、どんなにおもしろくて、どんなに達成感のあるものなのか、一緒に学んでいきましょう。

明日からの人生を変えてしまう、とっておきの授業。

始業のベルはもうすぐです。

まず「勉強」を忘れよう

これから授業をはじめるにあたって、みんなにひとつだけ約束してほしいことがあります。とってもシンプルな、けれどもアタマの固い大人たちにはむずかしいかもしれない、たったひとつの約束事です。

それは、「勉強」という文字を忘れる、ということ。

いまからはじめるのは、なにかを「勉強」するための授業ではないし、ましてや暗記をしたり、正解との答え合わせをしたりするような授業ではありません。むしろ、そういう「勉強」とは正反対にある授業だと思ってください。

なぜ勉強を忘れなきゃいけないのか。その理由を説明する前に、「勉強とはなにか?」という問いについて、少しだけぼく自身の思い出話をさせてください。

あれはぼくが小学校の5年生か6年生のころだったかな。学校の課題図書として、ルナアルの「にんじん」という小説と、ヘルマン・ヘッセの「車輪の下」という小説を読みました。どちらも、世界の文学史に残るような名作です。

でもね、この2冊のせいで本が大嫌いになっちゃった。「なんでこんな薄暗い話を読まなきゃいけないんだ!」って頭にきて、本というものに、ほとほとうんざりしたんだ。ようやく本のおもしろさがわかって、片っぱしから読みあさるようになったのは、大学を卒業して社会人になってからのこと。中高生のあいだは、読書なんて大嫌いだったんです。

さて、ここで考えてみてください。

どうして小学生のぼくは、文豪たちの立派すぎる名作を読んで、「おもしろくない!」と思ってしまったのでしょうか。読書が好きじゃなかったから? 小学生には高度すぎる内容だったから? 登場人物が外国人で、カタカナの名前ばかりだったから?

違う。そうじゃない。「学校の課題図書として、先生の選んだ本を読む」というスタイルが、まさに「勉強」そのものだったからなんだ。これは、勉強という言葉をバラバラに分解するとよくわかります。勉強という字は「勉めて強いる」と書くんだよね。「勉める」ってのは、ひたすら努力すること。そして「強いる」とは、むりやり押しつけること。

要するに、勉強って「むりやり押しつけられた“正解”に向かって、がむしゃらな努力をさせられること」なんです。

だから、勉強がおもしろくないなんて、当たり前のこと。小学校時代のぼくも、先生にむりやり「これを読みなさい」と強制されて、模範的な読書感想文(つまり正解)を書くように押しつけられたからこそ、反発したし、読書が嫌いになってしまったんだ。

これから始まる授業でぼくは、みんなになにかを押しつけようとは思わない。努力や根性を要求しようとも思わない。なぜなら、そういう従来型の「勉強」をこなしているだけでは、通用しない時代になってしまったからなんだ。

※続きは明日掲載します。
 たった一度の_本とプロフ (1)