2023/4/22

【山口】カニカマを世界に普及させた老舗装置メーカーの復活劇

ライター
おすしやサラダの具材として使われるカニ風味のかまぼこ「カニカマ」。いまやヘルシーフードとして日本だけでなく、世界中で人気の食品ですが、その製造装置で世界シェア7割を超えるのがヤナギヤ(山口県宇部市)です。創業100年を超える同社はニッチな分野で技術力を磨き、化粧品や医薬品など幅広い業界に装置を提供しています。

3代目の柳屋芳雄社長(72)は「目の前にいるお客さまの『困った』を解決するのが我々の役目だ」という経営哲学を持っています。売り上げ規模を追わず、顧客の声に耳を傾けて装置を作り続ける。そんなスタイルを貫き続ける老舗企業の歴史と強さの背景を探ります。(全3回)
INDEX
  • 世界23カ国にカニカマ製造機を輸出
  • かまぼこ作りの機械化が原点
  • 全国行脚で見つけた「金の鉱脈」
  • カニカマブームに乗って世界展開
  • 日本の中小企業のモデルに
柳屋芳雄(やなぎや・よしお) 1950年山口県生まれ、日本大学経済学部卒業後、兵庫県のかまぼこメーカーに就職。1975年に24歳の若さでヤナギヤの3代目社長に就任。1979年にカニカマ製造機を開発。水産練り製品だけでなく、あらゆる食品や日用品、医薬品向けに装置の販路を広げる。

世界23カ国にカニカマ製造機を輸出

細い繊維が束ねられたスティック状の身をかじると、ホロッと崩れて口の中いっぱいにうまみが広がります。表面の鮮やかな赤味やプルプルとした弾力。ヤナギヤの装置で作られたカニカマは、食感も見た目も味わいも、カニの足の身そっくりです。
カニカマはインスタントラーメン、レトルトカレーなどと並んで、戦後日本の食品3大発明品として知られています。なかなかふだんは食べられない高級なカニの風味を気軽に楽しめる食材として、日本国内で年間6万トン程度、世界では60万~70万トンほど製造されています。
山口県の緑豊かな山々に囲まれた場所に、ヤナギヤの本社があります。3階建ての四角い本社ビルは一見、どこにでもありそうな中小企業のたたずまいです。しかし実際は、カニカマ製造装置でシェアトップを誇り、23カ国に輸出してきた世界的な企業です。2014年には経済産業省の「グローバルニッチトップ企業100選」にも選ばれました。
米国ではカルフォルニアロールの具材、タイではおでんや揚げ物、フランスでは老若男女のおやつ……カニカマは世界でいろいろな食べ方をされています。
「カニカマの製造装置といっても実際は何種類もあります。国や地域によって求められる味や食感が違うので、それぞれの顧客に合わせてオーダーメードで作っています」
同じような機械を大量生産することはせず、顧客のニーズにとことん寄り添ってものづくりをする。柳屋芳雄社長は経営者として、ずっとこの姿勢を貫いてきました。

かまぼこ作りの機械化が原点

ヤナギヤは1916(大正5)年、「柳屋蒲鉾店」として創業しました。宇部市のかまぼこ店を祖父・柳屋元助氏がその父親から受け継いだことが始まりです。当時のかまぼこはすべてが手作業。特に大変だったのが「練る」作業です。細かく切った魚の身を粘りが出るまですり鉢などで練り込んでいました。
元助氏はこの大変な重労働である工程をなんとか機械化したいと考えました。そこで開発したのが、魚肉を均一に混ぜたりつぶしたりする撹拌擂潰(かくはんらいかい)機です。
戦後の1950年に株式会社柳屋鉄工所を設立。すり身プラントなど幅広い食品加工機器を手掛け、どんどん成長していきました。
ただ、1973年の第1次石油危機が起こったあたりから業績は伸び悩み、社員の士気も下がっていきました。2代目の父・幸雄氏の体調が良くなかったこともあり、大学卒業後にかまぼこメーカーで修業していた芳雄氏は、24歳の若さで社長に就任します。
昭和に入ったころの柳屋蒲鉾店(提供:ヤナギヤ)
「私が社長になって会議に参加してみると、『できない理由』をうまく述べる会議でした。売れない理由、間に合わない理由、調子が悪い理由をみんなが上手に説明するのです。私が『もうそんなことはわかっている。だったらどうすればいいか、改善策を教えてほしい』と言ったら、みんな答えられませんでした。まるで流行らないレストランの『まずい、遅い、汚い』というような状況でした」

全国行脚で見つけた「金の鉱脈」

厳しい状況でバトンを受け継いだ芳雄社長は改革に乗り出します。まずは会議で機械の売り方を改善したり、改良のアイデアを出したり、前向きな提案を出すように求めました。そうして言い訳ばかりだった会議の雰囲気が変わり始め、ポツリポツリと良い提案が出るようになっていきました。
さらに営業のテコ入れも始めました。営業スタッフと一緒に2トントラックに乗り、全国各地の企業を訪問したのです。「どんな企業も経費の削減で復活することはない。売るための努力をしていくしかない」――そういう考えのもと、なんとか機械を買ってもらおうと頭を下げ続けました。同時に、顧客から聞き取った製品の価格や機能、メンテナンスへの課題を会社に持ち帰り、ひとつひとつ改善していきました。
さまざまな意見や要望に耳を傾けるなかで、注目したのがカニカマでした。1972年に石川県の食品メーカーのスギヨが世界初のカニ風味かまぼこ「かにあし」を発売。市場に出た途端に評判となり、いきなり大ヒットします。これが現在まで続くカニカマの誕生です。芳雄社長は顧客から商品のうわさを聞き、これをビジネスチャンスとみて製造装置の開発に乗り出しました。
最初は市場で出回っているカニカマを手に取り、素材の質感や弾力、食感の研究からスタート。それを実現するにはどのようなアプローチがいいか、技術者が知恵を出し合いました。
すでに持っていたかまぼこの製造技術を生かし、約1年がかりで1979年に初号機を完成させました。この製品が話題を呼び、業績回復のきっかけとなりました。
その後もリアルなカニの身の食感に近づけるための改良を続けます。スケトウダラなどのすり身を薄いシート状に伸ばし、線維状に細かく切って束ねる。そんなアイデアを形にするため、原料の練り方を工夫したり、斜めに細断してつなぎ替えたりしていきました。
ヤナギヤのカニカマ製造装置(提供:ヤナギヤ)

カニカマブームに乗って世界展開

カニカマが世界に広がったのは1980年代。当時は国内のかまぼこ会社がカニカマを海外で売ろうと、プロモーションを強化している時期でした。
「海外展開については世界的なブームに乗らせてもらいました。かまぼこ屋さんが海外に行くときに、わが社も一緒について行き、各地の展示会に参加しました。当初、カニカマは日本から輸出されていましたが、そのうち現地でも自分たちで作りたいという声が高まりました。そんなニーズを受けて製造装置を売るようになりました」
カニカマは日本の円高や原材料の高騰の影響もあって、徐々に海外での生産が増えていきます。その波に乗ってヤナギヤの装置の輸出も増加。韓国や米国を皮切りに、ロシアやフランス、スペインなどに販路が広がっていきました。
欧州では「Surimi(スリミ)」と呼ばれ、現在は米国やバルト3国のリトアニアが世界のカニカマ主要生産国になっています。その食文化成立の影の立役者となったのがヤナギヤの装置ですが、芳雄社長は謙虚に笑ってこう言います。
「トップシェアといっても、カニカマの製造ラインは世界中で合わせても数百台という単位でしかありません。非常にニッチで狭いマーケットです。わが社はそのなかで有名になっているだけです」
ヤナギヤの装置は世界で使われている(提供:ヤナギヤ)

日本の中小企業のモデルに

2016年9月、当時の安倍晋三首相は臨時国会の所信表明演説でこう述べました。
「欧州、アジアなど世界中で、いまカニカマボコが一世を風靡しています。その製造装置で、世界の市場を制覇したのは、地方の中小企業です。100年前に誕生した1軒のかまぼこ店は、機械化の工夫を凝らした先に、ものづくり企業へ生まれ変わりました。かまぼこだけでなく、豆腐や菓子の製造装置など新製品を次々と開発。高い技術力を生かし、世界の食品メーカーに販路を拡大してきました」
社名こそ述べられませんでしたが、ヤナギヤが日本企業の成長のモデルケースとして挙げられたのです。安倍元首相と、地元・山口県の老舗企業の芳雄社長は旧知の仲でした。所信表明演説の内容を事前に知らされていたわけでもなく、驚いた芳雄社長がすぐに電話をかけて確認すると、何事もなかったように「言ったよ」と伝えられました。
カニカマ製造機はさまざまな機能が組み合わされてできている(提供:ヤナギヤ)
ヤナギヤは、カニカマを足がかりにさまざまな食品の製造装置を開発しています。当初はカニカマが事業の中心でしたが、それ以外の食品向けの装置の比率を少しずつ高めてきました。現在、約50億円の売上高のうち、カニカマ製造装置の占める割合は5~15%ほどしかありません。近年では日用品や医薬品向けなども増えています。
カニカマなど水産加工装置をコアにして、突起を増やすように取り扱う製品を増やしていく。このスタイルを芳雄社長は「金平糖(こんぺいとう)経営」と呼んでいます。この金平糖経営を支える技術力と営業戦略が、グローバルニッチトップ企業であるヤナギヤを生んだのです。
Vol.2に続く