2022/1/14

【入門解説】10年後に200兆円市場?なぜ今バイオ産業が熱いのか

NewsPicks Brand Design editor
 バイオ産業市場の急成長が止まらない。
 世界のバイオ産業市場の年平均成長率は7%に上り(注)、OECDの推計では、OECD加盟国のバイオ産業の市場は、2030年には約200兆円規模にまで拡大する見込みだ。
 その勢いは日本でも同様で、バイオ市場規模は年々拡大。2019年に内閣府統合イノベーション戦略推進会議が策定した「バイオ戦略」では、2030年に世界最先端のバイオエコノミー社会を実現することが掲げられた。
(注)出典:経済産業省「バイオテクノロジーが拓く『ポスト第4次産業革命』」
出典:経済産業省「バイオテクノロジーが拓く『ポスト第4次産業革命』」
 この商機を逃すまいと、ベンチャー企業も次々と参入、グローバルでのベンチャー投資も熱を帯びている。
 2020年上半期、ライフサイエンス分野の企業では、1億ドル以上のいわゆる超大型資金調達ラウンドが44回行われるという、異例の数字となった。
出典:Crunchbase, Life Science Funding Spikes In 2020 
 このバイオ産業の発展を可能にしているのは、バイオテクノロジーと呼ばれる技術だ。
 バイオテクノロジーとは、「バイオロジー(生物学)」と「テクノロジー(技術)」の合成語で、生物や生物の働きを工学的知見から研究し、人間の生活に役立てようとするものである。
 バイオ産業が網羅する領域は、食品から医薬品化学エネルギー農業など、多岐にわたる。私たちの生活の様々な分野で、バイオテクノロジーを応用した製品やサービスが日々生まれているのだ。
出典:OECD「The Bioeconomy to 2030」(2009年)
 そんなバイオ産業に独自のポジションで挑む企業が、グループ内に商社やメーカーなど多様な“プレーヤー”を抱えるNAGASEグループだ。
 2021年4月にはバイオ技術を結集した横断型組織「NAGASEバイオテック室」を設立。「合成生物学」を応用した新素材開発に注力する。
 なぜバイオ産業は、これほど勢いを増しているのか。NAGASEグループのアプローチとは。NAGASEバイオテック室統括の白坂直輝氏に聞いた。

バイオ産業のフェーズが変わった

── 改めて、バイオ産業はなぜ急速に拡大しているのでしょうか?
 ポイントは大きく二つあります。一つは、ここ20年で起こった「技術革新」です。
 まず重大な革新は、次世代シーケンサーの登場。これは2000年半ばに米国で登場した、遺伝子の塩基配列を高速に読み出せる装置で、遺伝子の効率的な解読を可能にしました。
 結果的に、遺伝子解析のコストは劇的に低下。現在の解析コストは、2000年当時のなんと10万分の1なんです。
出典:経済産業省「バイオテクノロジーが拓く『ポスト第4次産業革命』」
 さらに2012年、遺伝子編集技術であるCRISPER-Cas9(クリスパーキャス9)が生まれました。これは簡単に言ってしまえば、遺伝子情報を簡単に、かつ正確に切り貼りできる技術。
 それまで、遺伝子の編集はとても複雑な作業で、自分が狙ったとおりに遺伝子を編集するのは至難の業でした。その作業を、素人でも行えるほど簡単にした技術が、CRISPER-Cas9です。
 こういった技術革新によって、新しい物質を生み出すハードルが、大幅に下がった。新サービスや新素材を生む土台ができ、市場が大きく盛り上がっているというわけです。
 もう一つのポイントは、「環境保護」の視点です。
 これまで多くの物質は、石油などの化学物質から作られていました。ですが、昨今の気候変動の問題や、SDGsの潮流により、環境に優しいモノ作りをすべきだという社会的ニーズは、ますます高まっています。
 そこで需要が高まるのが、バイオ産業。バイオテクノロジーを使えば、自然由来の生物から物質を作り、環境に優しい生産プロセスが可能になるためです。
 具体的には、トウモロコシなどの植物由来の原料から作られたバイオマスプラスチックや、自然に還る生分解性プラスチックなどが、注目を集めていますね。
── バイオテクノロジーの中でも、特に注目している技術はありますか?
 世の中にわずかしか存在しない物質を、より効率的に生産する「合成生物学」という手法です。
 人間の目的に合うように生物の細胞を編集する学問分野で、言い換えれば、ソフトウェアを開発するかのように、生物をデザインするのです。
 これまでは、欲しい物質を手に入れるには天然物から抽出するか、化石原料をもとに化学合成をするしか方法がありませんでした。また、いくらバイオテクノロジーの有用性が叫ばれていても、今はまだ化学プロセスのほうが低コストであるケースは、多々あります。
「合成生物学」の最大の利点は、バイオプロセスの生産性を、飛躍的に向上させること。そうすることで、「価値はあるけれど希少な素材」を市場に提供し、生活に役立てられるのです。
── 「合成生物学」には、具体的にどんな事例やメリットがあるのでしょう?
 アイスクリームのフレーバーなどに使われる「バニラ」がわかりやすい例です。
 天然のバニラは生産地に偏りがあり、加工にも手間がかかるため、現在は銀よりも高価と言われるほど。その理由から、皆さんが口にするバニラ風味の9割以上は、バニラが持つ香り成分(バニリン)を化学合成したものです。
 バニリンを天然物からの抽出や化学合成ではなく、バイオプロセスで安定的に量産できるようになれば、製法としては環境負荷が減り、またライフスタイルに配慮した食品成分の選択肢が増えることにもなります。
 同様に、ヤギの毛である「カシミヤ」も、糖質を原料に安価で安定的に生産できる技術が確立されています。

商社であって、商社でない

── NAGASEグループは、バイオ産業にどのような切り口で関わっているのでしょうか?
 まずはNAGASEグループ全体について、少しお話しさせてください。
 NAGASEグループの中核にある長瀬産業は、化学系専門商社として、電子材料から樹脂原料、機能性食品素材から医薬原料まで、幅広い素材を扱っています。
 ユニークなのは「商社であって商社でない」ところで、いわゆる取引の仲介業にとどまらず、研究開発から製造、物流、販売までを手がけています。
「ビジネスの種を見つけ、育み、拡げる」というビジョンを掲げ、川上から川下までを一貫してオーガナイズする「ビジネスデザイナー」を目指しているんです。
 長瀬産業は、江戸時代の創業当時は染料を扱っていたため、染めた布を柔らかくする「糊抜き剤」用に、国内では比較的早い段階から酵素を自社で製造していました。
 2012年には、天然糖質であるトレハロースの大量生産技術を持つ林原がグループ会社に加わったことで、バイオ関連事業の厚みが増しました。
 こうしたバイオテクノロジーの知見を集結させようと、グループ横断の組織として今年4月にNAGASEバイオテック室を立ち上げたのです。
── なるほど。しかし一方でバイオ産業には、ベンチャーをはじめ多くの企業が参入しています。NAGASEグループの独自性はあるのでしょうか?
 まず一つは、グループとして取り組むことで、研究開発のプロセスにおいても、製造や販売のフェーズにおいても、価値を提供できることです。
 NAGASEバイオテック室は、長瀬産業の研究施設であるナガセR&Dセンター、グループ会社の林原、ナガセケムテックスと連携する組織です。
「微生物に強い」「糖に強い」「酵素に強い」などそれぞれ特徴があり、お客様のニーズに対して異なる技術的視点から取り組める強みがあります。
 二つ目として、バイオプロセスに必要な技術を網羅している点も大きい。
 というのも、微生物(菌)に栄養源を与えて物質生産をうながす「発酵生産」というプロセスや、微生物が生産する酵素を利用して物質を生産する「酵素反応」というプロセスには、「スクリーニング」「微生物の改良」「物質生産(培養・発酵など)」「評価分析」という大きく4つの技術が必要になります。
 多くのバイオ系ベンチャー企業では、「改良はできるけれど、物質生産はできない」というように技術に偏りがある場合が多い。
 一方でNAGASEグループでは、有用物質を生産するために必要な技術を網羅しており、お客様のお困りごとに対して、有用物質の一からの開発も、工業生産に至るサポートもご提案できます。
 さらに、私たちには商社機能がありますから、別の企業が開発した素材を別のメーカーに繋ぐことももちろん可能。
 商社ならではのネットワークを活かして、パートナーと協業しながら、この産業を大きく育てていけると考えています。

生産性が「1000倍」に

── 実際にNAGASEバイオテック室では、どのような成果が出ているのでしょうか?
 長瀬産業は昨年、「エルゴチオネイン(以下、EGT)」という物質の生産性を、従来の約1000倍に高めることに成功しました。
 EGTはキノコなどに含まれる希少天然アミノ酸です。抗酸化能が高く、老化防止に効果があるとされていて、食品や化粧品、医薬品といった幅広い分野での利用が期待されています。
 ただ、キノコに含まれるのはごく微量のため、天然物からの抽出法は大変な手間がかかります。化学合成法も環境負荷が大きいことが課題でした。
 そこで私たちは、スマートセル技術(細胞が持つ物質生産能力を人工的に最大限引き出した生物合成技術)を用いて、微生物のEGTの生産性を約1000倍に向上させることに成功したんです。
 EGTを実際に製造する時には、製造部分のプロフェッショナルであるナガセケムテックスや林原が担い、美容や健康食品関連の製品として市場に出す際には、商社である長瀬産業が前面に出て、市場ニーズを調査し、開発・製造に還元します。
 こうした連携ができるのがNAGASEグループの強みですね。

AIで材料を探す時代に

── 勢いを増すバイオテクノロジーですが、課題はあるのでしょうか?
 大きな課題になるのが、“最適な材料探し”の問題です。
 新しい機能を持ったバイオ素材を生み出したり、量産にこぎつけたりするには、ターゲットとなる素材に作用する最適な酵素や微生物、それらの組み合わせを探し出すことが求められます。
 ですが、これまで研究に必要な酵素を探す作業は、人力で行われていて、研究者の属人的な経験によるところも多かった。ご察しの通り、かなり非効率な作業です。
 その課題を解決するために、長瀬産業とIBMが共同で開発したのが、新素材探索AIプラットフォーム「TABRASA®(タブラサ)」です。
 TABRASA®を使えば、これまでの手作業を、AIで置き換えられます。膨大な材料が登録されている複数のデータベースから、入力した条件に合致する酵素を、人間以上のスピードで探索することができます。
 探索する人間のバイアスがかかることもなく、いきなり「ピタリ賞」ではないにしても、可能性が高い素材をフラットな目で探し当てることができるのです。
TABRASA®について詳しく知りたい方は、上記記事をご覧ください。
 さらに、使えば使うほどAIは学習して、探索の精度は上がっていく。すなわち、新規の材料が見つかる可能性も高まります。
 今後は、AIのようなデジタル技術とバイオ技術を組み合わせることで、あらゆる物質をバイオプロセスで作れるようになるでしょう。TABRASA®はすでに実用段階に入っており、まさに実証実験を重ねながら、精度を高めている最中です。
── NAGASEグループとしては今後、どんな領域に進出していくのでしょうか?
 まずは高付加価値の分野から、バイオプロセスへの置き換えができないか、検討を進めていきたいと考えています。
 想定しているのは、生活関連やヘルスケアの分野です。食品用香料や食品添加物、栄養補助食品、化粧品原料やフレグランスなどがそれにあたります。
 もちろんそれに伴って、スマートセル技術の生産性やTABRASA®の精度を高められるよう、日々PDCAを回していくつもりです。
 最終的には、ゴミすら出さない世界を目指したい。捨てられていたはずのものから、バイオプロセスで新たな物質を作る。モノ作りの常識を大きく変えられるような、そんな循環作りを目指したいと思います。