2022/1/18

【愛知】債務超過2億円の“下請け”はメーカーをめざした

ライター / 編集者
「調味料を使わなくなった」「息子が嫌いなブロッコリーを美味しそうに食べた」――。そんな反響が消費者から相次ぐ鋳物ホーロー鍋「バーミキュラ」。密閉性と緻密に計算された鋳物ホーローの熱伝達が食材そのものの旨みを引き出し、無水調理にもぴったりだという。

開発したのは「町工場」の「愛知ドビー」(名古屋市)。鋳造技術と精密加工の技術を組み合わせ、約3年かけて2010年にバーミキュラを完成させた。代表商品の鋳物ホーロー鍋「オーブンポットラウンド」の累計受注数は58万台(2021年9月末時点)に達している。アメリカ・アジアを中心にした海外展開も順調だ。

かつては倒産の危機に陥っていた愛知ドビー。自社にすでにある技術を活かしたBtoB(企業間取引)からBtoC(企業対消費者取引)への大胆な転換、「買ってもらって終わり」ではないファンとの繋がり方などを、家業を継いで成長軌道に乗せた土方邦裕社長に聞いた。(全4回)
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INDEX
  • 工場横に実家、職人は家族のような存在
  • 繊維産業の衰退で…2億円の債務超過
  • 現場に入り技術体得、出荷も営業も
  • 次第に「収支トントン」→売上高175%増に
  • 弟の参画で2つの柱が成長軌道に
  • 職人達のハートに応え、「メーカーに返り咲く」
土方邦裕(ひじかた・くにひろ)/愛知ドビー株式会社代表取締役社長
1974年、愛知県生まれ。大学卒業後、豊田通商で為替ディーラーを務める。2001年、祖父が創業した愛知ドビーへ入社。3代目として家業を継ぐ。弟の智晴副社長と共に「バーミキュラ」を開発し、2010年より販売を開始。現在は海外にも積極的に展開し、大ヒットブランドに成長させている。

工場横に実家、職人は家族のような存在

――土方さんは、豊田通商の為替ディーラーを経て2001年に愛知ドビーに入社しています。いつから家業を継ごうと思っていたのでしょうか。
継ごうと思ったのは、幼少期です。
工場の横に実家があったので、工場長や職人の人たちが夕方5時で会社の業務が終わったあと、一緒に野球やサッカーをしていました。学校が半日だけだった土曜日にも、帰ってきてから遊んでもらっていました。
そんな生活をしていたので、自然と小さい頃から「大人になったら、この会社に入って仕事をするんだな」と、なんとなく思っていました。
ですが、僕が高校生の頃から、愛知ドビーの経営状況が悪くなり始めました。工場がすぐ横にあるので、僕もそれを感じていたんです。
就職活動をするときには、親から「愛知ドビーはなくなるかもしれないから、自分の好きな業界に就職してほしい」と言われて、豊田通商を選びました。
豊田通商の名古屋本社=AFLO
豊田通商では為替のディーリングをやっていたのですが、入社して3、4年経った時に、外資系の銀行に「来ないか」と声をかけられました。それで、転職しようとしたんです。
父にその話をしたら、「愛知ドビーという選択肢もないことはない」と。そして、「愛知ドビーの名前をできれば残してほしい」と言われたのです。
ずっと前から、家族のような存在の職人たちの力になりたいという思いはあったので、外資系銀行に行くのをやめて、愛知ドビーに入ったんです。

繊維産業の衰退で…2億円の債務超過

――入社された当時はどのような状況でしたか?
愛知ドビーは1936年創業で、「土方鋳造所」としてスタートしましたが、祖父は「メーカーになりたい」という思いがありました。
それで規則正しい柄が特徴の生地・ドビー織を作るための繊維機械「ドビー機」を製造することになりました。現在のバーミキュラにも用いられている、鋳造と精密加工の2つの技術を生かしたのです。1965年には社名が「愛知ドビー」に変わりました。
ただ、僕の入社当時は、(繊維産業の衰退で)ドビー機が売れなくなっていた。なので、鋳造と精密加工の設備と職人で、下請けとしてどんな仕事でもやっていました。
ドビー機=愛知ドビー提供
メインは船舶の部品や、建設機械の部品を作っていました。その他もいろいろやっていました。
ただ、当時は債務超過額が2億円。倒産危機と言ってもいい厳しい状況でした。僕の父は息子が会社を継ぐことを喜ぶより、「なんとかやらなきゃ」という思いが強かったでしょうね。

現場に入り技術体得、出荷も営業も

――その状況で、土方さんが入社してまず取り組んだのが、技術の習得でした。そこに最初に取り組んだ狙いは何でしょうか。
まず、経営を立て直すため、産業機械部品をつくる優良な下請けになろうと、一から職人として鋳造の技術を身に付けようと思いました。
父はドビー機の設計をやっていたんです。なので、鋳造や精密加工の技術などの技能面は、あまりよく分かっていなかった。
ドビー機の販売が減り設計開発自体がなくなったので、父自身ができることが少なくなってしまったんです。(当時、愛知ドビーの実態は)鋳造や精密加工の下請けになっていましたが、その技能がよく分からないことが、父にとって経営上のネックだったと思います。
町工場は、現場に入って、技術も全部分かった上で、技術の伝承も自分がやりつつ経営もやるというのが、基本なので。だから僕は、あえてしばらく現場をやっていました。
僕も実際に職人さんについて、現場に入って、実際にものがつくれるように機械の操作を覚えて、手を動かしてやっていました。5年以上は現場にいました。鋳造カレッジ(※一般社団法人日本鋳造協会が主催する講座)にも通って勉強しました。
また、作ったものの出荷作業もしていました。人がいないからトラックに乗って出荷をしながら、営業もしていたんです。そのころは従業員はほとんど全員が職人。15人くらいのうち、事務所には父と母がいるくらいで、他はみんな工場の職人でした。
最終的には作るところから営業までの一連を自分でできるようになりました。やっぱり工場の中でしっかりと「うちの会社は何が特徴で、何ができるか」を、自分で実感しながら学べたことが大きかったですね。
お客さまのところで図面を見せてもらった時に、「これは愛知ドビーの機械と職人でできる」「これはできない」ということが、明確に判断できるようになったので、やりやすかったです。そういう話がすぐにできたので、仕事も決まりやすかったと思います。
バーミキュラの鋳造作業=提供・愛知ドビー

次第に「収支トントン」→売上高175%増に

――下請けの事業は持ち直したのでしょうか?
はじめは苦労しました。鋳造の業界はその頃、中国などの海外に注文を取られてしまうこともあって、苦しい時代だったので。
でも、2006年頃には、鋳造の下請けで(収支が)トントンくらいになったんです。利益はそんなに出ていないんですけど、それなりに仕事量をいただける環境になりました。
お客さまの立場からすると、鋳造の仕事を一つ下請けに出すと、型を作るための機械の費用などで、実はいろいろとお金がかかる。下請けの会社が「もう潰れます」となると、別の会社に仕事を出すために、またその費用がかかっちゃうんです。なので、お客さまは外注する会社の継続性をすごく見ていたんですね。
そんな中、若い26、27歳の僕が入ってきた。ということは、愛知ドビーはそこそこやっていくんだな、と思えるじゃないですか。お客さまにかわいがっていただいて、注文も結構いただいて、トントンまできたという感じです。
年間2億円の売り上げだったのが、1億5000万くらい売り上げが増えて、3億5000万円までいっていました。

弟の参画で2つの柱が成長軌道に

そんな中で、自動車メーカーの管理部門で働いていた弟の智晴(現・副社長)が入社しました。僕が入ってくれと直談判しました。
土方智晴・副社長=提供・愛知ドビー
僕が鋳造をやって、下請けとしてトントンくらいまでは持ち直してきたけど、やっぱり愛知ドビーのもう1つの柱・精密加工を伸ばさないといけない。そっちを伸ばして、もっとたくさんのお客さまと付き合っていきたい。ですが、僕が精密加工まで面倒をみるのはちょっと難しい。そこで、副社長を誘ったんです。
副社長が入ることによって精密加工が充実すれば、僕が作った鋳造品を機械部品として完成させるための精密加工がうちで出来る。そうすれば売り上げも増える。それに鋳造と精密加工のどちらもできる町工場は非常に少ないために、愛知ドビーの特徴・強みになって、仕事量も増えるだろうと。そういう狙いで、副社長に入ってもらった。
実際、その通りにうまくいきました。ISO9001認証(※品質マネジメントシステムに関する国際規格)を取得しながら、大手企業に選ばれるような会社づくりを、副社長と一緒にやりました。
そうした取り組みが非常にうまくいき始めて、売り上げもさらに2億円ほど伸びて、順調でした。

職人達のハートに応え、「メーカーに返り咲く」

ですが、やっぱり愛知ドビーという会社はもともと繊維機械メーカーだし、職人たちのハートもやっぱり、“メーカー”のハートだったんですね。下請けではなくて。
下請けというのは、お客さまが図面を書いて、その図面通りに、お客さまの想定価格に近い価格で納品できる会社が、いい下請けなわけです。
うちの職人たちは、本当は例えば「部品のここの形をちょっとこう変えると、もっと安くできるんですけど、どうですか?」というような提案を、すごくしたかった。ですが、やっぱりお客さまの都合があるし、なかなかそういう僕たちの声は届かない。
職人たちは仕事のおもしろみをなかなか感じられなかった。副社長は特に、そう感じたんでしょうね。
愛知ドビーはメーカーになることで、より成長につながっていく。愛知ドビーにはメーカーが向いてる――。副社長と、リーマンショック(2008年)前の調子が良かった頃に、「メーカーに返り咲こう」という話を始めました。
Vol.2に続く(NewsPicks +dの詳細はこちらから)
提供・愛知ドビー