【RS】当事者不在バナー

改ざんされた「津波到来時刻」

「ゼロベース」は不都合な真実を隠すマジックワード

2014/10/14
私たちの生きている社会はいま、圧倒的に弱い立場にある当事者たちの痛みや思いを感じとり、きちんと耳を傾け、丁寧に寄り添えているのだろうか。立場ある者が、目先の営利や名誉、効率性ばかりを優先していないか。これから記そうと思っていることは、長く当事者たちに接してきたジャーナリストとしての自分自身への問いかけでもある。
連載1回目、2回目に引き続き、学校管理下にあった児童74人、教職員10人が東日本大震災の津波で犠牲になった宮城県石巻市立大川小学校の惨事はなぜ起きてしまったのか? そしてなぜ、その後の検証が適切に行われなかったのかについてリポートしていく。
第1回 日本の政治は、誰のためのものなのか?
第2回 「大川小学校の悲劇」は、こうして葬られる

学校管理下にあった児童74人、教職員10人が東日本震災の津波で犠牲になった宮城県石巻市立大川小学校。以来、児童の遺族たちは、「50分もの時間がありながら、なぜ学校から避難することなく、数多くの子どもたちの命が奪われたのか?」という真実の解明を求め続けていた。

ところが、石巻市教委からの要望を受ける形で、文科省主導によって2年近く経った2013年2月に発足した第3者による大川小学校事故検証委員会は、果てしなき迷走を続けていく。検証委員会は、8回(うち1回は有識者のヒヤリング)にわたって開催され、2013年の年末までに報告をまとめる予定で予算も組まれていた。

言うまでもなく、検証委員たちが石巻市まで来て、遺族をはじめ、学校関係者や地域の人たちが見守る中で開かれる会議は、1回1回がとても貴重なやりとりの場となる。そんな大切な時間であるはずの同年8月24日の第4回検証委員会は、なぜか大川小学校を襲った新北上川の津波の到達時刻が「15時32分頃」だったとする根拠の説明に、多くの時間が費やされた。

津波到来時間の15時37分で停まった大川小学校の時計

津波到来時間の15時37分で停まった大川小学校の時計

確定された事実をもひっくり返す

当時、大川小学校付近にいた子どもたちが、津波に襲われた時刻は、校舎に設置されていた時計の針が15時37分前後を差して止まっていたことや、直前まで現場にいて生還した目撃者の証言などからも、ほぼ15時37分頃だったことが、すでに石巻市教委と遺族の間で確認されている。

ところが、この検証委員会は、そんな“確定した事実”さえもひっくり返して、実は“5分ほど早かった”などと誰も求めていない見解を打ち出し、遺族たちをがっかりさせた。

しかも、報告したのは、津波工学ではなく、専門外の心理行動科学専門の調査委員だった。同委員は、その根拠として「(新北上川に設置されていた)水位計(の波のピーク)による津波到達時間の推定が可能であるということなどから、この遡上(そじょう)の状況はかなり正確に把握できます」と説明した。

だが、分析に使った水位計は、河口から8.57キロ流の福地という地域と、14.94キロ上流の飯野川上流という地域にあったデータであり、河口から4キロ弱の大川小学校よりも、はるかに上流のものだった。

要は、この2つの水位計の点をつないで、河口からの距離を直線にして、上下に伸ばしていくのだ。いわゆる中学2年で習う、一次関数のy=ax+bの「直線回帰式」と呼ばれる式で求めたものだ。

「河川を遡上する津波の速度というものは、河口からの距離や、川幅や河口の深さ、川の形などによって影響を受けるために、下流に近い2つの水位計から推測することを考えます。これが、妥当な推測の仕方ということになるわけです」

同調査委員は、こう胸を張った。

水位計にこだわるのも、「津波のピークが新北上大橋に到達した時刻と、大川小付近に津波が越流した時刻の間に、それほど大きなズレはない」としていることにある。

同委員会の委員長が口癖の「科学的検証」に従って机上の計算式で導き出せば、そういうことなのかもしれない。しかし、現実の新北上川の津波は、大川小付近の新北上大橋に溜まった松の木や瓦礫などで堰き止められ、ダムのようになっていた。

また、新北上大橋より先の間垣地区では堤防が決壊。津波が一気に集落をのみこんで、川の流れは大きく変わっていた。さらに、新北上川の大川小学校寄りの手前を並行して流れる富士川という支流の存在が、津波到達時刻の推計に考慮されていなかったことも、後の記者会見でわかった。

もし委員会のメンバーの中に当事者の遺族が入っていれば、これらの現実を無視して「15時32分頃に小学校付近に津波到達」などと受け取れるような、机上の計算式だけで間違った報告をすることもなかっただろう。

いや、そもそも、津波到達時刻の5分ほどの違いが、子どもたちが50分近く校庭に待機させられ続けたことの本質的な解明と何の関係があるのか、誰にも理解できなかった。

荒唐無稽な“仮説”を披露

そして、この委員会のおかしさを物語る極めつけは、15時37分頃を差して止まった校舎の時計について、前出の心理行動科学専門の調査委員がこう疑問を投げかけたことだ。

「これらの時計は、いずれも元々、現在ある場所にあったのかどうか…」

つまり、同委員は「誰かが時計を持ってきた可能性がある」という独自の見解を示したのだ。思わず傍聴席から「えー?!」というどよめきが起こった。

「すべてのことをゼロベースで検討するわけですから…」委員は傍聴席に向かって、こう語気を強めた。

しかし、震災前の教室の写真を見れば、同じ時計が同じ教室の場所にかかっていることがわかる。それを検証するのが委員会の仕事であるはずなのに。

ちょっと関係者に聞いて確認すればわかる事実であるはずなのに、荒唐無稽な仮説を検証委員会の場でぽろっと口にしてしまう。その上、遺族たちから呆れられ、さんざん指摘を受けた末、1回の委員会が終わっていく。あまりに馬鹿げた光景のように思えた。

なるほど「ゼロベース」とは、“不都合になりそうな真実”をなかったことにすることもできる、そんな便利なマジックワードであることを、そのとき初めて知った。

結局、年内に検証報告が間に合わず、委員会は予定より多い9回にわたって開かれた末、2014年2月に第10回委員会で最終報告書案が示された。検証委員会の予算も、当初の2000万円から2013年8月の第4回委員会で突然、さらに3700万円も増額されたことが、委員会事務局のコンサルタント代表から発表された。

遺族たちが望んでいた「なぜ50分近く学校から避難しなかったのか」というシンプルな問いはそっちのけで、ほぼ会議1回分の時間を費やした津波到達時刻については、翌年、石巻市長に提出された最終報告書にもはっきりと明記されていない。ただ、大川小学校に残されていた3つの時計は、それぞれ15時37分前後で停止していることが紹介され、こう表現された。

【これらの時計は陸上を遡上して大川小学校付近に到達した津波によって停止したものとみなされる】

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*本連載は毎週火曜日に掲載する予定です。