アスリート解体新書

マイケル・ジョンソンは背中で走っていた

人間にとっての理想の走り方

2014/11/17
人間が歩いたり走ったりするとき、本来最も大切なのは「速さ」と「疲れづらさ」を両立することだ。その最高のお手本が、1996年アトランタ五輪で大会史上初めて200mと400mの二冠を達成したマイケル・ジョンソンである。200mと400mは異なるトレーニングが必要だと思われていたが、マイケル・ジョンソンは背筋が伸びた独特な走法で常識を破壊。この伝説のアスリートはどんな走り方をしていたのか?
マイケル・ジョンソンが1999年に400mの記録を更新した世界陸上での走り。常識を覆して200mと400mの両種目で活躍し、世界陸上で8個、五輪で4個の金メダルを獲得した。写真からも背筋が伸び、腕を後ろに引き込むような走り方であることがわかる(写真:ロイター/アフロ)

マイケル・ジョンソンが1999年に400mの記録を更新した世界陸上での走り。常識を覆して200mと400mの両種目で活躍し、世界陸上で8個、五輪で4個の金メダルを獲得した。写真からも背筋が伸び、腕を後ろに引き込むような走り方であることがわかる(写真:ロイター/アフロ)

走ることの目的を間違ってはいけない

一時ほどのブームではないにせよ、現在もジョギングやウォーキングを日常的に行っている方もたくさんいらっしゃると思います。

本来「人間が歩く」ことの目的は、「移動の手段」以外何物でもなく、現在のようにカロリー消費や運動不足解消といった、健康の維持増進を目的とした運動ではなかったはずです。

走るという行為は、目的地まで到達する時間を短縮するための本能の動きです。

歩いたり走ったりすること自体が目的ではないので、体に余計な負担をかけるような動きをするはずもなく、効率的な動きが自然に行われていたと思います。

それがいつの間にか、歩くときには姿勢を真っ直ぐにして、大きく腕を振って大股で踵から着地してなどと、画一的な指導がされるようになりました。

これらはすべて体にとって効率的な動きではなく、筋肉の収縮とエネルギー消費という、運動機能をより多く発揮するための動かし方になってしまいました。

同じく走ることについても、トレーニングとしての要素が大きくなり、また走ること自体のスピードを競うための走り方が要求されてきました。

人間だけが肉離れする理由

自然界の動物たちには、肉離れという故障は考えられません。お腹が空いていないふりをして寝そべっているライオンが、近づいてきたシマウマを狙って、瞬間的な猛ダッシュで追いかけようとしたとき、「痛いっ」と肉離れを起こしては、獲物を摑まえることはできません。シマウマもびっくりして逃げ出す瞬間に肉離れを起こしたのでは、命を奪われてしまうことになります。

ところが人間は、普段運動をしないお父さんたちが、子供の運動会に参加して、いきなり全力で走ると簡単に肉離れを起こしてしまうことがあります。

一般の方どころか、普段からトレーニングを積んでいるスポーツ選手でさえ、日常的な故障として多いのがこの肉離れです。

陸上競技の短距離では、レース中に肉離れを起こして途中棄権するシーンがよく見られますし、レース直前のウォーミングアップ中に故障してしまったと聞くと、「普段どんなトレーニングをしているのか?」と訊いてみたくなります。

人間の体にとって本来要求されていない、起こることのない筋肉の急激な収縮状況が起こっているから、としか説明がつかないでしょう。

速さと疲れづらさの両立

では、極限のスピードを追求することと、体にとって無理のない安全で効率的な動かし方をすることは両立しないのでしょうか。

100mと200mそして400mまでを短距離種目とすると、これまでの世界の一流選手の中で、最も私の考える理想の走り方をしていたのが、アメリカのマイケル・ジョンソン選手でした。

185cm、78㎏。数字だけ見ると日本人にもいそうな体型ですが、筋肉質な素晴らしい体をしており、羨ましい限りです。

しかしその走りは、いわゆる筋力にものを言わせて、腕を前後に大きく振って太腿を高く引き上げ、地面を強く蹴ることによって得られる反力を使って、ぐいぐい進んでいくという走り方ではありませんでした。

この筋力に頼った走りの典型が、ベン・ジョンソンという選手でした。筋肉を極限まで鍛えるためにドーピングに手を出してしまい、残念な競技人生になってしまいました。

背中で走るマイケル・ジョンソンの走法

マイケル・ジョンソン選手は、彼とは全く異なる走り方です。

マイケル・ジョンソン選手はスタートして間もなく、他の選手がまだ前傾角度を維持して加速している間に、すぐに上体を起こした姿勢に変わります。400mだけではなく200mのスタートでも同じです。当然100mに関しては加速期が短いので、不利になるため専門とはしていませんでした。

スピードに乗ってからは、上体が直立しているというより、後ろに反っているようにさえ見えます。広背筋の動きが絶妙で、上体を捻じらず、上腕部を後方に力強く引き込む動きで骨盤を引き上げ、それによって股関節の自由度が高まり、太腿から膝が無理なく前方に振り出されます。

マイケル・ジョンソン選手の走法を整理すると、

「上体を起こして、上腕部を後方に力強く引き込む」

→「骨盤が引き上げられる」

→「それによって股関節の自由度が高まる」

→「太腿から膝が無理なく前方に振り出される」

ということです。

 7_マイケルジョンソン

メッシのように腰の部分には他の選手には見られない、大きな反りが見られるため、背中全体が反っているように見えます。

広背筋の停止部と起始部を、これだけ見事に使いこなせている走り方は、彼をおいて他に見たことがありません。

画面を見ていると、誰かが彼の左側を一緒に走って、左手で彼の胸を前から支え、右手で骨盤の上のあたりを後ろから押し上げてもらいながら走っているようで、まさに「背中で走る」という言い方がぴったりだと思います。

重心は常に股関節にあり、着地の際は股関節の真下に足の先がポンと触れる感じだけで、地面を強く蹴っている様子もありません。

膝も前方向に振り上げるような力感はなく、骨盤がぐっと前に出て、股関節が伸展することで自然に膝から下が振り出され、まったく無駄がありません。

力に頼った他の選手の走法

他の選手は、腕を大きく振ること(肘関節を屈曲させる)で逆の足を強く引き上げ(股関節を屈曲させる)、股関節より前方で着地してしまい、前方向に進むという動きに対して一瞬ブレーキがかかることになります。

着地した足を股関節が追い越してから、股関節の後方でキックすることで推進力を得るためには、体重を押し出すために大きな力が必要となります。さらに蹴った後、膝関節を屈曲して、股関節の屈曲の準備が必要になることで、踵が描く楕円の軌道が大きくなってしまうことになります。

着地での衝撃と、キックの際の衝撃、その両方を繰り返しながら走ることが当然で、そのためにはそれに耐えうる強靭な筋力が必要とされてきました。

伸筋メインならブレーキがかからない

マイケル・ジョンソンの走りはその常識を一気に覆してくれました。

トラックの上を滑るように駆け抜ける、そんなイメージです。調べたところによると彼は他の選手に比べて故障での欠場が少なかったようです。これはこの走り方、体の使い方によるところが大きかったと思います。

200mではスピードが優先され、400mでは一定スピードの持続力という別の要素が優先されるため、両方を専門とする選手はほとんどいません。そういう意味でもマイケル・ジョンソンという選手の能力は特別なものだと思いますし、それを可能にしたのが、この走り方にあったことは間違いないと思います。

実は私の走り方も、上体が直立して他の人と比べて何か変だ、ダチョウが走っているみたいだとよく言われていましたが、ジョンソン選手の活躍に、「ほら見ろ、やっぱりこれでいいんだ」と嬉しくなったことを覚えています。

これまで言い続けてきたように、走るという基本的な動作でも、屈筋を使うのではなく伸筋をメインに使うことで、力みを感じないしなやかな走りが実現できるのです。

屈筋を使うことは関節の動きにブレーキをかけてしまい、大きな負荷もかかってしまうことで故障の原因になってしまいます。

私の主宰する動き作り勉強会「西本塾」でも、この走り方を指導していますが、参加してくださった方から、どうしてこんなに楽に走れるのか、今までの走り方はなんだったのかと、例外なく驚きの声が上がります。

200mの世界記録はウサイン・ボルト選手に破られてしまいましたが、400mの世界記録(1999年の世界陸上で記録した43.18秒)を破る選手は現われるのでしょうか。

日本人スプリンターの可能性

日本でも1998年に10.00秒の日本記録を出した伊東浩司選手の走りは、体つきが違うので同じようには見えないかもしれませんが、右の股関節の真下に右足が着地し、その際に同側の右の胸も股関節の上に乗りこんでいくというイメージで走っていて、そのため腕も前方への振り出しは小さく、後ろへ後ろへと引っ張っているように見えます。それまでの日本選手には見られなかった、背筋がすっと伸びた美しいフォームでした。

前に進むためだけに体全体が躍動し、軽いギアで滑るようにゴールを駆け抜けていく姿は、我々日本人の体でもこの走り方なら十分9秒台が期待できると、胸躍らせてくれました。

惜しくも9秒台は出ませんでしたが、現在22歳の山縣亮太選手と19歳の桐生祥秀選手という、若い2人のスプリンターが、伊東浩司選手を彷彿させるフォームを見せてくれています。

2人ともそれほど体は大きくありませんが、無駄に体を大きくしようとせず、動き作りを追求してほしいと思います。世界一には届かないかもしれませんが、マイケル・ジョンソン選手と伊東浩司選手の走りを、ひとつの目標として練習を積んでいけば、9秒台を出せる可能性は大きいと思います。

過去の常識にとらわれず、自分の体に合った体の使い方で、世界を驚かすスプリンターがどんどん出てきてほしいと思います。

*本連載は毎週月曜日に掲載する予定です。