2023/8/26

アスリート社員が競技引退後、企業で見つけるミッションとは

編集オフィスPLUGGED
「サステナブルインフラ企業」という目標を掲げて、不動産会社として地域のインフラの価値創造に貢献している「いちご株式会社」は、2008年から現役のトップアスリートを定年制社員として雇用しています。

トップアスリートの支援がスポーツに親しむ企業風土を生み出し、社員に向けたスポーツ活動や健康推進の取り組みが行われています。企業のCSR活動の一環としてのトップアスリート雇用から始まった「スポーツ経営・健康経営」についてリポートします。(第3回/全3回)
INDEX
  • なぜトップアスリートを正社員として雇用するのか
  • 引退後のトップアスリートの第二の人生を支援
  • 他部署の最新情報や知識を学ぶ社内大学
  • 働きやすさを追求し、パフォーマンスをアップする制度設計
  • CSRをサステナビリティ経営の視点で考え、実践する

なぜトップアスリートを正社員として雇用するのか

不動産業を営むいちご株式会社は、スポーツ庁の「スポーツエールカンパニー」と、東京都が定める「スポーツ推進企業」に6年連続で認定されています。不動産とスポーツ、全く違うように見えるこの2分野は、どのようにしてつながったのでしょうか。
スポーツ活動推進に力をいれるきっかけは2008年、ウエイトリフティングの五輪選手である三宅宏実さんと父であり、日本代表監督である三宅義行さんを正社員雇用したことから、CSR活動の一環として、現役トップアスリートの社員採用をスタート。創部されたのは、ウエイトリフティング部、ライフル射撃部、陸上部で、現在8人の指導者・選手が社員として属しています。スポーツ部の立ち上げに奔走し、現在部長・監督を務めている石原実執行役副社長兼COOに聞きました。
いちご株式会社 取締役 執行役副社長兼COO 石原実さん
青山学院大学を卒業後、建設会社で国内大型ダム工事など全国の建設現場の工務、施工管理に従事。2007年にいちごに入社し、ウエイトリフティング部、ライフル射撃部、陸上部を創部。2011年、執行役副社長に就任。
石原「オリンピックで数々のメダルを取った三宅宏実さんは、現在ではコーチとなりました。オリンピック委員会、ウエイトリフティング協会の役員活動等、スポーツ分野専業で頑張っています。一方で、月に数日出社し、あとは練習や試合に費やす社員もいます。毎年どのような勤務体系にするのかをそれぞれの選手と話し合いながら一緒に決めています。
こうした指導者・選手たちは、スポーツに携わっていない社員と適用される規則はもちろん同一であり、何も隔たりはありません。目標管理制度、年俸制、職務評価制度や休暇制度について、同一のものが適用されています。特別な人という考え方はお互いに誰もしていないと思います。担当業務が異なるだけです。だから誰も気負わずに同じいちごの仲間、チームとして働いていて、応援し合える風土ができていると思います」
石原さんは、入社当時から部長・監督としてトップアスリートを指導し、引退後の目標や人生設計についても一緒に考えています。
毎日、選手たちから「仕事」、つまり練習や試合の報告が入るようになっています。それに対して返信をし、励ましたり、必要な行動について伝えたりしているそうです。これは、1on1で社員を育てている状況で、普通の社員とは異なったスケジュールで動いているアスリート社員には非常に重要だといいます。
石原「これが、スポーツのためだけに外部から雇われている監督や部長であれば、スポーツの部分だけで成果を上げることに注力するかもしれません。しかし、私たちは会社の経営者として様々な適性を見ながら、長いスパンで社員としてアスリートの人生を考えています。専業でスポーツに取り組む選手は、スポーツを事業とする部署にいるイメージです。任された競技の仕事を全うしている社員であり、いちご株式会社というチームのメンバーです。そこが、通常のCSRとは全く違うと思うんです」

引退後のトップアスリートの第二の人生を支援

企業のCSRとして始まったトップアスリート支援でありながら、監督・部長が企業の最高執行責任者(COO)であることによって、競技においても、企業の理念を具現化し、社のミッションを遂行する戦力として育成しています。これが選手の人間的な成長につながっているのかもしれません。
2023年にウエイトリフティングの女子55kg級で、日本新記録で全日本選手権2連覇を成し遂げて、5月に引退したばかりの佐渡山彩奈さんは、現在、いちごグループのホテル運営会社、ワンファイブホテルズ株式会社に在籍しています。職場は東京・渋谷区にあるホテルで、現役選手時代に培ったバイタリティと持ち前の明るさが、仕事でも生かされているといいます。
渋谷区のホテルで働く佐渡山彩奈さん(左)
また、ウエイトリフティング部などのマネジメント業務も勉強中の佐渡山さん。現役時代の会社からの支援や、引退後の人生を考える際に得たサポートなどについて伺いました。
佐渡山「ウエイトリフティングを社会人になって続けられる場所は限られています。その中でサポートをしていただきながら、練習環境も整った場所でトレーニングに集中できるということは非常にありがたかったです。特にコロナ禍では試合が中止になるなど、大変なこともありましたが、引き続きサポートしていただき、これまで不自由なく競技を続けることができたので、本当に感謝の気持ちでいっぱいです」
引退後に在籍した部署でもスポーツに携わり、やりがいを感じているという佐渡山さんは、引退後の働き方などについて、石原さんに細かく相談に乗ってもらっていました。
現役時代の佐渡山彩奈さん
佐渡山「現役引退を考えるにあたり、石原副社長から当社にはスポーツマネジメントやホテル運営など不動産運用とは違う様々な分野があり、今後も活躍を期待していると言っていただきました。最初にその話を聞いたときは驚きもあり、胸も高鳴りました。引退してからも、スポーツの楽しさや感動を近くで感じられることに喜びを感じていて、これからその感動をたくさんの人に伝えられたらいいなと思いますが、今の仕事に就いて間もないこともあり、自分の役割を探求しているところです」
また、ウエイトリフティングの48kg級、53kg級の日本記録保持者で、ロンドン五輪の銀メダリスト、リオ五輪の銅メダリストである三宅宏実さんは、引退後もいちごの社員として、専業のコーチとして活躍しています。
三宅「私は、社員として競技に専念させていただき、また、大学院で勉強することもできました。石原部長からは、目標管理などのマネジメント論や、スポーツビジネスの今後について、競技団体が果たすべき役割についてなど、議論をしてきました。社員のみなさんから多くのご声援をもらっていることが励みになり、長く現役生活を送ることができました。引退後に協会活動や競技指導に携われることは幸運だと感じています」
現在はコーチとしてチームのために邁進している三宅さんですが、管理職としてリーダーシップを発揮すべく、管理職研修などにも参加し、選手や他の社員との相互理解を深めていっているといいます。
三宅宏実さん、夏季五輪において日本女子最多に並ぶ5大会連続出場を果たした。現在はコーチとして活躍している

他部署の最新情報や知識を学ぶ社内大学

いちごの相互理解への取り組みは多岐にわたります。
例えば、2013年からは、役職員の実務的なスキルアップや、企業が目指す方向性や他部署の動きを共有して学べる場「いちご大学」を創設。建築や不動産、IT関連講座、社外取締役による講演など、20講座を開講しています。
いちごグループの宮交シティに勤務し、2020年まで、ライフル射撃部に所属していた持永洋壮さんも、いちご大学を活用し業務に必要な情報を得たり、他部署との交流を図ったりしているといいます。
2020年12月まで、ライフル射撃部に所属していた持永洋壮さん
持永「いちご大学は他部署の最新情報や知識、取り組みなどを学べるのでできる限り参加してきました。私も不動産や税務などの講座を受講し、投資の視点を学びました。また、見逃し配信もあるので参加できなくても録画を見返すことができ、部署間の垣根を越えた情報を得ることができとても便利です」
また、ウエイトリフティングの元選手で現在コーチを務める三宅宏実さんは、社員として管理職研修に参加しているといいます。
三宅「最初に参加した時は緊張しましたが、内省の機会もあり、改めて自分がどのようなタイプで苦手なことや得意なことは何なのかがはっきりわかった研修でした。自分にない視点を補える関係性や会話のなかで異なる発想が聞けるなど、様々な発見がありました。他の社員の方々とコミュニケーションもとることができ、学び多き経験をさせていただきました」
三宅さんは、現在コーチとして取り組んでいる選手とのコミュニケーションや、選手の思いをくみ取る上で、管理職研修は非常に役立つものだといいます。
石原さんは、「三宅さんは我が国のスポーツ界の宝。日本全体のスポーツ界を成長させるミッションにチャレンジしています」と語ります。
この新たな挑戦にはスポーツに携わる仕事も多く、選手らはアスリートの経験を仕事に生かすこともできるといいます。情熱が枯渇せず、自分の仕事が社会のためになっていく。この循環こそが「スポーツ経営」といえるのかもしれません。

働きやすさを追求し、パフォーマンスをアップする制度設計

では、この記事を読んだ経営者がいざスポーツ経営を取り入れたい、と思うとき、何から手をつければいいのでしょうか。
その答えは、時代とともに変わることをいとわない社内のサポート制度にありました。人財本部副本部長の大井川孝志さんに伺いました。
いちご株式会社 人財本部副本部長の大井川孝志さん
大井川「個人が望むワーク・ライフ・スタイルを最大限尊重しながら、時代に先駆けて比較的柔軟に育休や介護制度などの福利厚生制度が設計されているのではないかと思います」
まず、産休育休に関しては、出産後の復職率は100%を継続。最長3年までの中から自分で期間を選べるといいます。
「理由を問わない時短制度」を制定し、子どもがいる、介護中であるというような制限なく、社員の誰もが時短勤務を選択できるようにしています。
さらに有給休暇は1時間ごとに取得できるため、育児中の社員が子どものお迎えに1時間だけ休暇を取ることも可能だといいます。
現在、いちごの監査部・担当部長として働く岩嵜亜紀さんは、産休・育休を取得して2人の子どもを出産。子どもの病気による看護が必要だったときは、看護休暇を利用するなどしながら、管理職を続けてきました。
いちご株式会社 監査部 担当部長の岩嵜亜紀さん
岩嵜「育児中、介護中など、ライフステージに合わせて、自分の選んだ働き方ができる。仕事の仕方は人それぞれで、子どもを産んですぐに仕事を頑張りたい人もいれば、しばらくは子どもと向き合いたい人もいます。それらに対応できるように、理由を問わない時短制度や1時間ごとに取得できる有休制度があるのですが、それぞれの人生を応援してくれる制度だと思います」
時短や有休の取得によって生じた、欠員のフォローはどのようになっているのでしょうか。
岩嵜「産休で抜ける社員がいたら、その間必要な人材がその部署に配属されるなど、柔軟な人事で仕事に支障がないように調整されています。これらの制度で社員のライフスタイルが守られているからこそ、お互いの生き方を尊重する姿勢も、社員同士のなかに自然と生まれています。制度制定と実践が、D&I(Diversity and Inclusion)の動きを加速させていると思います」
いちごの制度制定はとにかく柔軟で敏捷に行われています。
2022年9月から、ロシアによるウクライナ侵攻の影響による物価高騰へのインフレ対策として、ボーナスでの一時金の支給ではなくベースアップを選択し、役職員全体で月額給与総額の5%を上乗せすると決めました。
またいちごでは創業当初から、定年を満70歳としています。
大井川「例えば定年を満70歳にしたのは、『人のゴールは会社が決めるのではない』という考え方からです。70歳になっても働ける、まだまだチャレンジできる土壌がある中で、ゴールは本人が決める。その中でベストパフォーマンスをしてもらうことを目的にしています」
健康経営・スポーツ経営を支える土台となっているのは、時代の流れに応じて柔軟にいち早くなされる制度設計でもあるようです。まずは自社で働く人たちの「人生のインフラ」を整えることで、働きがいが増し、企業理念である「日本を世界一豊かに。」の実現に向けたチームづくりが加速しているように見えました。

CSRをサステナビリティ経営の視点で考え、実践する

アスリートと企業の関わりについて、いちご代表執行役社長・長谷川拓磨さんに伺いました。
いちご株式会社 取締役 代表執行役社長 長谷川拓磨さん
2002年に入社後、ファンド事業、開発事業全般に従事。不動産部門全体の責任者を歴任。2011年1月から、いちご地所㈱を立ち上げ、中小規模不動産を活用した新規ビジネスに主として取り組む。 2015年5月、代表執行役社長に就任。
長谷川「スポーツに対して、スポンサーとして関わる会社がほとんどですが、僕らはそうではなく、選手として、そして引退された後も第一線で働いて、新しいやりがい、挑戦に興味を持ってほしいと思っています。『何か一緒にやろう』ということを大前提に考えています」
アスリート支援を続けるだけでなく、いちごは、2019年に不動産業界から初めてJリーグのトップパートナー契約を締結しました。
長谷川「アスリートを支援するだけでなく、スポーツを通じて、スポーツに関わる全ての人に対して、ポジティブな働きかけができると考えています。日本を豊かにするために、スポーツのインフラを整えることで、スポーツ自体を盛り上げていきたいと考えています。スポーツやスタジアムなどの不動産そのものがビジネスとして独立、循環していく存在になっていく必要があります」
従来の企業はCSRという名のもとに社会貢献活動を行ってきましたが、企業の主たる事業と切り離された活動と捉えられる場面も少なくありませんでした。
サステナビリティ経営の視点から企業のCSRやスポーツ支援を考え、全社員の理解と共に事業を実践することができるなら、全ての社員が自社・自身の社会貢献を実感しながら、仕事に対する情熱や誇りを持ち続けることができるのではないでしょうか。
さらに、ライフステージに合わせた活躍の場を用意することができれば、企業の隅々に力がみなぎりより発展していくことになるのかもしれません。