2022/4/9

【全録】プーチン、独裁22年のすべて(前編)

ロシアのウクライナ侵攻開始から一月半あまり。この間、世界中の人々がウラジーミル・プーチンという人物を理解しようとしてきた。
数多くの分析がなされ、数多くの「プーチン論」が飛び交うなかで、本記事は「1枚の大きな絵」としてのプーチン像を描きだす決定版といえる。
著者はニューヨーク・タイムズ紙の国際政治記者、ロジャー・コーエン氏。
キャリア40年の海外特派員であり、プーチンに直接インタビューしたこともある同氏が、ロシアの指導者としてのプーチンの22年間を総括しながら、「愛国者」が「妄執の暴君」に変貌していくプロセスを生々しく浮かび上がらせる。
本記事は、NYT紙に掲載された直後から大きな反響を呼び、中国語、スペイン語にも翻訳された。ベテラン記者渾身の一本を、今回NewsPicksでは独自翻訳。前後編でお届けする。
INDEX
  • 彗星のごとく現れる:2001年
  • ねじれた愛国心:青年期
  • 弾圧者の横顔:2003年
  • ロシアの敵は民主主義:2004年
  • 最悪のNATO首脳会議:2008年

彗星のごとく現れる:2001年

1.ドイツ議会を魅了した声
2001年9月25日、ロシアのウラジーミル・プーチン大統領はドイツ連邦議会に立ち、KGB職員としてドレスデンに駐在していたころに習得したというドイツ語──プーチンいわく「ゲーテとシラーとカントの言語」──で演説を行った。
ロシアは友好的なヨーロッパの国家です。
ヨーロッパ大陸の安定した平和は、わが国にとっても最重要課題であります。
彗星のように現れ、前年に47歳の若さで大統領に選出されたロシアの指導者は、「民主的権利と自由」は「ロシアの国内政策における大事な目標」だと明言した。
2001年、ベルリンへ公式訪問中に会見を行うプーチン大統領(LS-PRESS/ullstein bild via Getty Images)
長きにわたって西側と東側の分断を象徴してきたベルリンで、プーチンが和平を体現したことに、ドイツの議員は総立ちで喝采を送った。
その数年前から議会の外交委員会で委員長を務めていた中道右派のノルベルト・レトゲンも、スタンディングオベーションを送ったひとりだ。彼はいま、その場面を次のように振り返る。
みな、心を奪われました。
プーチンは実におだやかな声でドイツ語を話し、聞いていると彼の言うことを信じたくなるのです。
おかげで私たちは、ロシアと連帯意識を持つことは現実的に可能なのではないかと思ってしまった。
ドイツの議員たちは、プーチンのスピーチに魅了された(ロイター/アフロ)
2.「クズと裏切り者」に粛清を
「独立国家ウクライナは幻想に過ぎない」というプーチンの思い込みを証明すべく派遣された侵略軍にウクライナが蹂躙され、焦土と化しつつある今日、その「連帯意識」は跡形もない。
侵攻から1カ月余りでウクライナ難民は400万を超え(3月31日現在)、死者の数は刻々と増加している。かつてドイツ議会を魅了したプーチンの猫なで声は、独裁者の暴政に抗う国民をことごとく「人間のクズと裏切り者」と切り捨てる猫背の男の罵声に変わった。
3月、電撃作戦の行き詰まりに業を煮やしたプーチンは、反体制派──西側に操られた「第五列(スパイ)」──には悲惨な末路が待っていると威嚇し、こうまくし立てた。
真のロシア人は、誤って口に飛びこんだハエのように人間のクズと裏切り者を吐き出し、社会を浄化するだろう。
これは「カントの言語」には程遠い、国粋主義に燃える独裁者の暴言だ。そこには、サンクトペテルブルク出身の貧しく粗暴な少年の顔も見え隠れする。
2022年3月18日、支持者を前に演説するプーチン大統領(Kremlin Press Office / Handout/Anadolu Agency via Getty Images)
3.プーチンは国家なり
「分別」から「煽動」へ──。
同一人物とは思えないかつてのプーチンと現在のプーチンのあいだには22年の長期政権が横たわり、その間、アメリカでは大統領が5人代わった。
中国が台頭し、アメリカがイラクとアフガニスタンに泥沼の戦争をしかけて敗れ、テクノロジーが世界をネットワークで結びつけるなか、クレムリン(ロシア政府)にまつわるひとつの謎が浮上する。
アメリカと同盟国は、あまりに楽天的で未熟だったせいで、最初からプーチンを読み誤っていたのか? それとも、プーチンは時間をかけて現在のような戦争屋に変貌していったのか?
後者だとすれば、それは(プーチン視点で)西側に挑発されたせいなのか。あるいは長期政権のなかで慢心したせいなのか。それともコロナ禍でいっそう孤立を深めたせいなのか──。
ロシア軍の侵攻を受けて破壊された、ウクライナの首都キーウのショッピングモール(Lynsey Addario/The New York Times)
プーチンは謎めいている。その一方で、彼ほど「公」を体現している人間もいない。
ウクライナへの軍事侵攻という無謀な賭けから見えてくるのは、西側の動きのほぼすべてを、ロシアへの(そしておそらくは彼自身への)侮辱と受けとめる男の姿だ。
1年また1年、1つまた1つと鬱屈が蓄積するにつれて、「ロシア」と「プーチン」の線引きは曖昧になっていった。
帝国の復活を狙う救世主的なビジョンのなかで、事実上プーチンは国家となり、ロシアと同化し、両者の命運はますます分かちがたくなっていく。
プーチンの支持率はいまなおロシアでは高い(James Hill/The New York Times)

ねじれた愛国心:青年期

4.公僕が耐え忍んだ屈辱
プーチンが西側に接近したのは、偉大なロシアを築く道具にできると考えたからでしょう。
そう振り返るのは、政権初期に何度かプーチンと会談したコンドリーザ・ライス元米国務長官だ。
「ソ連の崩壊により、母なるロシアを追われた2500万のロシア人にプーチンは執着し、この問題を繰り返し提起しました。プーチンがソ連の終焉を“20世紀最大の悲劇”だと捉えているのは、この2500万人が理由です」
2006年、ブッシュ大統領とともにロシアを訪れたライス国務長官(Photo by Charles Ommanney/Getty Images)
だが、領土を失った恨みや、工作員として身につけたアメリカに対する懐疑の目を脇に置いても、当初は別の優先課題があった。
プーチンは愛国心の強い公僕だった。しかし、初めて自由な選挙で選ばれたボリス・エリツィン大統領の下、1990年代のロシアは悲惨な状態にあった。
1993年、エリツィンは自分と対立する議会の動きを鎮圧するために最高議会ビルへの砲撃を命じ、147人の死者を出す。深刻な経済危機に陥り、極度の貧困が蔓延するロシアが西側からの人道支援に頼るなか、国の産業は二束三文でオリガルヒ(新興財閥)に売り払われた。
そのすべてがプーチンにとっては蛮行であり、屈辱だった。
1993年10月4日、砲撃を受けるロシア議会ビル(SHONE/Gamma-Rapho via Getty Images)
5.オリガルヒに求めた絶対的忠誠
祖国に起きたことをプーチンは憎悪しました。西側の情けにすがるなど、プーチンにとってはあってはならないことでした。
2005年から17年まで独アンゲラ・メルケル首相の外交顧問だったクリストフ・ホイスゲンはそう語る。
2000年に大統領選に出馬した際の最初のマニフェストでプーチンが強く訴えたのは、権力を国家から市場に移そうとする西側の取り組みを覆すことだった。そのなかで、彼は次のように述べている。
ロシア人にとって強い国家とは、敵対すべき異質な存在ではない。
むしろ強い国家は秩序の源であり、国民の保証人であり、あらゆる変化の端緒であり、推進力なのだ。
もっとも、プーチンはマルクス主義者ではない(スターリン時代の国歌をロシアに復活させはしたが)。ソ連の内部でも、KGB職員として1985年から90年まで滞在した東ドイツでも、集権的計画経済の破綻を間近に見ていたからだ。
1991年12月26日、ソ連崩壊の翌日にクレムリンの丸屋根に立てられたロシア共和国の国旗(Chip HIRES/Gamma-Rapho via Getty Images)
新大統領は、混乱した自由市場と縁故資本主義の産物であるオリガルヒと手を結んだ。条件は、彼らが絶対的忠誠心を示すこと。忠誠心にほころびが見えれば、排除するまでだ。
これは、民主主義とは似て非なる「主権民主主義」だ。
この表現を、プーチンお抱えの政治戦略家たちは好んで多用した。その際は「主権」のイントネーションを強調するのが決まりだ。だが、その実態は「管理された民主主義」にほかならない。
6.工作員は噓をつくのが仕事
プーチンは、ピョートル大帝が18世紀前半に「ヨーロッパへの窓」として建設したサンクトペテルブルクで育った。
1991年からは、サンクトペテルブルク市長の下で海外からの投資呼び込みを担当しつつ、政治家として歩み始めた。こうしたバックグラウンドからも、政権が発足した当初は、用心しながらも西側に心を開いていたように見受けられる。
1960年代のサンクトペテルブルク(当時はレニングラード)(Mario De Biasi/Mondadori via Getty Images)
話は立ち消えになったが、2000年にはビル・クリントン元大統領にNATOへの加盟を打診したこともある。1994年にEUと調印したパートナーシップ協力協定を維持し、2002年にはNATO・ロシア理事会を設けた。
西寄りのサンクトペテルブルク人と、体制に従う典型的なソ連人民──プーチンの内側では、この両者が共存していた。それは危うい綱渡りだったが、自制の人プーチンには朝飯前だった。
決して自制心を失ってはいけない。
2017年のドキュメンタリー『オリバー・ストーン・オン・プーチン』で、プーチンは映画監督のオリバー・ストーンにそう語っている。自ら「対人関係のエキスパート」を称したこともある。
この無表情で執念深い元工作員に丸め込まれたのは、ドイツの議員だけではなかった。
彼がKGBの出身だということを理解しなければいけません。
プーチンにとって噓をつくことは仕事であり、罪ではないのです。
2017年から20年までフランス大使としてモスクワに駐在したシルヴィー・ベルマンは、そう指摘する。「KGBで訓練されたとおり、プーチンは鏡のように目の前の相手に合わせるのです」
7.石油王をシベリア送りに
ドイツ議会で演説を行う3カ月前の2001年6月、ジョージ・W・ブッシュ元米大統領の心をつかんだのも有名な話だ。
プーチンの目をのぞいて……彼の魂に触れた。
初会合のあとでブッシュはそう語り、「非常に率直で信頼できる」と評価した。思えばエリツィンも同じように惑わされ、モスクワに来て3年しか経っていないプーチンを後継者に指名したのだった。
ブッシュもプーチンの「人たらし」の術中にはまった(Stephen Crowley/The New York Times)
「プーチンは相手を見て出方を調整するのです」と、2016年に亡命先のワシントンで話してくれたのはミハイル・ホドルコフスキーだ。
経営していた石油会社を解体され、シベリアの刑務所で10年服役することになるまで、ホドルコフスキーはロシアで最も裕福な男だった。
プーチンがあなたに好かれたいと思えば、あなたはかならず彼を好きになります。
2016年以前、筆者が最後にホドルコフスキーに会ったのは、2003年10月のモスクワでのことだった。
そのわずか数日後に、彼は脱税容疑で逮捕された。筆者のインタビューに対してホドルコフスキーは大胆な政治的野心を語ったが、これはプーチンにとって許しがたい不敬罪だったのである。
プーチンの怒りを買い、シベリア送りになった石油王のミハイル・ホドルコフフスキー(Oleg Nikishin/Getty Images)

弾圧者の横顔:2003年

8.会談相手へのマウンティング
2003年当時、モスクワ郊外の森に囲まれた大統領官邸は、快適だが華美ではなかった。壮麗な宮殿は、まだプーチンの好みではなかった。
警備員ものんびりしたもので、テレビでミラノやパリのファッションショーを眺め、モデルに見とれたりしていた。
プーチンはプーチンらしく、取材に訪れた筆者ら取材班を何時間も待たせた。それは優位性をアピールするささやかなマウンティング行為、ライス元米国務長官にも働いた、ちょっとした無礼だった。
メルケルが犬を苦手にしていることを知りながら、2007年の会談に犬を連れていったのも、これに通じるだろう。メルケルは当時をこう振り返る。
なぜ彼(プーチン)があんなことをしたかはわかっています。
『俺は男だ』と誇示するためですよ。
犬が苦手なメルケルとの会談に、愛犬を連れて現れたプーチン(ロイター/アフロ)
筆者を含むニューヨーク・タイムズの記者3人の前にようやく現れたプーチンは、友好的で、取材にも身を入れて応じてくれた。そして、よどみなく持論を語ったものだ。
「われわれは民主主義と市場経済を発展させる道筋の上に、しっかりと足を据えています。精神構造も文化も、ロシアの人民はヨーロッパ人なのです」
イラク戦争に対する立場の違いにもかかわらず、ブッシュ政権とは「良好かつ緊密な関係」にあると述べ、プーチンはこう続けた。
ヒューマニズムの大原則、つまり人権と言論の自由は、いまも昔もあらゆる国家の根幹です。
さらに、教育から得た最大の教訓は「法の尊重」だとも述べた。
9.心の底でくすぶりつづけた恨み
だがプーチンは、このころすでに独立系メディアを弾圧していた。
首都グロズヌイを徹底的に破壊するなどチェチェンで残虐な戦いを繰り広げ、政権中枢には「シロヴィキ」と呼ばれる軍や警察、諜報機関のエリートを置いた。
破壊されたチェチェンの首都グロズヌイ(Antoine GYORI/Sygma via Getty Images)
連邦安全保障会議の書記に取り立てられたニコライ・パトルシェフをはじめ、シロヴィキの多くはサンクトペテルブルク時代の仲間だった。工作員の第一原則は「疑え」だ。
こうしたやり方について筆者らが尋ねると、大統領はいら立ちをあらわにし、アメリカも道義的に他人のことをとやかく言えた義理ではないと反論した。
ロシアには「自分の顔が歪んでいるのに、鏡を責めるな」ということわざがあるのですよ。
そう語る、揺るぎないまなざしの奥にいるのは分裂した男。そんな印象を、筆者は強烈に抱いた。
(Antoine GYORI/Sygma via Getty Images)
『プーチンの頭の中(Inside the Mind of Vladimir Putin)』を著したフランス人ジャーナリスト、ミシェル・エルチャニノフは「2000年代初期のプーチンの発言は、少なくとも表面的にはリベラルだった」と振り返る。
だがその心の底では帝国の覇権を取り戻し、バラク・オバマ元米大統領の言う「リージョナル・パワー(地域大国)」に格下げされた恨みを晴らしたい欲求がつねにくすぶっていた。
10.ロシアを繁栄に導いた政権初期
1952年に当時のレニングラードで生まれたプーチンは、ロシアで「大祖国戦争」として知られる独ソ戦の影で成長した。
父は傷痍軍人となり、兄は872日間も続いた苛酷なレニングラード包囲戦のあいだに死亡した。また、彼の祖父はスターリンの料理人だった。
独ソ戦の激戦地、ボルゴグラード(旧スターリングラード)のママエフの丘にたつ「母なる祖国像」(Sergey Ponomarev/The New York Times)
ナチズムに勝利するために赤軍が払った途方もない犠牲は、同世代の多くのロシア人にとってそうだったように、プーチンのつましい家庭でも生々しい体験だった。幼心に「弱者は叩きのめされる」ことを学んだと、プーチンは振り返っている。
プーチンの心に刻まれたソ連神話、赤軍の犠牲、失地回復への執念を西側は甘く見ていました。
そう語るエルチャニノフは、父方母方とも祖父母はロシア人だ。
「ロシアの男は大義のためなら命も捧げる覚悟があるが、西側の男は成功と快適な暮らしを好む。プーチンはそう固く信じていました」
スターリングラード攻防戦の前線に立つソ連兵。ロシアの政治において「大祖国戦争」(第二次世界大戦)の神話的な影響はいまなお大きい(Daily Herald Archive/National Science & Media Museum/SSPL via Getty Images)
大統領就任後の8年間、プーチンは「快適な暮らし」を祖国にもたらした。経済は飛躍的に成長し、海外から投資が舞い込んだ。
カーネギー国際平和財団モスクワセンターのアレクサンドル・ガブエフ上級研究員は、「かつてない繁栄と自由を手にしたあのころは、おそらくロシアにとって最も幸せな時代だったでしょう」と言う。
「汚職が横行し、富の集中もありましたが、当時は国全体が上げ潮に乗っていました。思い出してほしいのですが、1990年代まで、ロシアでは誰もが貧困にあえいでいたのです」
それが、中産階級がトルコやベトナムに旅行に行けるほど豊かになったのだ。
高級ブランドがこぞって出店した2000年代のモスクワ。プーチンの大統領就任後、ロシアは「かつてない繁栄」を手にした(robert wallis/Corbis via Getty Images)

ロシアの敵は民主主義:2004年

11.足元を揺るがした東欧の革命
プーチンにとってのジレンマは、経済の多様化を実現するには法の支配が有効なことだった。
サンクトペテルブルク大学で法律を学んだプーチンは、法を尊重すると主張していた。けれども実際にプーチンを磁石のように引きつけたのは権力で、法の細かい点を彼は軽視した。ガブエフはこう問う。
石油やガス、その他の天然資源で自分が潤い、国民を満足させられるだけの再分配ができるのに、権力を分散する必要などあるでしょうか?
ファシズム史研究の第一人者であるティモシー・スナイダーは、こう説明する。
「(プーチンは)権威主義的な法治国家をもてあそび……自らオリガルヒの最高司令官となって、国家をオリガルヒ族の執行機関に変えたのです」
だが、11の標準時と世界最大の領土を持つ国家が威信を取り戻すには、経済だけでは足りなかった。近隣諸国を支配できないかぎり大国ではないと考えるソビエト的な価値観の中で、プーチンのアイデンティティーは形成されたからだ。
そして、まさにその大原則を揺るがす動きが、足元で起きていた。
2003年11月、ジョージアが「バラ革命」をきっかけに新欧米路線へと本格的に舵を切った。
2004年には、エストニア、リトアニア、ラトビア、ブルガリア、ルーマニア、スロバキア、スロベニアの加盟でNATOが冷戦後2度目の拡大を実現し、ウクライナでは「オレンジ革命」として知られる大規模な抗議運動が起きた。
2004年、ウクライナで「オレンジ革命」に参加する人々(AP/アフロ)
いずれも、根底にあるのはロシアを拒否し、西側に未来を託そうとする動きだ。
ここに至ってプーチンは欧米への協調路線をひるがえし、対立姿勢をあらわにし始めた。転換はゆっくりとしたものだったが、大まかな方向性は決まっていた。
あるときメルケルに、自らがおかした最大の過ちは何かと聞かれたプーチンは、こう答えた──「あなたを信用したことだ」。
12.批判者への弾圧を開始
2004年以降、プーチン率いるロシアは明らかに態度を硬化させる。
ライスが言うところの「自国を防衛する必要性と、民主主義による汚染の物語を延々と訴えながら弾圧を行う」姿勢が明白になったのだ。
プーチンは2004年末に地方知事の選挙を廃止し、クレムリンによる任命制に変更した。ロシアのテレビが放映する番組は、ソビエト時代が再来したようなプロパガンダになっていった。
2006年には、チェチェンにおける人権侵害を批判した調査報道記者アンナ・ポリトコフスカヤが、プーチンの誕生日にモスクワで殺害された。
2007年10月、前年に殺害されたジャーナリスト、アンナ・ポリトフスカヤの追悼集会に訪れた人々(ロイター/アフロ)
また、ロシアを「マフィア国家」と呼び、クレムリンを批判した元諜報員アレクサンドル・リトビネンコも、ロンドン滞在中にロシアのスパイによって放射性物質を投与されて中毒死した。
プーチンにとって、ソビエト連邦(もしくはその勢力圏)に属していた東欧諸国にNATOが進出してきたことは、アメリカの裏切りを意味していた。
同時に、自分の目の前で西側の民主主義が勝利するかもしれないという懸念は、自身の抑圧的な体制に対するのっぴきならない危機として認識されるようになった。
プーチンにとっての悪夢とは、NATOではなく民主主義そのものだ。
プーチンと数回会談した元ドイツ外相のヨシュカ・フィッシャーは、そう語る。
2006年に毒殺された、ロシアの元諜報員アレクサンドル・リトビネンコ(Natasja Weitsz/Getty Images)
13.見て見ぬふりをする西側諸国
西側に傾くウクライナは、ロシアの安全保障に対する脅威だとプーチンは述べている。
しかし、むしろ脅かされているのはプーチンの独裁主義体制のほうだった。ポーランドのラドスワフ・シコルスキ元外相も、こう述べている。
民主的なウクライナがヨーロッパと統合され、成功をおさめれば、プーチン主義にとって致命的な脅威になるという彼の認識は正しい。
プーチンにとっては、それこそが(ウクライナの)NATO加盟以上の問題なのだ。
現実であれ想像上であれ、プーチンが致命的な脅威を受け入れることなどない。
いかに甘い考えの持ち主でも、2006年にもなれば、さすがにプーチンの冷酷さを認めざるをえなかったはずだ。プーチンは弱さを嫌い、暴力に訴える傾向がある。
なのに、西側の民主主義諸国は、この教訓をなかなか受け入れることができなかった。というのも、西側諸国はロシアを必要としていたからだ。それは石油やガスのためだけではない。
世界的な対テロ戦争の中で、西側はロシアの協力を必要としていた(Spencer Platt/Getty Images)
ロシアの大統領は、後に世界的な対テロ戦争と呼ばれる情勢のなかで、協力相手として重要な存在だった(ちなみに9・11テロの後、真っ先にブッシュに電話をかけてきたのはプーチンだ)。
これは、自らがしかけたチェチェン紛争を正当化し、自身をキリスト教のための戦いの担い手と位置づけるプーチンの意向とも合致していた。
その一方で、プーチンは、2005年1月の2度目の米大統領就任式で発表された、ブッシュの「フリーダム・アジェンダ」に、大きな不安を覚えていた。これは、新保守主義的なビジョンを追求し、世界中に自由民主主義を普及させるための行動計画だ。
プーチンは、いまや自由を求めるあらゆる動きには、アメリカの隠された力が働いていると信じていた。ブッシュがこの野心的なプログラムにロシアを含めようとしないのが、何よりの証拠ではないか?
2005年1月の米大統領就任式でブッシュが唱えた「フリーダム・アジェンダ」は、プーチンを大いに警戒させた(Mark Wilson/Getty Images)
14.「ヤンキーがわれわれを辱めた」
アメリカの駐大使として2005年にモスクワに着任したウィリアム・バーンズ(現CIA長官)は、冷戦後の楽観主義を吹き飛ばすような、冷静な電報を本国に送っている。
ロシアはあまりにも広大で、誇り高く、自国の歴史を大事にしているため、「一体化した自由なヨーロッパ」の枠には収まらないだろう。
バーンズは続けて、ロシアが「大国としての役割を果たそうとする」ことは「時に大きな問題を引き起こしかねない」と警告している。
その数年後、プーチンと面会したフランスのフランソワ・オランド大統領(当時)は、プーチンがアメリカ人を「ヤンキー」と呼び、辛辣な言葉を吐いたことに驚いたという。
ヤンキーがわれわれを辱め、二番手の地位に置いた。
プーチンは、そうオランドに語った。NATOとは「本質的に攻撃的な組織」であり、ロシアに圧力をかけ、民主化運動を煽るために、アメリカに利用されているというのだ。
自らの権力を確信すればするほど、プーチンはアメリカへの敵対心をつのらせていったように見える。
1999年のコソボ紛争でのNATO軍によるセルビア・ベオグラード爆撃や、2003年のイラク侵攻を経て、彼は国連憲章や国際法を「乱用」するアメリカに不信感を抱くようになっていた。
1999年、NATO軍の攻撃を受けるベオグラード(Pool Interagences/Gamma-Rapho via Getty Images)
プーチンはロシアを特別視し、ロシアが大国となる必然性を信じていた。だからこそ、アメリカが唯一無二の覇権国家きどりで、世界に自由を広めるという大義のもとにその力を誇示する「アメリカ例外主義」に、我慢がならなかったのである。
その不満がついに頂点に達したのは、2007年のミュンヘン安全保障会議だ。この場で、プーチンは激烈な演説を行い、聴衆に衝撃を与えた。
ひとつの国が、それはもちろんアメリカだが、あらゆる面でその国境を踏み越えた。
プーチンいわく、冷戦の後は、「権威の中心、力の中心、意思決定の中心は一つ」という「一極化した世界」が押し付けられてきた。その結果、「世界の主人は一人、主権者は一人」となり、それが世界に害をもたらしている。
害をもたらすどころか、いまや世界は「非常に危険」かつ「誰もが安心できない」場所に成り果ててしまった──と。
2007年、ミュンヘン安全保障会議でのスピーチで、プーチンはアメリカが支配する「一極化した世界」を批判した(James Hill/The New York Times)

最悪のNATO首脳会議:2008年

15.NATO内部に生じる温度差
この演説の後もなお、ドイツはプーチンに期待を寄せていた。
東ドイツで育ち、ロシア語を話すメルケル首相は、プーチンとある程度の関係を構築していた。プーチンはドレスデンから帰国した後、2人の子どもをモスクワのドイツ語学校に通わせた。彼はドイツの詩を引用するのが好きだった。
(ドイツとロシアの間には)親和性がありました。
と、前出のホイスゲン(メルケルの元外交顧問)は言う。「お互いに理解があったのです」
とはいえ、プーチンと協力することは、プーチンの言いなりになることではないはずだ。
「われわれはジョージアとウクライナをNATOに入れるのはよくないと深く感じていました」と、ホイスゲンは弁解する。「それは、情勢に不安定さをもたらすからです」
プーチンとメルケル。2007年、ドイツのハイリゲンダムで開催された第33回主要国首脳会議にて(Peter Macdiarmid/Getty Images)
ホイスゲンが指摘するように、NATO条約第10条は、新規加盟国は「北大西洋地域の安全保障に貢献」する立場になければならないと定めている。この2国がどのように安全保障に貢献できるのか不明瞭だというのが、メルケルの言い分だった。
一方、大統領としての任期の最後の年を迎えていたブッシュは、妥協する雰囲気ではなかった。
2008年4月にルーマニアのブカレストで開かれることになっていたNATO首脳会議で、ブッシュはウクライナとジョージアの「加盟のための行動計画」を発表し、両国の同盟加入を具体的に約束させようとした。
NATOの拡大は、全体主義的なソビエト帝国から解放された1億のヨーロッパ人の安全と自由を保障してきたのだから、ブッシュとしてはそれを止めるわけにはいかない。
2008年4月にブカレストで開催されたNATO首脳会議は、今日の動乱へとつながる「種」を撒くことになる(Pool Interagences/Gamma-Rapho via Getty Images)
16.「越えてはならない一線」
当時、駐ロシア大使だったバーンズは反対した。ライス国務長官に宛てた機密扱いのメッセージに彼はこう書いている。
ウクライナのNATO加盟は、(プーチンだけでなく)ロシアの支配層にとって最も明確な、越えてはならない一線である。
バーンズはこう続けている。「この2年半以上、クレムリンの黒幕集団から、最も鋭くリベラルなプーチンの批判者まで、あらゆるロシアの主要人物と話をしたが、ウクライナのNATO加盟をロシアの利益に対する挑発だと見なさない人物には、まだ会ったことがない」
2008年2月、セルビア共和国からコソボ自治州が独立し、アメリカと同盟国の多くはこれを承認した。
2008年2月、コソボの首都プリスティナでセルビアからの独立を祝う人々(Andrew Testa/The New York Times)
この宣言をロシアは違法とし、同じスラブ民族への侮辱とみなし、拒絶した。当時、ロシアのセルゲイ・ラブロフ外相から警告されたことを、前出のベルマン(元駐ロシア仏大使)は覚えている。
気をつけなさい。
このことはいずれ、あなたがたに不利な形で跳ね返ってくるだろう。
2008年4月、ルーマニアの首都ブカレストで行われたNATO首脳会議で、フランスはドイツに同調し、ジョージアとウクライナのNATO加盟に反対していた。
「ドイツは、厄介事にはかかわりたくなかったのです」とライスは振り返る。「ジョージアのように、膠着した紛争を抱える国は受け入れられないと言っていました」
「膠着した紛争」とは、ジョージアと、南オセチアとアブハジア(いずれもこの年、ロシアが支援して独立を一方的に宣言することになる)の緊迫した関係を指している。
これを聞いたポーランドのシコルスキ外相は、「そちらこそ、45年間も行き詰った紛争をかかえていたではないか!」と反論したという。
南オセチア紛争の戦闘地となったジョージアの都市セナキ、2008年(Joseph Sywenkyj/The New York Times)
17.取り返しのつかない声明
この会議における譲歩は混乱を招いた。
NATO首脳の共同宣言には、ウクライナとジョージアが「将来的にNATOの一員となるだろう」という文言が盛り込まれた。
だが、そのような加盟を可能にする行動計画の承認には至らなかった。ウクライナとジョージアは空約束のままとり残され、戦略的な中立地帯をいつまでもさまようことになった。
一方、ロシアは怒ると同時に、後に利用できるかもしれない西側の分裂を見て取った。
いまにして思えば、あの声明を出したのは、世界にとって最悪の出来事でした。
ドイツの大統領上級外交顧問を務めるトーマス・バガーは、率直に認める。
(Pool Interagences/Gamma-Rapho via Getty Images)
このとき、NATO首脳と会談するためにブカレストにやってきたプーチンは、ライスが「感情的なスピーチ」と表現した演説の中で、ウクライナをでっち上げの国と呼び、そこには1700万のロシア人がいると指摘。キエフ(キーウ)はすべてのロシアの都市の母であると述べた。
この主張はやがて、執着に発展していく。
*後編に続きます。