プロ経営者という働き方

大企業発ベンチャーに必要なこと

NTTぷららも「会社を清算せよ」と言われた

2014/11/26
光回線の普及拡大を進めるNTTグループ。なかでも、普及にあたってキラーコンテンツとなっているのが、光回線経由の映像配信サービス『ひかりTV』だ。運営するのはNTTぷらら。映画やドラマ・スポーツだけでなく、4KによるVOD(ビデオオンデマンド)サービスなどの映像を配信し、会員数は2014年3月時点で282万人(対前年37万の増加)となるなど、右肩上がりの成長を続ける。ただしこの企業が創業後の2~3年間は「債務超過」状態にあり、実はNTT本体からも清算を命じられる寸前だったことは知られていない。
そんな窮地に急遽、NTTから送り込まれたのが、板東浩二社長だ。プロ経営者というと、会社が窮地に立たされた時、外部からヘッドハントされる助っ人のイメージが強いが、最近は板東社長のように、本体の組織から送り込まれる経営のプロも増えている。連載第9回目は、前回に引き続き、そんな内部昇進型のプロ経営者、板東浩二社長が実行したNTTぷららの再生ストーリーについて迫る。
第8回:「ひかりTV」成功を導いた内部抜擢型プロ経営者

1998年に、当時は債務超過状態だったNTTぷららの経営を任された板東浩二氏。NTT本社は、同社に『楽天』のような電子商取引(eコマース)事業の立ち上げを期待していたが、板東氏は経営方針を大きく変え、インターネットサービスプロバイダ(ISP)事業での生き残りを目指すと決めた。

会社を清算せよ

板東氏は、徳島大学工学部電子工学科を卒業し、1977年に日本電信電話公社(現NTT)へ入社している。大学生時代、奇しくも青色LEDでノーベル賞を受賞した中村修二氏と同級生であり、今でも交友があるという。

板東氏の言葉を聞くと、ある側面では中村氏と似た感性がみてとれる。他者に対する依存度が低いのだ。中村氏が日亜化学から「研究をやめよ」と言われても研究を続けたエピソードほど強硬ではないが、板東氏もまた「私がやる、責任も持つ」という決意に満ちていた。

「実を言うと、社長就任わずか2カ月後に、NTT本社の幹部から『会社を清算せよ』と言われたことがあったんです。1999年にNTTをNTT東日本、NTT西日本、NTTコミュニケーションズ、そして持株会社に分割することに伴って、当時200社くらいあった関連会社をどうするか、議論が行われていました。その結果、実績が出ていない会社は清算することになり、弊社も『つぶそう』との意見が出されたんです。すぐ本社へ行って、幹部に『それはないでしょう』と言いましたよ」

もちろん、上が「つぶしてもいい」と言ったのであれば、素直につぶしてしまうという解もあるだろう。この時の板東氏の判断次第では、現在のNTTぷららは存在しなかったに違いない。だが、彼はそうしなかった。ではなぜ板東氏は「残そう」と決めたのか。彼は「例外は様々あると思いますが」と前置きをして、こう話す。

「大企業によく見られる『新規事業開発室』のような部署から、新しい事業が生まれることってなかなかない。個人的には『大変なところを含めてすべてを自分がやろう』と覚悟をしていないことが多いからだと思う。第三者がよさそうなプランを考えて、あとの大変なところは誰かに任せ、『やっといてね』じゃ、どんな事業もうまくいきません。どんな事業を任されるにしても、ずっとその事業に携わると決め、覚悟を決めなきゃいけない」

「その点、当時の私は『大変なところを自分がやろう』と覚悟を決めていた。だから、社長に就任し、わずか数カ月で、企業がつぶされてしまうことに納得がいかなかった。組織への依存度が高いと、人に振り回されて終わり。『誰かがやってくれる』と思い、『誰かの判断だから』と従っていたら、なにもできません」

板東氏の直談判を受け、NTT本社の幹部は一歩譲ってくれた。新たな条件は「手元の資金を使い切る前に単月黒字を達成せよ。できなければ清算」というものだった。
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まずやるべきは、大量出血を止めること

すぐさま、板東氏は具体的な手を打った。前回お伝えした通り、当時のNTTぷららは、NTTのほか、大手電機メーカーや音響メーカーなど5社が、ほぼ同じ比率の株式を保有していた。

社員の人事権は、出向元の各親会社にある。だからこそ、社員は親会社の意向が気になってしまい、施策が顧客ニーズと乖離することがあった。そこで彼はNTTの出資比率を高め、人事評価はNTTぷららで行うこととし、全員が同じ方向を向いて仕事ができる環境を整えた。

ようするに、彼が最初に手を付けたのはリストラだ。次に手を付けたのは、人員の入れ替え。企画が得意な人間は出向元に戻ってもらい、NTTぷららには、事業の運営が得意な人物を集めた。

「企画部門の担当者も、様々、よい案を出してくれてはいた。たしかに、新しい企画を考え、収入源を確保すべき状況ではありましたから。でも、(ゼロベースで始める)新しいサービスが収入に結びつくかどうかは、やってみなければわかりません。また、収益が出るまでに時間もかかる。そこで、まずは現時点で黒字が出ている事業にリソースを集中しようと考えた」

単純に言えば、事業の立ち上げのフェーズから、営業のフェーズへと変えていかなければならなかった。

「会議などを見ていると、事業の立ち上げフェーズに相応しい企画立案が得意な人材の声が大きかった。だから、企画立案より事業の運営が上手な担当者を集め『まずISPの事業で利益を出す』という明確な目標を定め、動いてもらった」

また、削れるところはすべて削ると決めた。手始めに、各社から出向してきていた一部の役員には出向元へ戻ってもらった。同時に、プロバイダー事業に必要なネットワークの利用料などの価格交渉を行った。「価格を安くしてくれなければ、ネットワークを自社で構築する」とまで話すと、なんとか利用料を下げてくれた。

「とにかく、大量出血を止めなければいけません。この時は、泣く泣くコールセンターの人数も減らした。事業継続のため、やむをえないという判断です」

この作業がつらくないわけがなかった。利害が相反する人物や組織からは反発があり、異論が吹き出した。

出資していた一部の会社から「そもそもeコマースの事業だから投資したのだ。どうしてくれるのか」と言われたこともあった。この時は板東氏が直々に先方へ向かい「現状、債務超過なのだから解消するしかありません」とるる説明し、納得してもらった。これこそが「大変なところを自分がやる」ということだった。思い出話に苦労がにじむ。

「毎日、なかなか眠れないから、飲めない酒を飲んで無理に寝ようとするんですが、2~3時になると目が覚めてしまうんです。追い詰められると痩せていくものですね。80キロあった体重が、3~4カ月で73キロになりましたよ(苦笑)」

だが、単純に黒字の部門を残し、赤字の部門を縮小すると、単純な結果がついてきた。社長就任の1998年に、わずかながら、単月黒字が出たのだ。資金があと数カ月で尽きる、という間際だった。板東氏が笑顔で話す。

「すると不思議なことに、このあたりから様々な物事が一気に、よい方向へ進むようになってきたのです」(以下次号)

※本連載は毎週水曜日に掲載します。