プロ経営者という働き方

着任早々、債務超過。そのとき下した決断とは

「ひかりTV」成功を導いた内部抜擢型プロ経営者

2014/11/19
光回線の普及拡大を進めるNTTグループ。なかでも、普及にあたってキラーコンテンツとなっているのが、光回線経由の映像配信サービス『ひかりTV』だ。運営するのはNTTぷらら。映画やドラマ・スポーツだけでなく、4KによるVOD(ビデオオンデマンド)サービスなどの映像を配信し、会員数は2014年3月時点で282万人(対前年37万の増加)となるなど、右肩上がりの成長を続ける。ただしこの企業が創業後の2~3年間は「債務超過」状態にあり、実はNTT本体からも清算を命じられる寸前だったことは知られていない。
そんな窮地に急遽、NTTから送り込まれたのが、板東浩二社長だ。プロ経営者というと、会社が窮地に立たされた時、外部からヘッドハントされる助っ人のイメージが強いが、最近は板東社長のように、本体の組織から送り込まれる経営のプロも増えている。連載第8回目は、そんな内部昇進型のプロ経営者、板東浩二社長が実行したNTTぷららの再生ストーリーについて迫る。
NTTぷららの板東浩二社長

NTTぷららの板東浩二社長

巨大企業、NTTがeコマース(電子商取引)の企業「ジーアールホームネット」(現在のNTTぷらら)を5社の合弁会社として立ち上げたのは1995年のことだった。いまでこそ楽天やamazonなどの強豪がひしめき、身近になった電子商取引の業界だが、当時はまだ黎明期。

NTTは固定電話からの収入が長期下落傾向にあり、次世代のビジネスに打って出ようとしていた、というわけだ。この点で、目の付け所は良かった。資本金は約30億円。同グループ内でも屈指の大きさだから、上層部の期待の大きさが実感できる。

会議は踊る

ところが、まったく利益が上がらないだけでなく、事業は赤字を垂れ流していた。1998年には、その額がなんと毎月約1億円に達する。中小企業であれば考えられない額だ。

このタイミングで本社の命を受け、社長に就任したのが、当時弱冠44歳だった板東浩二氏だった。彼が状況を話す。

「設立時の考え方自体はよかったのです。まず、NTTグループのような巨大な組織に属していると、意思決定が遅くなり、インターネットのような変化が早い市場でついていけなくなる。だから分社化をしていたのです」

最終的な決裁は、現場がわかっている人間が迅速に行うシステムだ。そのほかの強みもあった。

「当時のぷららは、大手電機メーカーや、音響メーカー、コンテンツの企業、ゲームの企業の全5社が出資する合弁企業とし、それぞれの得意分野を活かそうとしていました」

それでも利益が上がらなかったのはなぜなのか。

「まず、根本に『横並びでやりましょう』という考え方があった。出資比率は、5社ともほぼ同じ比率。それぞれが社員4~5名と役員を1人ずつ出向させていた。しかし、このために顧客向けのビジネスができていなかった。それぞれが一生懸命やっていたが、方向性がバラバラ。たとえば電機メーカー側は『3Dの技術を使ってもらわなくては困る』と言うし、コンテンツの企業は『雑誌をつくるぞ』と書店やコンビニ向けに売り始めていた。しかも、人事評価はそれぞれの親会社が行なっていて、社長は口が出せない。みんな、(現在の)NTTぷららのために仕事をしているのに、親会社の意向を優先せざるを得なかった」

バラバラの組織を一つにまとめるためには、多くの人間が納得する「政治」的な側面が大事であろう。だが、当時のマネジメント施策はそれぞれの「得意を活かす」どころか「それぞれの立場の主張」になっていた。

貧乏くじをつかまされた?

「おお、ご苦労さん」

事業という戦いの場は、内部での不協和音を許すほど甘くはない。現場でどんなことが起きているのかを知るべく、当時を知る人物に話を聞くと、彼が内情を教えてくれた。

「当時の合弁各社から送り込まれていた役員は、何より『この会社が成り立たなくなったら行く場所がない』という覚悟が欠けているように思えた。雑誌は、書店からの返品が倉庫に山積みになっているような状況。しかも、インターネットの知識がまったくない。さらには役員の給与も高かった」

こんな話も飛び出してきた。

「NTTぷららは、NTTグループの中でも資本金が大きいから、通常であれば、資本力に応じた立場の人間が社長になるはず。しかし、44歳の板東さんが抜擢されたのは、そうせざるを得ないほど、追い詰められていたからだ。当時の板東さんは、グループ各社の社長の集まりに顔を出すと(若さゆえに社長でなく会合の運営者と思われ)『おお、ご苦労さん』などと言われていました。さらに、ジーアールホームネットの社長だとわかると『お前も大変だなぁ』などと同情されていたほど」

ようするに、板東氏は貧乏くじをつかまされていたのだ。ちなみに、楽天が従業員たった6名でスタートしたのは1997年のこと。『Yahoo!ショッピング』のサービス開始は1999年。板東氏が社長に就任した1998年は、まだ日本に電子商取引が根付くかどうか、だれもわかっていなかった時期だ。

これら揺籃期に、ただ組織だけを渡され『キミが社長ね』と言われた板東氏の思いは察するにあまりある。しかも、具体的な企画や施策がなかなか上がってこない。揺籃期だけに、社員たちも何をやったらいいのか、わかっていなかったのだ。

衰退する市場で頑張っても報われない

さらに板東氏は着任早々、驚かされた。「資金をほぼ使い切っていて、会社は『債務超過』の状態にあったのです。(NTTグループの与信力があるため、倒産すべき状況ではなかったが)一般的に見れば、いつ精算してもおかしくない状況ですよね」

だが、板東氏はここで一点の光の筋を見出す。たしかに本業となるべき電子商取引はほとんど利益が出ていなかった。もちろん、雑誌も赤字。だが、同社が始めていたインターネットサービスプロバイダ(ISP)事業である「ぷらら」だけは伸びていたのだ。

当時、NTTは他のブランドでISP事業を行なっていた。NTTぷららは、あくまで、電子商取引の事業を拡大するため、自社でもISP事業を行っていたに過ぎない状態だ。だが、板東氏には、信念があった。

「経営者の役割は、時代の流れを読むこと。どのようなサービスも、立ち上がって、そのあとピークを迎えれば、降りていくことになる」

当時の固定電話のサービスも、そういうものだったかもしれない。板東氏が話を継ぐ。

「そして、衰退していく分野でどれだけ努力しても、結局は報われない」

電子商取引は、まだ市場が成熟していなかった。こういった市場でも「努力は報われない」のは同様だろう。

「しかし逆に、伸びている分野で戦えば、極端な話、そこにいるだけで結果が出せることだってある。社員も充実感を味わえる。経営者の役割は、こういった場所を見つけ、大きく舵を切ることにあると思うのです」

板東氏は重大な決断を下した。弊社は、ISP事業に特化していく――。

本業の変更に対して、NTT本社内での反発は覚悟の上だった。だが、板東氏は思いきって、NTTぷららという船の舵を大幅に切った。そして、ここから彼の、波瀾万丈とも言える快進撃が始まった。

※本連載は毎週水曜日に掲載します。