【RS】当事者不在バナー

東日本大震災の津波で児童74人が亡くなった

「大川小学校の悲劇」は、こうして葬られる

2014/10/7
 私たちの生きている社会はいま、圧倒的に弱い立場にある当事者たちの痛みや思いを感じとり、きちんと耳を傾け、丁寧に寄り添えているのだろうか。立場ある者が、目先の営利や名誉、効率性ばかりを優先していないか。これから記そうと思っていることは、長く当事者たちに接してきたジャーナリストとしての自分自身への問いかけでもある。
先週に引き続き、東日本大震災の津波で犠牲になった宮城県石巻市立大川小学校の惨事の検証がいかに「当事者不在」だったかを振り返る。
(第1回 日本の政治は、誰のためのものなのか?

筆者は、学校管理下にあった児童74人、教職員10人が東日本大震災の津波で犠牲になった宮城県石巻市立大川小学校の惨事を取材してきた。

亡くなった児童の遺族たちが当初から求めていたことは、「地震発生から50分もの時間がありながら、なぜ学校から避難することなく、数多くの子どもたちの命が奪われたのか?」という真実の解明だった。

ところが、石巻市教育委員会によって市議会に提出され、文科省主導で防災コンサルに“丸投げ”された形の第3者による大川小学校事故検証委員会は、2013年2月7日に第1回委員会を開いて以降、そうした遺族の知りたい真実に迫ることもないまま、果てしない迷走を続けていく。

【RS】当事者不在2こっち

検証委員会は震災の教訓を残す気はないのか?

中間報告ではなく単なる「まとめ」

特に、この第3者委員会の性質をよく表していたのが、同年7月7日に行われた第3回委員会だ。前回の第2回委員会から実に3カ月半もの時間をかけながら、遺族たちの前に示されたのは、当初の予定に記されていた検証の「中間報告」などではなく、ただの「中間とりまとめ(案)」だった。

この間の作業の経緯について、委員会側は同日、大川小学校の校庭脇の裏山に登って調査をしたり、資料を集めたりしたほか、延べ72人から計32回、65時間の聴き取りを行ったことを明らかにした。

生還者には意見を求めず

しかし、呆れることに、当時、津波が来る直前まで現場にいた児童4人、教員1人の肝心な計5人の生還者には、何も聞いていなかった。そして、誰にどのような聞き取りを行ったかの情報は、「委員会が作った規程に基づき…」という理由で、非公開とされた。

時間が経てば経つほど、最も大事な生還者の証言は得にくくなる。記憶が曖昧になり、当事者が語りたいタイミングを逸する可能性もある。実際、当時小学5年生だった生還児童の1人は、委員会に証言を望んでいた。

記者会見で、私たちは、現場の生存者ではない周辺の人たちの聴き取りを生存者より優先させることがどの程度合理的な手法なのかを尋ねた。すると、なぜかマイクを握った津波工学が専門の委員が、こう記者を威圧した。

「あなたはPTSDになったことがありますか?あなたはこれから、人の人格を殺すかもしれないんですよ。そういう時にあなたは責任を取れますか?」

ちなみに、同委員は、前回の委員会で休憩時間、この生還児童の父親の元に来て、「子どもにメディアの前で話をさせるのは、PTSDになるからよくない」などと、唯一、当時の現場の様子や思いを語り続ける児童に“言論封殺”とも取れる牽制をしていた。

長年、ひきこもり当事者たちを取材してきた筆者は日々、トラウマを抱えた当事者たちと接しているが、言葉を封じられ、秘密にしておくこと自体が様々な症状を引き起こし、時間とともにそのトラウマが語れなくなる事例をたくさん見てきた。だから、本人が語りたいタイミングで、当事者が安心して話しやすい環境を作りだして上げる必要がある。

しかし、私たちが目の当たりにしたのは、専門外の委員の暴言に対し、委員長も心理専門の委員も誰もブレーキをかけられない不甲斐ない委員会の実態と、こんな子供だましのような言論封殺で、遺族の母親たちを泣かせ、当事者を上から一方的に傷つける光景だった。

さらに驚いたのは、震災が起きた前年の2010年度までの12年間に大川小学校に勤務した教職員(調査対象38人、回収20件)に、防災対応の意識や経験等についてのアンケートを行っていたことだ。

恣意的なアンケート結果

アンケートの項目は、「学校裏山の活用状況」「山へ登ることについての指導状況」「道路の端からシイタケ栽培地までの距離と高さ」「シイタケ栽培地へ行く頻度」などを尋ねていた。

シイタケ栽培地とは、かつて子どもたちが学習として行っていた、体育館の裏手の山に登る途中にある斜面で、津波は到達していない。

これまで遺族と市教委が合同で行ってきた計測調査によって、校庭から駆け上がれば1分ほどで避難できた事実が、すでにわかっている。だからこそ遺族側は、こうした資料や情報も検証委員会に提出したうえで、その先の「なぜ子どもたちを避難させなかったのか」という真相の解明を求めていた。

震災の前年の2010年には、校外授業で当時の3年生が校庭脇の裏山に登って写生を行っていた写真も残っている。撮影者は、ほかならぬ震災当時の小学校長(震災時不在)であり、その写真は、職員室前の廊下に引き伸ばされて展示までされていた。遺族側は、そうした情報も、委員会にさんざん提供してきた。

しかし、調査を担当した体育学が専門の調査委員は、裏山を3つの地区に分け、体育館の裏手の山に「自分が登ったことがある」という回答が多かったことには着目せず、「誰かが登っているのを見たことも聞いたこともない」という回答がそれぞれ4~5名いることをわざわざ強調した。

12日後の7月19日に開かれた遺族向け報告会でも、このアンケートに対して「質問の意図がわからない」「アンケートの必要があったのか?」「5年も10年も前の先生がどうとかではなく、当時の先生たちがどうだったのかを知りたい」などの疑問が次々にぶつけられた。

結局、震災前の12年前まで遡って同校教職員にアンケートを行うことが、震災当時の教職員の行動や今回の事故検証の背景を探るうえで、どのような関係があるのかがわからず、委員たちは遺族が納得できるような説明もできなかった。

この文科省主導の第3者委員会は、「中立公正」とは名ばかりに、恣意的なデータで裏山へ登れない理由を必死に探しているようにしか見えなかった。そして、委員たちはどのような議論を行ってきたのか、何も見えてこなかった。

その後も、遺族たちが何度も訴えてきた「なぜ大川小学校だけ、学校管理下でこれだけ数多くの犠牲者を出したのか」という最も核心的な問いに、この委員会は迫ることを避けながら、「事実情報に関する取りまとめ」が作成され、5700万円の予算だけが消化されていくことになる。

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