進撃の中国IT

ネット巨頭の餌付けに慣れれば動けなくなる…

全民マーケティング時代、「ユーザー」の逃げ場はどこに

2015/3/3

 Marketing terms scheme in orange colors to be used as background

呑み込まずにはいられない「カロリー」と「お年玉」

米国の詩人レイモンド・カーヴァーの短編「でぶ」(原題「Fat」)で描かれる太った人物は、レストランで大量の料理を注文し、満腹を知らないかのように、体重も顧みず延々と食べ続ける。それを読みながらぼくは、「そんなに太っているんだから食事を減らすべきだろう。どうしてやめられないんだ」と思っていた。

が、ほどなく、この人物はその行為を改められないから太ったのだと思い当たった。でなければ、とっくに改めてるはずだ。この「でぶ」はとっくに節度のない大食いに慣れきってしまい、セルフコントロールができなくなっている。食べ方を改める能力もない。どうやら口にものを詰め込まないと落ち着けなくなってしまっているようだ、と。

だが、今の我々も似たような状況に直面している。違うのは、控えるべき対象がカロリーではなく、「ビット」だというところだ。

この春節に起きたお年玉フィーバーでは、ぼくの「微信 WeChat」(以下、WeChat)でつながっている連中は夜を徹して、友人、親戚、知人、さらにはあまり知らない人のグループにまで入り込んで争奪戦を演じていた。ぼくは別のSNSの「お年玉グループ」に迷い込んだものの、あまりの混みように慌てて撤退した。

この大洪水に巻き込まれずに時間を興味のあることに回そうと、ぼくは「お年玉争奪は5回まで」というマイルールを設けた。だが、大小のお年玉を他人が奪っていくのを目にすると、やはり渇望感は免れなかった。

新年のお祝いだとわざわざ送ってくれた友だちからのお年玉は、おとなしくいただいた。そちらは0.01元(1元=約19円)から100元を超えるものまでいろいろあった。だが、それを手にすると落ち着かなくなった。他人からお金をもらうなんて借金でもしたような気になるが、好意のお年玉を受け取らないのも失礼だ。ではお年玉のお返しをしようか、いくらにすべきか、となり、ここでまた決めかねて気が気でなくなった。

「人」ではなく、ただ「データ」で分類される「ユーザー」

広告みたいなお年玉も届いた。「XXXブランドから新年のご挨拶」「お年玉をもらったらすぐグループに知らせなきゃ!」といったキャッチフレーズが、WeChatのタイムラインを飛び交っていた。もちろん、ぼくのような貧乏人を選んでわざわざ送られてくる広告もあった。これまでWeChatのタイムラインはプライベートな領域だと思っていたが、今やビジネスに攻め落とされている。

アリペイ[訳注:WeChatと並ぶ、2大第3者決済サービスの一つ]からもショートメッセージが届いた。知らない差出人がぼくにお年玉をくれるといい、ログインしてその額を言い当てればそれを受け取れるというのだ。何度も何度もそんな通知に煩わされて、「ただの懸賞じゃないか。確率って言葉を知らないとでも思ってんのか。そんなヒマじゃないんだよ」と返信してやりたいとまで思った。

問題は、これらがどれもぼくが全く無防備な状況で生じていることだ。こちらの需要も嗜好(しこう)も問うことなく、ずかずかと生活に割り込んでくるのだ。

拒絶のしようがない。

抗議することもできない。

隠れようもない。

インターネットビジネスの巨頭の前には、恐ろしいことに一個人としてのぼくなんてとてもちっぽけで、取るに足りない存在なのだと思い知った。

ぼくはそこではもはや「人」ではなく、ただの「ユーザー」なのである。そして、何らかの「ペルソナ」に分類され、なにがしかのデータセットで「ぼく」という特徴が記されているだけなのだ。

巨頭は神、そしてぼくらは俗人

ぼくが拒めないものを、巨頭たちはよく知っている。

ぼくもタクシー配車アプリで予約を入れた時に「ご祝儀」を受け取れば、笑顔になる。一方でスマートフォンが壊れて、寒風の中で子どもをだっこして何十分も流しのタクシーに手を上げ続けるはめになると、見捨てられたような気分に沈んでしまう。

11月11日のシングルズデーだろうが、12月12日のショッピングデーだろうが、人工的なさまざまなお祭りに、そもそも必要のない商品に飛びつく無数の人を横目にぼくは財布の紐を固くしている。だが、そこらじゅうひっきりなしの騒ぎは耳に入ってくる。なのに、限りある地球の資源がこうした無節制な消費フィーバーと更新され続ける天文学的数字騒ぎの中で、多大な浪費にあっていることを問う人はいない。

こうしたフィーバーに疑問を呈するのは難しくなってしまった。

あれは社会が前進しているのだ。彼らのボスは誰もが羨む成功者なのだ。彼らの言葉には神がかった啓蒙(けいもう)性がある。

一方、ぼく、そしてぼくたちは、俗物で、目先がきかず、大きな流れに従う一般人にすぎない。

独立した自己、自由な発信が難しい時代に

今日のぼくたちはほぼ誰もが買収されやすく、ほぼ誰もがどこぞの企業のマーケティング拠点になってしまっている。「XX配車システム利用クーポン」を友人たちがおしゃべりするタイムラインでシェアしたり、懸賞イベントを友だち3人と共有したりする時のぼくらは、もう買収されてしまっているのだ。

今のネットワークコミュニティはどこでも、何らかのご祝儀商品によって瞬時に同質化されてしまう。同じような話をし、同じようなことをするようになる。

何十年も続けてきた生活習慣が、たった1回のちょっとした利益という衝撃で簡単に塗り変えられてしまうのだ。

つまり、絶えずエサを与えられ続けて太ってしまえば、ぼくらも自由に行動する能力を失ってしまう。我々は簡単に操縦される人になってしまう(もしくはもともとそんな人間なのかもしれないが)。我々は巨頭たちの陣取り合戦の戦利品に過ぎないのだ。

こうした時代において、独立した自己を保ち、自由に考えを発信すること、ただ単純に「本当のことを言う」ことさえも、ますます難しくなっている。自分たちが話していることが事実なのかどうか、分からない時さえある。例えばある友人がキャッチフレーズをタイムラインに流したとき、それをジョークと見るか、何かの模倣とも、あるいは本当の話とも見ることができる。

そこに人間関係、人情、利害、ビジネスが緊密に混在しているとき、本当の境界線はどこにあるのだろう。いや、そんなにきれいに分けてどうするんだという人もいるかもしれない。

「餌付け」されたぼくらには逃げ場がない

ネット上で少なからずの発言力を持つ人間として、ぼくにとって明らかなのは、「耳障りの良いことを言う」ほうが「耳の痛いことを言う」よりずっと得をするという事実だ。「耳障りの良いことを言う」と、時として少なからずの利益がついてくる可能性が高いからだ。

しかし、利益のために耳障りの良い話をするのなら、そのうちいつの間にか、耳障りの良い話のどれが事実で、どれがそうでないのか、判らなくなってしまうのではないだろうか。

また、よからぬことをした友人への批判を率直に口にしてよいものだろうか。相手のメンツや気持ちを考えてやるべきだろうか。それとも友人の言動にはひたすら「いいね」すべきなんだろうか。

しかし、もし耳障りの良い話をせず、「いいね」もせず、お年玉の争奪戦にも参加しなかったら、ぼくは世の中に恐れられる「異物」、孤独な「モンスター」になってしまわないだろうか。

…分からない。

分かっているのは、「全民マーケティング」の時代には、元来明らかだったことが曖昧になり、純粋だった関係が複雑になり、シンプルだったはずの言葉が意味深長なものになってしまうということだけだ。ぼくもすべての人と同じように、次々と「餌付け」され、自分の本能と争ってもがく。時には負けを認めつつ、時には壮烈なまでに誰もが「当然の結果」と思う中で暮らしたくないと思いつつ、どこにも逃げ場がないのである。

(執筆:崔翔宇/ifanr.com 翻訳:古川智子 写真:@iStock.com/ManuelSousa

※本連載は毎週火曜日に掲載する予定です。

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