人生は全てガチャで決まる「成功した自分は偉い」と威張る人のとんだ勘違い - 親ガチャ、クラスガチャ、職場ガチャ
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私個人は、この記事で描かれる「貧しい人」の状況だった中、たくさんの人や国の支援に助けられたのに加えて、努力でも貧しい現実から抜け出したというタイプなので、記事を読んでいて色々な思いが込み上げてきました。
自分の話をコメント欄でするのが適切か分かりませんが、私の家庭には「文化資産」のようなものは一切なく、父親はアルコール依存症でした。父親の家庭内暴力から逃げるために、国の支援でシェルター施設に一時的に逃げ、しばらく生活保護を受けていました。通っていた私立の学校からは幸い奨学金をいただき続けることが出来、その後、別の奨学金をいただき英国の国際高校に留学しました。
努力をすることの価値を否定せずに、自分では抗えない運が存在するんだ、という二つを受け入れるのに私自身は時間がかかりました。色々な痛い思いをしてようやくこの二つの考えを同時に受け入れられつつある気がしますが、すごく難しかったですし、今でも時々ブレそうになっています。
記事にあった「努力する能力をどこかで身につけることに成功した」というのは重要な考えの一つに感じます。私はフィリピンにいるので、日本人に生まれただけで良いガチャを引いたと思っています。
親ガチャ、クラスガチャ、以前にどの国に生まれたかによって人生はだいぶ変わります。
私は大学に行かなかった、良いガチャを引けていませんが、上を見たらきりがありません。自分のガチャをラッキーと思って生きています。
そして、困っている人を助けるのは、良いガチャを持ったからではありません。
自分の行動が他人為になったと実感できれば普通に出来るようになります。
フィリピン住んでいるので貧困と隣り合わせです。
人として自然にやっています。「親ガチャ」に恵まれた人って、周りも必然的に恵まれた人が集まるのだと思います。だから、そんな恵まれている人は、困っている人を、そもそも知らない(周りにいない)のだと私は感じています。
その、恵まれた人が周りにいるという環境も、多くの場合、親が与えた環境から始まっているのですよね。知らないことに罪悪感すら持たないまま、恵まれた人はその環境が当たり前だと思っている人が多いです。だって、そうでない人とは関わるきっかけすらありませんし、せいぜいニュースとかで貧困家庭を知識として知る人ばかりでしょう。
結局は周りにいないのだから、どこか他人事で「助けたい」とも思えないのかなと。
私は「親ガチャ」には恵まれている側だと思いますが「恵まれていたから今がある」と思えた経験も「自分と違う環境にある同級生を救いたい」と思えたきっかけもありました。
それは、同時期に不登校になった子の今を自分と比較すると、家庭環境が大きく関係していたからです。
でもそれは、自分が不登校にならなければ気づくこともなかったことです。
恵まれている人が、自分たちと違う環境にある人がいることを知るきっかけが必要であり、それはそう簡単に訪れるものでもないのかなと個人的に思います。