2023/7/24

「日本の宝」を見つけて地方移住。“伝説のシェフ”がフードロスに向き合う理由

フリーライター&稀人ハンター
 全国の各地域には、都市部とは異なる資源を活かすことで、自らの事業のみならず、地域全体のポテンシャルを底上げしている経営者がいる。そんな共存共栄を実現している新しいスタイルの“地方の虎”を、稀人ハンター・川内イオが発掘するシリーズ連載。#5は、日本におけるナポリピッツァのパイオニアであり、国内外で250店舗以上の飲食店を手掛けた“伝説のシェフ”による新たな挑戦を取り上げる。地域農家を悩ませる「フードロス」の課題を解決するニュービジネスとは。
INDEX
  • シェフ、サルヴァトーレ・クオモの現在
  • 日本に移り住み、1日20時間働いた10代
  • 「ここは3カ月で潰れるよ」と言われても
  • 「日本の父親」からのぶっ飛んだ誘い
  • 快進撃。取締役として上場を経験
  • 人生を変えた東日本大震災
  • 質の高い果物を求めて日田市へ
  • ゴミが「ゴールド」に見えた日
  • ジェラートを選んだ理由
  • ジェラテリアを開いてからの変化
  • 仲間を増やして目指す未来

シェフ、サルヴァトーレ・クオモの現在

 「サルヴァトーレ」。1995年、東京・中目黒にオープンした本格イタリアン・レストランは瞬く間に人気店となった。そのオーナーシェフ、サルヴァトーレ・クオモの名に聞き覚えがある人も多いだろう。自身の名を冠したレストランをはじめ、これまで国内外250店舗以上のプロデュースに携わってきたナポリピッツァの伝道師だ。しかし彼が今どこでなにをしているか、知る人は少ない。
 彼はコロナ禍の2021年、縁もゆかりもなかった大分の日田市に家族で移住。翌年、市内の道の駅「水辺の郷おおやま」内で、食の未来を考える研究所「Chefs Lab3680」を立ち上げた(3680はサルヴァトーレを当てたもの)。
 そこで最初のプロジェクトとして開発したのが、地元で採れたものの市場に流通しない規格外のフルーツを採用したジェラート。2022年8月には、JR九州子会社のおおやま夢工房と組んで「ジェラテリア ラボ3680 OKUHITA」を開いた。スイカ、梨、イチゴ、梅などを使った6種類のジェラートはすべて、果実の含有量が50%を超える贅沢な作りだ。
「ジェラテリア ラボ3680 OKUHITA」の外観。
 シェフ、プロデューサーとして国内外を飛び回っていたクオモがなぜ日田市に拠点を構えたのか? なぜ、ジェラートを作り始めたのか? なにを目指しているのか?
 日田駅から車で20分、国道沿いにある「道の駅 水辺の郷おおやま」に向かった。もともとレストランだった建物を改装した「Chefs Lab3680」は周囲を山に囲まれ、すぐ近くを川が流れていて、深呼吸したくなるような清々しい空気に満ちていた。

日本に移り住み、1日20時間働いた10代

 クオモは1972年、ナポリ人の父と日本人の母の間に長男として生まれた。父が日本への移住を決断し、家族で千葉市内に移り住んだのが1984年、クオモが12歳の時。父と母はナポリの家庭料理を出すレストランを開き、クオモとふたりの弟は地元の学校に通った。しかし言葉の壁に苦しみ、ひとりの弟と1年でイタリアに戻り、クオモは北イタリアの料理学校に通った。
 「4歳ぐらいの時からおばあちゃんと一緒にキッチンに入って、料理を見続けてたんだ。学校に行きたくなかったから、11歳の時には父親にピッツァ職人になると言って修業を始めたよ。親戚がピッツァ屋をやっていたからね」
 クオモは料理学校に通い、そのまま料理人を目指すつもりだったが、卒業前に父が癌になったため、18歳の時、日本に戻った。それから間もなくして、父が亡くなった。その後も日本に残ったのは、父が日本にお墓を建てることを望んだからだ。「父を異国にひとりで残していくわけにはいかない」と思ったという。
 寝耳に水だったのは、父が大きな借金を抱えていたこと。当時は「ナポリタンがナポリ料理だと思われていた」時代だったから、父が作る本格的なナポリ料理が受けなかったのだ。
 店を手放し、借金を背負ったクオモ兄弟は、「本物を作れば勝てる」という父の考えが通じなかったことを実感。「まずは日本のことを知ろう」と、次男は関東圏を中心にレストランを運営するジローレストランシステムで飲食店のノウハウを、三男はホテルオークラでサービスを学ぶことになった。長男のクオモは料理人として飲食店で働きながら、夜間の警備員などほかのアルバイトも掛け持ちして借金を返した。
 「父親が亡くなった時、借金もあったから仕事を変えた方が楽だったと思う。時給も安かったし、もっと稼げる仕事もあった。でも、やっぱり食べることも料理も好きだったからね。あの頃は1日20時間ぐらい働いてたよ」

「ここは3カ月で潰れるよ」と言われても

 転機が訪れたのは、イタリア語学校で料理を教えていた1995年、23歳の時。アシスタントをしていた女性の父親と意気投合し、中目黒の目黒川沿いにレストランを出すことになった。店名は「サルヴァトーレ」。のちに大規模展開する「サルヴァトーレ・クオモ」の初代ともいえる存在だ。弟ふたりを呼び寄せたクオモは、考えた。
「自分たちの故郷ナポリ、そして父親を表現しよう」
 ナポリから職人を呼び、薪窯を作って、ナポリで通用するナポリピッツァを出すことに決めた。オープン前、店に来たある著名な評論家がそのナポリピッツァを見て「こんなのイタリアのピザじゃない。ここは3カ月で潰れるよ」と言い放った。クオモ兄弟はその言葉に耳を貸さず、「自分たちが思うようにやろう」と頷き合った。
日本における「ナポリピッツァ」のイメージを塗り替えた(写真はイメージ)
 店のサービスも自己流を貫いた。「ボナセーラ!」と大声で叫ぶようなイタリアンが日本で流行っているのを見て、「イタリアではありえない。でも日本人はそういう大げさな雰囲気が好きなのだろう」と映画『ゴッドファーザー』のテイストに合わせてスタッフの髪型、服装も統一。日本語も一切話さないように決めた。
 ほかにも営業時間はディナーだけ、コース中心のメニューなど当時珍しいスタイルだった「サルヴァトーレ」は、オープンしてすぐ行列ができる店になった。
 その人気ぶりは、店を開いた年の8月、弟とともに人気テレビ番組『料理の鉄人』に出演していることからもわかる。メディア露出が増えるとますます行列が伸び、1年先まで予約で埋まるようになっていった。

「日本の父親」からのぶっ飛んだ誘い

 独立から3年後、26歳のクオモはイタリアに戻っていた。心身ともに疲れ果て、抜け殻のようになっていた。「サルヴァトーレ」でブレイクし、芸能事務所と契約した彼は、メディアに引っ張りだこになり、一時期はテレビのレギュラー番組を週に5本も6本も抱えるようになった。麻布に新店を出したにもかかわらず、お店にも顔を出さなくなっていた。その生活が2年を過ぎた頃には、お店も体調もおかしくなっていた。
 「勘違いし始めたんだよな、自分が芸能人になったんじゃねえかって。深夜2時に帰宅して、早朝5時に迎えがくるようなスケジュールで、心臓発作を起こしてね。身体を壊しちゃうとなにもできないから、仕事も家族もぜんぶダメになった。それで、もういいやと思ってイタリアに帰ったんだ」
(提供:LAB3680)
 「もう飲食は絶対やらない」と心に誓っていたクオモを翻意させたのは、当時、西麻布の会員制レストランXEX(ゼックス)のオーナーだった金山精三郎。ふたりは、クオモが19歳の時に出会い、独立するまでの間にゼックスで仕事をしたこともあった。
 1999年、ナポリまで訪ねてきた金山は、「会社を上場させたいんだ」と言った。当時、ゼックスが運営する店は2店舗しかなかったから、クオモは首を捻った。しかし、金山も冗談を言いにナポリまで来たわけではない。クオモにとって「日本の父親」のような存在である金山の言葉を聞いているうちに、情熱的なナポリ人の血が騒ぎだした。
 「日本でもう一度なにかやるなら、このぐらいぶっ飛んでることをやらなきゃな」

快進撃。取締役として上場を経験

 2000年、日本に戻ると、金山が前年に立ち上げたワイズテーブルコーポレーションが東京・青山に開いたラグジュアリーイタリアン「Salvatore Cuomo Bros.」の総料理長に就いた。その頃、ある人に忠告された。
 「自分の仕事がなんなのか、考えろ。お前は芸能人じゃねえぞ、料理人だろ」
 この助言を受け入れたクオモは、メディア出演を控え、料理人としての仕事に集中した。それが功を奏したのだろう。「Salvatore Cuomo Bros.」は瞬く間に人気店となった。それを機にミドルクラスの「The Kitchen Salvatore Cuomo」、カジュアル路線の「PIZZA SALVATORE CUOMO」と合わせてフランチャイズ化し、全国展開を始めた。
 それはまさに飛ぶ鳥を落とす勢いで、クオモによると5年間で約40店舗まで拡大。ワイズテーブルコーポレーションは2004年、東証マザーズに上場した。この時、同社の取締役として上場を経験したクオモは翌年、ワイズテーブルコーポレーションの子会社「SALVATORE CUOMO JAPAN」の代表取締役社長に就任した。
  クオモの快進撃は、止まらない。2006年には、ナポリで開かれる世界最高峰のピッツァの祭典「Pizzafest」に「PIZZA SALVATORE CUOMO」チームを率いて出場し、テクニカル部門で最優秀賞を受賞。翌年は総合部門準優勝、その次の年は総合部門第3位に輝いた。
「料理人って有名になることはできるけど、上場までたどり着くのはなかなか経験できることではないでしょう。しかも自分の名前がついた店がこれだけたくさんある料理人って日本でほかにいないよね。さらに、若い職人を育てて世界一になってるわけですよ。考えてみてください。これは日本で寿司の大会やって僕が優勝しちゃうみたいなもんで、すごい話だよね。料理人として考えられないような成功をしたと思ってますよ」

人生を変えた東日本大震災

 2011年4月、東日本大震災から1カ月後、クオモは宮城県の被災地、七ヶ浜町にいた。ボランティアで炊き出しに参加したのだ。三陸海岸に面したその町は、大津波に町の3分の1を飲み込まれ、甚大な被害を受けていた。
 壊滅した町の様子を見て言葉を失ったクオモは、しばらくして炊き出しが始まった時、ひとりの女性に目を奪われた。食事を受け取るために並んでいたその女性は、明らかにお金持ちだった。お金持ちでも、そうじゃなくても、天災が起きればみな同じ境遇になる。そのことに気づいた瞬間、これまでにない思いが芽生えた。
 「いつ、なにが起きてもおかしくない。仕事もお金も、どういう風に失うのかわからない。それなら、本当に自分のやりたいこと、楽しいと思えることをやんなきゃ」
 振り返ってみれば、2005年に社長に就任してから店のキッチンで料理をするよりも、社長業に時間を割くようになっていた。年間250回も飛行機に乗るような生活で、たまに店舗に足を運んでも、1時間もいられなかった。あとは移動しているか、オフィスで会議、もしくは書類にサインをしているか。
インドネシアの店舗にて(提供:LAB3680)
 それはそれで充実した日々だったが、被災地に行って自分の人生を振り返ったクオモは、ひとつの結論に達した。
「コックコートを着てる姿が、自分だな」
 それからの決断は早かった。翌年、「SALVATORE CUOMO JAPAN」をワイズテーブルコーポレーションに吸収合併させ、同社の社長を退任したのだ。
「料理人って、いくら稼いだかじゃないの。自分が作った料理をお客さんが食べた瞬間の『うまい!』という顔を見た時に、一番でっかい満足感を得る職業なんですよ。しかも、ご飯を食べて、はいお金っていうわかりやすい商売でしょ。僕みたいなせっかちな人間にはすごく合うんだよね。麻薬みたいなもんで、やめられないんだ」

質の高い果物を求めて日田市へ

 社長として背負っていたものを肩から降ろしたクオモは、ワイズテーブルコーポレーションの一員として海外展開に力を入れるようになった。それまでも上海(2006)、韓国(2009)に進出していたが、その勢いを加速させ、2014年に台湾で直営店、2016年には韓国とフィリピンでフランチャイズをオープンさせている。
 そのうちに、「自分の会社のチームじゃなくて、ひとりで誰もいない市場に行ったらおもしろい」と思うようになり、クオモ個人で現地パートナーと組んで、2019年7月、フィリピンのマニラに新業態「Salvatore Cuomo Café」を開いた。
 ワイズコーポレーションのバックアップなしでこの店を完成させたことに自信を得たクオモは、さらに独自路線を進めようと考えた。そのタイミングで、新型コロナウイルスのパンデミックが起きた。知り合いから「家族を連れて日本に戻ったほうがいい」と言われ、マニラから東京へ。さらに東京の混乱を目にした後、「これは長引きそうだ」と考えて、以前に住んだことのある福岡の百道浜へ移った。
 コロナ禍で時間に余裕ができたクオモは2020年秋、ふと思い立ってイースト菌の研究を始めた。イースト菌は「酵母」という微生物で、そのなかでもフルーツや穀類から発酵力が強くパン作りに適したものを分離し、培養したものを指す。ピザを膨らませるためにも欠かせない。
 「イースト菌の研究には、いい果物が必要だ」と考えていた時、思い浮かんだのが大分の日田市。クオモは熊本にある黒川温泉が好きで、博多から向かう時にいつも日田を通っていた。そのため、盆地で寒暖の差が激しい日田市が、日田梨をはじめとした果物の名産地だと知っていた。
「水郷」日田市には阿蘇山を水源とする筑後川をはじめ、多くの河川が流れ込む。
 思い立ったが吉日。クオモは空き家バンクで梨やブドウが採れる広大な畑と山がついてくる古民家を見つけると、すぐに購入し、2021年12月、スイス人の妻と小学生の子ども3人を連れて、日田に移住した。
「家族にここに行くよって言ったら、頭大丈夫?って感じだったんだけどね(笑)。コロナもあって子どもの環境を変えたかった」

ゴミが「ゴールド」に見えた日

 移住する少し前、日田に目をつけて通い始めてすぐの頃、畑に大量の梨が山積みされているのを目にした。最初は「発酵させてイースト菌を作っているのか?」と思ったという。しかし、何日経っても梨の山が手つかずだったため、気になってその梨畑にいた高齢者に尋ねた。
「これはなにを作ろうとしてるの?」
「ゴミですよ」
「ゴミ!? ゴミってどういう意味?」
「採りきれなくて、捨てるものです」
 クオモは耳を疑った。料理人として、日本のフルーツがどれだけ高値か知っている。さらに話を聞いて、愕然とした。その高齢者は、「自分たちは高齢だから、梨が採りきれない」「ちょっとでも傷がつくと高く売れないから捨てる」「このゴミはお金を払って引き取ってもらっている」という。
 クオモは思わず、「レストランで皮付きのフルーツを食べたことあります?」と聞いた。自分たちは必ずフルーツの皮をむいて調理する。それなのに、皮に傷がついたから捨てるということが、まったく理解できなかった。その時、一緒にいた知人は、「日本では当たり前のこと」だと言ったが、納得できなかった。
 「当たり前じゃないよ! 間違えてるよ!」
 あまりの衝撃にしばらくその場から動けなかったクオモだが、しばらくして冷静になると、捨てられる梨の山が「ゴールドに見えた」という。
農林水産省によれば、令和2年度の日本の食品廃棄量は約522万トンにも登る。(写真はイメージ)
 「農業をやる人たちがいなくなっちゃうと、レストランはもう終わりだから。この人たちが儲かるような仕組みを作ったら面白いだろうなと思ったんだよね。それまで捨てていたものをお金に換えることで、農業が少しでも魅力的な仕事になれば、農業をやりたい人が増えるかもしれない。そうなれば、料理の世界も終わらない」
 料理人として250以上の店舗をプロデュースし、上場も経験しているクオモのビジネスマインドが急速に回転し始めた。

ジェラートを選んだ理由

 市場に出る前に、「規格外」などの理由で畑の肥やしになったり、廃棄されたりする農作物は全国で年間200万トンに及ぶと推定されている(東京農業大学農友会農村調査部「農作物の生産現場で発生する食品ロス」)。
 畑のフードロスが多いのは、日田市も同様だ。看過できない実情を知ったクオモは、規格外の果物を生産者から仕入れてジェラートを作ろうと考えた。そこには、ジェラートなら老若男女問わず食べられるし、輸送も簡単になるという利点のほかに、クオモならではの視点があった。
規格外の果物を仕入れて使うLAB3680のジェラートは、果実の含有量が非常に多い。
「日本の食材を海外に持っていった時、和牛の次に価値の高いものって果物なんですよ。僕がこのジェラートを海外に持っていって、日田の果物ですよって伝えたら、こんなにおいしい果物がある日田に行ってみたいと思う人もいるでしょう。食べ物はその国のドアを開く鍵なんだよ。そうやって外国人をこの地域に連れてきたら、違う経済が生まれるじゃない」
 海外で「日田の果物」のインパクトを残すために、「果物を食べている感覚」になるジェラートにこだわった。果物はコストが高いため、一般的なジェラートに含まれる果実は10~15%、多くても20~30%にとどまる。クオモは規格外の果物を仕入れることで、果実の含有量が50%を超えるジェラートを開発した。
 さらに、アレルギーに配慮しつつ果物の味を際立たせるために、一般的なジェラートで使われる牛乳の代わりに、水と塩を使っている。スイカに塩をかけて甘みを引き出すのと同じ理屈だ。ジェラートの味を整えるためにミネラルを含む塩が必要だったが、日田から東へ車で1時間ほどの湯布院にミネラルを豊富に含んだ天然の炭酸水があることがわかり、それを使うことで解決した。
 「海外の果物って、味がないんだよ。スイカなんてキュウリ食べてるみたい。だからこそ、ジェラートで使う日田の梨やスイカ、イチゴ、梅そのものの味を表現するようにしたんだ。このジェラートを食べたら、なんでこんな味がするんだってすごいインパクトだと思うよ」

ジェラテリアを開いてからの変化

 肝心のフルーツは、仕入れに手こずった。日田市や大分県を頼ったが、販売できるような量を確保できなかった。それならと自分たちで市場を回り、規格外の果物を買います、できるだけたくさん欲しいと言っても、よそ者は相手にされなかった。
 しかし、メディアはサルヴァトーレ・クオモが日田でジェラート作りを始めたという話題に食いつくとわかっていた。そこで、メディアを通じて自分たちの活動を広め始めると、理解を示す生産者がひとり、ふたりと現れた。そうしてようやく商売できる量のスイカ、梨、イチゴ、梅を確保できるめどが立った。ここからもうひとつ、越えなければいけないハードルがあった。
 「例えばイチゴだけでも売ってくれる人が何人もいるわけでしょ。それぞれ、クオリティが違うわけ。しかも、その量が毎日変わるから、味のバランスを取るのは本当に大変ですよ。僕らは、さすが! と思われるものを出さなきゃいけないから、ずいぶん研究しました。そういう意味では楽しいところときついところが同時にありますけど、いいものができた時の満足度は高いね」
「Lab3680」は地元の食材を用いたSDGsプロジェクトとして多様な商品開発をしている。
  日田産の果物4種類に加え、豆乳&ココア、豆乳のジェラートの計6種類、すべてのジェラートの味を完成させ、研究所を構える「「水辺の郷おおやま」内にJR九州子会社のおおやま夢工房と組んで「ジェラテリア ラボ3680 OKUHITA」を開いたのは2022年8月。
 ジェラテリア開店のニュースは、さまざまなメディアに掲載された。その後は、生産者から「これを使ってもらえませんか?」と問い合わせがくるようになった。そのおかげでジェラートの種類も増え、期間限定で柚子や福岡県うきは市産の桃などがケースに並ぶこともある。
 「農家の人は規格外の食材を作ろうと思って作ってないんだよ。どれに対しても同じ力をかけているわけ。それなのに見た目でA級、B級を決めるのが、果たして正しいことなのか。味で評価してあげたいと思うし、そうなるべきだと思う。目標はジェラートがたくさん売れて、彼らがインセンティブをもらえるぐらいの仕組みにすること。今は仕入れられるフルーツの量が増えたから、ジャムも開発しています」

仲間を増やして目指す未来

 ジェラートを作り始めてから、役人や農業関係者など多くの人がクオモのもとに相談に訪れるようになった。それぞれ内容は異なるが、それ以前にクオモには伝えたいことがある。
 「自分たちがなにを持っているかを、忘れちゃってるんだよね。別の人のやった勝負で考えちゃうんです。自分の強いとこってなんですかって聞きたいよ」
 クオモは、日本のフルーツの味は世界に誇れるものだと思っている。本人が望めば、レストラン「サルヴァトーレ・クオモ」のように日本全国で規格外のフルーツを使ったジェラート店をチェーン展開することもできるだろう。しかし、それをやるつもりはない。
 「今までは、日本人に本物のイタリアンを伝えることが僕の仕事だったんだけどね。僕は半分日本人の血が入っているから、これからは他の国で日本にはこういう食材があるんだよ、すごくおいしいんだよと伝えることが重要な役割だと思う。そのためにこのジェラートもあるから」
(提供:LAB3680)
 むしろジェラート作りに関しては、「どんどん真似してほしい」と語る。同じ志を持つ仲間がいることの大切さを知っているからだ。父親は「本物のナポリピッツァはこれだ!」と孤軍奮闘したが、うまくいかなかった。それは、ひとりだったからだとクオモは捉えている。
 だから、たくさんの店で弟子たちにピッツァの作り方を教えてきた。料理人は腕が立つほど独立していくから、弟子は未来の競合ともいえる。それをわかったうえで、「この子たちがどんどん世に出ていけば、本物のピッツァの味が日本中に広がっていく」と考えていた。
 自分がやってきたことは間違いじゃなかったと心の底から実感したのは、10年前のこと。大好きな黒川温泉に行った時、「ご飯を食べよう」と外に出たものの、周囲にめぼしい飲食店がなく、探し歩いていたら、町はずれにナポリピッツァの店を見つけたのだ。その瞬間、「おれが始めたことが、ここまで来たんだ」と思えて、無性に嬉しくなった。店の扉を開けると、クオモのことを知る店主はなぜここにいるのかと驚嘆したらしい。
 「この時に、仲間が増えるってすごいことだなって思ったんですよ」
 市場に流通しない規格外の果物を活用してジェラートを作る人たちが増えれば、果物を運ぶ人、加工する人、売る人が必要になり、その土地に仕事が増える。それで生まれる経済は小規模かもしれない。しかし確実に地域を循環し、潤すだろう。
 クオモが移住した町の名前は、夜明(よあけ)。ナポリピッツァの伝道師は、「子どもの頃から大好き」というジェラートで、日本の農業と地域に新たな夜明けをもたらす。