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従来の教師を憧れの職業にするのではなく、本質的な役割を再定義する。
教える教師、教わる生徒、その画一的なスタイルを変えましょう。
アクティブラーニングなど、新しいものを突っ込んで、教師の負荷をかけるだけじゃなく、本当に必要なことを見極める。
パソコンをばらまくだけじゃなく、学ぶための活用法をちゃんと考える。
まず当たり前のことをやって、そして、正解がない学びを妥協しないで進化させましょう。
1人1台デバイスを配置して、ネット環境を整えても、子どもたちが学ぶには、学びのナビゲーションをする伴走者が必要です。
親がそれを担える家庭で育てば世界中を舞台に選択肢を持てますが、むしろその環境にある人の方が、少数派かもしれない。
敎育は、親以外に近くで子どもたちを見立て、個人、もしくは学級にとって必要な学びを可変的にコーディネートしてくれる人がとても大切です。どんな地方にいっても、それができる先生がいるということが、これまでの日本の教育の最大の強みだったんだと思います。
しかし今は、先生という仕事が選ばれなくなってきています。理由の一つには、この変化の早い時代に、画一的で変化が苦手な集団であるということも、要因かもしれません。
新しい学びをつくっていくためには、これまで「教員の質」と言われてきた前提を疑わなければいけない。例えば、学校で教えたい全ての人に、免許取得のための59単位が全て必要なのでしょうか。様々な業種がそうしているように、学校も多様な経験値を持った人を巻き込めると、風通しが変わるのではないかと思うのです。
「特別免許状や臨時免許状という仕組みがあります」と制度を作る側の方から説明を受けますが、特免は採用側の想像力が必要で、活用実績が少ない。ニーズを持つ側が「どんな人をどんなふうに活用しようか」とイメージすることが難しいのかもしれません。また臨時免許は育休代替とか、免許更新までの一時活用など、あくまで普通免の教員が採用できない場合のための制度として運用されているのが現状です。
現場に「こんな人材が入ったら、例えばこんなことができる」と、現場のリーダーに提案できるような人材プールを例えば国手動でつくり、攻めの姿勢でマッチングし、一定期間でるエラーも寛容に受け止めながら、教育に関わる人の多様性こそを「日本の敎育の質」といえる状態にしていくことが、目指すべき状態だと思うのです
しかし、教員の質を測る基準の議論こそとても大切です。これまでの教員養成の議論は単純に教職課程を延長し、大学院卒を必須にすべきなど乱暴で実効性の低い議論が蔓延していました。そして、全国的に教育系大学の人材育成力に疑問符がついてる中で、それらに頼った施策には反対です。むしろ問題の原因の一つはそこにあります。
そもそもパソコン一人一台の環境になり、EdTech も発展した時代、さらには子どもが将来社会に必要とされる能力観も変化している。
その中でまず問うべきは、この時代の教員の役割であり、存在価値は何なのかということです。その議論をベースに教員の質を測る基準をまず定め直していただきたい。
最後に、教員の人気を取り戻すには、働き方改革と同時にそのベースとなる組織風土改革が重要です。それは保護者や地域も含んでの大きな学校コミュニティとしてです。
思いを持って、新しいチャレンジを仕掛けている先生たちが次々と職場を離れているのは、その人たちの心を折った誰かがいるからです。特に上の世代の方がその現状と向き合ってもらわない限り、現在の問題が解決することは無いでしょう。
教師という仕事は、学校のビジョンや学級のビジョンを掲げ、一人一人の子どもたちのゴールを設定し、信頼関係を構築しながら、一人一人のゴール達成を伴走する役割を担う。
どこの会社でも中間管理職になってはじめて経験できるリーダーシップ体験を新卒で経験できるのだ。
教師こそリーダーシップを育む最高の環境です。興味がある方はTeach For Japan を検索してみてください。
だからこそ、家庭や地域が担っていた機能が学校に押し付けられ、疲弊していることが問題。保護者の学歴も高くなって先生への尊敬が薄れている事情もあり、学校への当たりも厳しくなっています。
この公益を担う職業は本来、最も高給、最も高い地位であってしかるべきで、国の設計としてとらえるべきテーマだと考えます。
デジタルの普及で、先生は知識を教える能力以上に、教え合い学び合いのファシリテーション力が大事になります。このタイミングで先生を育てる方法と処遇を見直すことは時宜を得ています。
何でも学校や教員にお任せしてしまう状態からの脱却が急務です。学校や教員に負担のしわ寄せが起こらないように、行政、地域、家庭、学校、教員それぞれが主体的に担う役割をはっきりさせていく必要があります。
また、教員の質を確保するためには、教員免許の在り方も議論が不可欠です。子どもと関わるための最低限の専門性は必要ですが、学校外との連携が重要になっているので、多様な背景をもつ教員の確保が必要です。特別免許や教員養成の在り方について突っ込んだ議論が必要です。
また、単なる制度的な議論に留めず、社会的なコンセンサスを作る努力も必要です。制度を変えても大人たちの認識が変わらなければ、現場は変わりません。文科省での議論も重要ですが、学校評議委員会やPTAなども使って学校単位で考えていくことも重要だと考えます。
また、学校で教えることが幅広く多岐に渡るようになっていますので、担任性を否定する訳ではありませんが、役割分担を柔軟に取り入れられる仕組みを導入したらどうかと思います。
そして、社会で広く活躍して来た人が、その分野については先生として参加出来たり、地域の方々に行事の準備などに参加してもらい、学校がもっとオープンになると良いと思います。
その為にも、大学の時教員課程を取らなかった人には、生涯教育の一つとして、いつでも学べるように門戸を広げて欲しいです。
これは、地域ぐるみで子供を育てるという仕組みにも繋がりますし、学校や教師に対して一種の牽制機能にもなります。
教師だからと言って、聖人ではなく普通の大人です。社会的にも牽制機能はあった方が良いと考えます。それは、モンスターペアレント防止にも有効だと思います。
本を読んで泳ぎ方を勉強しても、実際にプールで練習しないと泳ぎ方が身につかないのと同じで、先生しか経験していないと実社会の常識などについて経験が不足することが心配です。
いずれにしても、現状のような閉鎖的な村社会からの脱却が喫緊の課題だと思います。
※個人的な見解であり、所属する会社、組織とは全く関係ありません
じゃあその場合、学校は何をするのか。