お笑い表現の限界はどこか?
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私見ですが、1980年中盤から始まった”とんねるず”のような「予測不可能な行動をとる破天荒な人たち」を企画の主軸に置いた、テレビ界のいわば「反知性主義」的な番組の作り方がその後のテレビを変えていったと思います。
それまでは知性・知的なところを売りにしている俳優・芸能人などをメインアンカーとして専門家や一般人と共演するような番組構成が主流でしたが、いつしか芸人の面白さにフォーカスを当て知性の部分を置き去りにすることで一般大衆の裾野を広げていったのではないでしょうか。
結果として、言い方は悪いですが「知性的な人たち」が見る必要を感じない番組が乱立していったのだと思います。テレビ業界で働く友人から聞いた話ですが、番組制作時に想定しているメイン視聴者の教育偏差値は30〜40程度だとか。
貧富の差による教育格差が生まれていることは国全体の問題だとは思いますが、大衆への影響力が強かったテレビがその対象を低いレベルに設定したことで、結果的に国全体の知性レベルを下げることに貢献してしまったと感じます。
さらに最近は制作側が番組制作の枠組みからの脱却を挑戦しないだけでなく、視聴者側が何も考えずに番組内容を鵜呑みにして文句を言うような状況が見受けられ、作り手だけでなく受け手側のリテラシーが低いことで「知的な面白さ」の幅がさらに狭まっているように見えます。
たしかに80年代のテレビは面白かった。あの面白さは今のテレビでは再現はできないにしろ、土屋プロデューサーの言うようにメディアごとに最適化したマルチメディアによるコンテンツ制作がキーとなって、番組がまた面白さを取り戻すことを強く願います。
クリエイティブのコンテンツ制作力は間違いなくテレビが一番なので、世を動かす力のあるクリエイティブはやはりテレビからの発信だと思います。
制作側は変化を止めてはいけないし、発信ギリギリのラインで戦うことを諦めないでいただきたい。そして見る側も知識レベルを高め情報リテラシーを高める必要がある。報道番組と情報番組の垣根がない現代ではこの能力が特に必須だと感じます。番組拝見させていただきました。
ウィル・スミスの件は、あの場面のカットだけでは、どっちがいい悪いは言えないのかなと。
二人のキャラ、両者間の人間関係など様々な要素を総合的に判断しないといけないのかなと。
Tプロデューサーの「ギリギリを攻める」とのこと。
言われてみれば、当時の電波少年も当初はクレームの嵐でした。「こんな番組速攻で終わらせろ!」という声も多かったです。
しかし、だんだんと面白さが上回るようになり、少々の問題があっても、「電波少年ならしょうがない」と認められていったような気がします。
時代によってもとめられるもの、気を付けなければいけないこと、ある程度の変動はあるけども、「いいものを作る」ことをめざし、挑戦する。試行錯誤繰り返し、途中失敗を挟みつつも、世間から周りから認められるようになること、これが重要なのだと思いました。