SNSでもブログでも…「ただ批判だけして終わる人」にならない「大事な工夫」
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SNSの発信において、批判だけで終わるべきではないというのはまさしくその通りで、批判の先にどのような代案や学びを与えるか、僕も日々発信する中で真剣に考えている。
そもそも、純粋な批判はSNSで露出していい類のものではない。対象が影響力の範囲外であれば批判する意味がないし、逆に影響力の範囲内にいる相手にはSNSを介さずに直接言うべきだ。つまり、ネット上で批判を垂れ流すと、「この人は自分の影響力を正しく行使できないのでは」と思われてしまうリスクが生じる。
厄介なことに、支持者がそのことを指摘してくれる可能性はほぼゼロに等しい。物分かりのいい人は何も言わずに去っていき、毒舌を喜ぶ取り巻きしか残らない。こうなると、己の誤りを修正することは困難だ。
発信が双方向化していくにつれ、物分かりのいい人は増加している。野党議員や嫌味ったらしい上司、ワイドショーのコメンテーターなど、批判ばかりの大人が白い目で見られていることは、多くの人が感じているはずだ。彼らこそが、周囲に取り巻きばかり残った哀れな批判者である。
さりとて、義憤を封印してばかりいると、冷笑主義者になってしまう。それはそれで嫌なので、ある程度の批判をした上で自分がどうするか、何を学び取るべきか示すことが大事になってくる。
注目のコメント
批判するだけなら誰にでもできます。「代案なく、批判や否定をすべきでない」と私は思います。どうすべきなのか、突き詰めて代案を考えていけば、実は否定しようと思っていた相手の意見にも、一理あると気づくこともありますし。
ワイドショーでも、国会でも、PTAでも、マンションの理事会でも、仕事でも、あらゆる場所にいますよね、批判だけして終わる人。意気揚々と批判して、本人は気持ちが良いかもしれませんが、批判だけで終わってはネガティブな空気を周囲に撒き散らすばかりで、何も生み出しません。批判や否定をするなら「もっとこうしたら」という代案をちゃんと出すべきです。それによって、今度は逆に自分が他の誰かに批判・否定されるかもしれませんが、それを覚悟して自分の意見を堂々と言うべきですね。人は批判的に論じたり書いたりする方が「理知的」だと思ったりするものなんですよね。また批判が「理知的」に見えたりもするから厄介です。
成毛さんのコラムのとおりなんですが、パリッとした批判も必要だとは思いますが、やっぱり提案や対案、ウィットに富んだジョークを打ち出せる人の方が圧倒的に共感されます。
批判に共感する側は、今度はいつ批判される側に回るかわからないものです。
ユニークなこと言える人でありたいと思います。