2021/11/24

【CO2分離】カーボンニュートラルの「新たな解」を創る

NewsPicks Brand Design / Senior Editor
 現在、世界が取り組んでいる脱炭素社会の実現には、CO2排出量を削減するだけでなく、大規模な温室効果ガス排出源からCO2を「分離・回収」する技術がカギになる。
 だが、従来のCO2分離技術には大きな課題があった。一般的なCO2分離技術として知られる吸収法や吸着法は、化学的な特性を利用して薬品や固体とCO2を結合させる。これらの方法はCO2を固定しやすいというメリットがある一方、再利用のためにCO2を引き剥がそうとすると、大きなエネルギーが必要になる。
 結果的に、分離にかかるエネルギー消費が増え、発電時のCO2排出量を含めると収支がマイナスになってしまうのだ。
 この課題を解決する新しいアプローチとして注目されているのが、低コスト・省エネルギーでCO2を分離する「CO2分離膜」の技術。特定のガス分子だけを通すフィルターを使って、気体を選別するようなイメージだ。
東レが開発した「多孔質炭素繊維を用いた革新CO2分離膜」。支持体の直径は約300マイクロメートル。表面には数マイクロメートル程度の薄い分離機能層があり、外側にある気体に圧力をかけると、CO2などの小さな分子だけが中空部へと通過する。
 世界各国の企業が分離膜の研究開発を進めてきたが、実用化への障壁は高く厚い。だが、東レが2019年に発表した革新素材「多孔質炭素繊維」が、この分離の壁に風穴を開けた。

もしもCO2だけを通すフィルターがあったら?

 開発チームのリーダーである三原崇晃氏は、CO2分離膜の仕組みを次のように説明してくれた。
「CO2分離膜は、CO2だけを選択的に透過させるフィルターのような素材です。ガス分子にもいろいろな大きさがあって、CO2は比較的小さい。炭素材料がガスを透過させることは昔から知られていましたが、シャープペンシルの芯のようにもろく、簡単に折れてしまうため加工が難しかったんです。
 われわれは炭素材料を細く繊維状にして「多孔質化」させることで、圧力に耐えられる柔軟性を持ち、なおかつ装置をコンパクトにできるガス分離膜を開発しました」(三原氏)
 実は、三原氏が最初に多孔質炭素繊維の研究・開発に取り組み始めた時点では、ガス分離膜という用途は想定されていなかった。電池や触媒の支持体に使えないかと炭素繊維を研究し、「どうせだったら、穴がつながったほうがおもしろい」と考えたのだという。
「最初は単純に、孔(あな)の空いた炭素材料をつくれたら使いみちがあるんじゃないかと考えました。多孔質の炭素繊維ができたらそれを砕いて蓄電池の触媒にでも使おうと思っていたんですが、せっかく繊維になっているのに砕いてしまうのももったいないな、と。
 繊維のままうまく使える用途はないのか? と聞かれて調べてみると、炭素にはガスを分離する性質がありました。それなら、オールカーボンの分離膜があったら便利じゃないかと、用途を変更したんです」(三原氏)
支持体となる多孔質炭素繊維はこれくらいの細さ。この繊維にCO2分離機能を有する緻密な炭素を塗ったものが分離膜の素材となる。
 三原氏が所属する「先端材料研究所」は、東レの創業の地である滋賀県の「未来創造研究センター」のなかに設置されている。
 東レの研究本部は繊維、樹脂・ケミカル、フィルムなど、さまざまな事業本部に横串を通す組織になっている。2019年12月に竣工したばかりの新しいビルにはさまざまな領域の研究室があり、部署を横断する大部屋がある。東レグループの生産本部や工場も隣接していて、人が往来しやすい環境だ。
 新エネルギー材料研究室 室長の菅谷博之氏によると、こうした風通しのいい環境がうまく働いたことで、今回のCO2分離膜のようなブレイクスルーが生まれている。
「このCO2分離膜は、東レが培ってきた高分子技術や炭素繊維技術、そしてナノレベルで構造を制御する分離膜技術の融合であると同時に、マテリアルズ・インフォマティクスなどの計算科学の力が大いに活用されています。
 開発者である三原は、炭素材料の研究をやりながら、分離膜の研究にもかかわったことがあった。『このふたつをくっつけたらどうでしょうか?』と、彼から提案を受けたんです」(菅谷氏)
 一般的に分離膜としてイメージしやすいのは、東レの浄水器「トレビーノ」に使われているような水をろ過するフィルターだろう。同様の膜技術は、工場などの廃水処理や、人工腎臓などの医療素材、蓄電池のセパレーターなどさまざまな産業用材料にも使われている。
「従来の分離膜の多くは有機ポリマーでつくられていて、柔軟で微細な加工がしやすく、量産によってコストも抑えやすかった。ただし、強固さや耐薬品性には課題がありました。一方で炭素繊維のような無機物は柔軟性が低く、加工が難しいことがネックでした。
 ポリマーは溶剤に溶かせば均一になるので、それをいかに制御しながら不均一な状態にするかが要素技術としてのポイントです。今回はそのノウハウも応用しながら、かなり斬新な手法で炭素材料の多孔質化を行っています」(菅谷氏)

コンピューターが、素材開発を加速させる

 三原氏が多孔質炭素繊維の研究を始めたのは、2013年ごろ。ディープラーニングによってAIが飛躍的に進歩した時期だ。ただ、当時はまだビジネスに実装される段階ではなく、東レの研究・技術開発も、それぞれの研究者が経験則によって実験を繰り返していた。
「研究を始めた当初は、よくも悪くも『勘と経験による力技』に頼っていました。まだAIを使ったシミュレーション計算でどこまでやれるのかが未知数だったからです。
 しかし、多孔質炭素繊維の研究が進むにつれ、いかに再現性を高めて安定的な構造をつくるかという課題が持ち上がりました。ちょうどそのタイミングで、マテリアルズ・インフォマティクスなどの計算科学が急速に進展し、実験と理論計算を組み合わせられるようになったんです」(三原氏)
 シミュレーションを担当したのは、デジタルマテリアルサイエンスグループの主任研究員・吉元健治氏だ。多孔質炭素繊維を用いたCO2分離膜をつくるうえで、計算科学はどのように活用されたのだろうか。
「炭素繊維の孔のサイズをナノレベルで制御するには、炭素の構造やメカニズムを把握し、パラメータを設定する必要があります。しかし、複雑な物理現象を実験だけで定量化することはとても難しい。起こりうるすべての可能性を実験で検証するわけにもいきません。
 その課題を抜本的に解決するため、東レのデジタルマテリアルサイエンスグループでは、分子スケールからマクロスケールまでを包括的に捉える『マルチスケールシミュレーション技術』を開発してきました。
 この技術の特徴は、物質の挙動や物性に関する情報を分子レベルから計算し、シミュレーションする点にあります。その結果、パラメータを変えるだけでどんな多孔質構造ができるかを予測し、構造内の分子の振るまいもバーチャルで解析できるようになりました」(吉元氏)
吉元氏がシミュレーションした多孔質炭素繊維の構造を3Dプリンタで出力したもの。実物の孔径は1マイクロメートル以下。このスケールの連続した孔をCO2分子が通り抜けていく。
「ほんの10年前までは、コンピューターで扱える情報量が圧倒的に小さく、シミュレーションはあくまで実験を補完する理論計算に過ぎませんでした。でも、最近は現場での化学実験に先だって、仮説や指針を与えるほどにまで精度が上がってきました。実験と計算の連携がここ数年で急速に進んでいて、計算科学に携わる者としてやりがいのある状況が生まれています」(吉元氏)
 分子レベルの構造や挙動をシミュレーションできるようになったことは、分離材料設計のリサーチフェローとして、分散したノウハウをつなげる役割を担う菅谷氏の仕事にもポジティブな影響を与えている。
「これまで東レでは、個々の研究者やユニットにノウハウが蓄積されてきました。さまざまな素材の研究者がいて、課題に当たったときに私のようなフェローが『こんな素材や技術がある』『この人に聞いてみるといい』とアドバイスする。人と人をつなげることで知見を伝達してきたんです。
 そこに計算科学が加わったことで、シミュレーションのプロセスや結果がデータとして蓄積され、統一した仮説やモデルに集約しやすくなりました。
 今は計算と実験の垣根を壊そうと、マテリアルズ・インフォマティクスにかかわる計算グループにも長期間の化学実験を経験してもらい、素材開発の理解を深める取り組みを進めています。一方で、これまで実験に明け暮れていた研究者も、計算上の理論とリアルな素材がつながっていることを肌で感じることができるのです」(菅谷氏)

革新素材は、地球環境の未来を変える

 三原氏たちのグループが「世界初の連続する空隙構造を持った多孔質炭素繊維」を発表したのは、2019年の11月。リリース時にはすでにCO2分離や水素製造に用いる分離膜としての用途が示されており、2021年4月にはこの新しい多孔質炭素繊維を使った「革新CO2分離膜」が発表された。
左から、吉元健治氏、三原崇晃氏、菅谷博之氏。3人の後ろにあるのが東レのR&D拠点「未来創造研究センター」。
 三原氏によれば、CO2分離膜は「研究の出口に近いところまで何とかたどり着けた」。この先には、量産化と社会実装という課題が待ち構えている。
「新素材を商品として提供するには、実際に分離膜を使う現場の装置やプロセスをふまえて、システム化を進めていく必要があります。それが次の段階のチャレンジですが、ここからは東レ単独ではなく、さまざまなパートナーと協力しながら、実用化に向けた取り組みを進めていきます」(三原氏)
「炭素繊維を多孔質化すれば、何かに使えるかもしれない」。そんな研究者の好奇心から生まれた新素材は、今や地球環境問題の新しいソリューションの一つとして期待が寄せられている。
「多孔質炭素繊維は柔軟で非常に細いため、高密度で充填でき、高温・高圧にも耐えられるという特長があります。具体的には、従来の無機系CO2分離膜モジュールと比べて、同じ体積で最大5倍のCO2透過量を実現しました。
 モジュールやデバイスを小型化できれば、現場のサイズに合わせてカスタマイズもしやすい。これまでCO2を分離することが難しかった、小規模なプラントや工場にも導入しやすいと思います」(菅谷氏)
 さらに、この新素材の技術を応用すれば、CO2以外のガス分子を選択して透過することも可能になる。たとえば、化石燃料に代わるクリーンな次世代燃料として検討されている「水素」も、分子サイズが小さく透過をコントロールしやすいガス分子だ。
「1ナノメートルもないガス分子の透過を制御しようとすると、孔のなかでの分子の挙動を、複雑な三次元構造モデルを使って解析する必要があります。今まさに新しいシミュレーション技術を開発して、ガス分子がどうやって多孔質の中を抜けていくのかを計算している段階です。
 これからコンピューターの性能が向上し、東レの技術やノウハウと、AIやマテリアルズ・インフォマティクスが結びつけば、社会のニーズに即した材料開発がかつてないほどの急ピッチで進んでいくと期待しています」(吉元氏)
三原氏の研究室には、さまざまなガスを通して分離膜の機能を試す機器が置かれていた。
 三原氏が目指すのは、CO2分離技術の社会実装。その先には、東レがサステナビリティ・ビジョンとして掲げるカーボンニュートラルや循環型社会がある。素材のイノベーションは、気候変動や地球環境問題を抱える社会を変えられるだろうか。
「非常にチャレンジングなテーマですよね。2050年のカーボンニュートラルを達成するには、現在のCO2発生量を3分の1に減らさないといけない。
 衣食住を含めて文化的な生活を維持しながら循環型社会へと進歩させるためには、再生可能エネルギーの生産や貯蔵、輸送、また、ものづくりにおいても製造や物流のプロセスにイノベーションを起こしていく必要があります。
 どんな領域でも、素材は出発点。これからの社会が素材に求める機能も大きく変わっていくでしょう。こういった社会的なニーズを見定めながら、それに応えうる新しい素材をつくり、社会に提供することで、2050年の未来を支えていきたいと思っています」(三原氏)