2020/12/24

【革新の真実】TRON発明者と大手損保CDOが語る「IoTで進化する損害保険」とは

NewsPicks, Inc. Brand Design Senior Editor
損害保険大手の三井住友海上が、米シリコンバレーのインシュアテック企業であるHippo社に360億円を出資し、戦略提携を結ぶことに合意した。Hippo社の企業価値はすでに15億ドルに達しており、シリコンバレーでも特に注目度の高いユニコーン企業のひとつに数えられる。日本を代表する損保会社の一角が、海外スタートアップと組んで何をしようとしているのか。
 Hippo社は多彩なデータとIoTを活用し、新しい火災保険を提供するパイオニアだ。
 同社への出資プロジェクトを率いたのは、三井住友海上の副社長でありMS&ADグループのCDO(Chief Digital Officer)である舩曵真一郎氏である。舩曵氏に提携の目的を聞くため、IoT研究の第一人者であるINIAD学部長の坂村健氏を招いた。
 坂村氏は、携帯電話や車のエンジン制御システム等に幅広く使われているコンピューターのTRONを開発した人物。TRONは、世界中の最も広い範囲で使われている全く新しい概念のコンピューターである。
 世界に先駆けてIoTの活用を提唱した坂村氏との対談を通して、舩曵氏の真の狙いをあぶり出す。

Hippo社に出資した根源的な理由

──本日は、国の名勝に指定される京都・對龍山荘という歴史ある邸宅を対談場所に選ばれました。なぜ、この場所を対談の場に選ばれたのでしょうか。
舩曵 この歴史的に由緒正しい数寄屋造りの建物は、「京数奇屋名邸十選」に選ばれる京都の名建築で、四季折々の風情を見せる広大な日本庭園を有しています。一方で、この對龍山荘が位置する南禅寺は火災に泣かされてきた寺院でもあります。
 焼失から再建まで、15年以上かかったこともあります。こうした貴重な文化財でひとたび火災が発生すれば、同じ形で修復や再建ができる技術を持つ大工さんはおらず、建材も入手不可能なものが多いのです。
 万一のことがあれば、たとえ何億円の保険金を支払っても、同じものを取り戻すことはできません。
 こうした素晴らしい文化財を前にすると、保険金を支払うだけの今の損害保険の在り方に無力さを感じます。
 文化財に限らず、一般家庭でも火災や災害に見舞われれば、どんなに保険金を受け取っても取り戻せない命や暮らし、大切な思い出があるはずです。
1983年住友海上火災保険に入社(現三井住友海上火災保険)。2013年から同社執行役員経営企画部長、2015年から常務執行役員東京企業第一本部長などを務めた。2017年から取締役専務執行役、MS&ADインシュアランスグループホールディングス執行役員として、2018年からはグループCDO・CIO・CISとして、グループ全体のデジタライゼーションを推進。2020年に三井住友海上火災保険の取締役副社長に就任。
我々損害保険会社は、これからの時代、事故の際に保険金をお支払いするだけでは社会課題を解決しているとは言えないでしょう。
 デジタル技術を駆使して事故を未然に防いだり、被害を最小限に食い止めることで、失われてはならない価値を守っていく役割を果たすことが必要だと考えています。
 IoT機器やデータ分析を駆使して住宅火災保険の分野でイノベーションを起こしているHippo社に出資した根源的な理由は、まさにここにあるのです。

住宅にIoTセンサーを設置し、火災や事故の兆候を検知

──巨額出資を発表したHippo社のサービスの神髄は「事故を未然に防ぐ」ことですね。そこに魅力を感じられたということでしょうか。
舩曵 日本では、高度成長期からバブル期にかけて数多く作られた建築物が老朽化し、火災のリスクは高まっています。また、台風などの自然災害が頻発化・甚大化し、屋根が吹き飛ばされるような家屋の被害も急増しています。
 それでも、こうした被害は未然に防げる可能性があります。漏電や漏水はごく初期に発見できれば被害を抑えられますし、屋根の腐食の兆候を検知し、適切な補修ができれば、台風にも耐えられる可能性は高まります。それを可能にするのが「IoTセンサーの技術」です。
 Hippo社は、契約者に無料でIoTセンサーを配布し、水漏れを検知したら自動で水道の元栓を止めたり、窓ガラスが割れると自動通報されて警備員が駆け付ける等の、風災・空き巣の検知サービスを提供しています。
 また、Hippo社はIoTに加え、ビッグデータやAIの技術を活用して、事故を未然に防ぎ、被害を最小限に抑えるプロアクティブなサービスを提供しています。
 スタートアップ企業が、事故後の金銭的なケアだけでなく、事故の予防・減災を実現していることは新鮮な驚きでした。
 近年は、業界を問わず、企業が社会に新しい価値を提供していくための手段として、DXやIoTといったテクノロジーの活用に注目が集まっていますが、防災や減災の観点でも非常に有望であると感じています。

AIで災害を防ぎ、低価格を実現

坂村 さまざまな領域で活用が進むIoTは、現実の空間がどうなっているのかをコンピューターが察知する技術であり、防災や減災との親和性が高いと思います。水漏れや漏電はもちろん、温度や湿度などもリアルタイムで把握できます。
工学博士。専攻はコンピュータ・アーキテクチャ(電脳建築学)。東京大学大学院情報学環教授などを経て、2017年より東洋大学情報連携学部INIAD学部長。東京大学名誉教授。1984年からTRONプロジェクトのリーダーとして、現在のIoTの先駆となる、まったく新しい概念によるコンピューター体系を構築して世界の注目を集める。2003年に紫綬褒章。2006年に日本学士院賞、2015年にITU(国際電気通信連合)150Awardsを受賞。
 もし温度が異常に上昇している家があったら、コンピューターが自動で消防署に通報したり、燃え広がらないようドアを遮断したり、スプリンクラーを作動させて消火するといったことも技術的には可能なはずです。
──それが実現すれば、より安心して生活できるようになりますね。
坂村 こうした技術は決して最近のものではなく、30年以上前から研究されていました。なぜ実用化にここまで時間がかかったかというと、とにかくコストが高かったのです。
 それが最近になってマイクロコンピューターの価格が急激に低下し、無線技術が一般化してきました。IoTセンサーのデバイスも安く提供できるようになったことで、Hippo社のようなサービスが生まれたのでしょう。
舩曵 Hippo社がビジネスを展開する米国は、IoT機器の活用やデータ利活用の面で日本の先を行っています。
 例えばHippo社は郵便番号区域単位で災害リスクを判断するデータに加え、関連企業とAPI連携することで、自宅の修繕履歴や保険事故履歴を参照し、リスクに基づいた合理的な保険料をその場で見積もることができる技術を持っています。
 なかでも面白いのは、衛星から届く「屋根の表面温度データの活用」です。本来は低温であるはずの冬場の屋根の表面に高温の箇所があれば、それは腐食や損傷が始まっているサインであると検知します。
 放っておくと台風が来た際に屋根が吹き飛んでしまう恐れがあります。
 こうしたリスクを事前に通知し、希望する人には修繕業者も紹介する。そのための幅広いパートナー企業のネットワークも持っており、住宅向けの一気通貫したエコシステムによるサービスを目指しています。
 また、Amazonのスマートスピーカーであるアレクサとも提携し、留守中にあたかも家人がいるような、自然な会話を流し続ける機能を提供し、空き巣対策として好評を得ています。
 これらのサービスを実現しているのは、全米トップクラスのAI分析力と、それを活用した保険審査や引受条件・保険料設定の技術です。手ごろな保険料に加え、住宅の事故を未然に防ぐ安心の提供につながっています。
出所:三井住友海上

革新的な技術に投資し、社会を変えていく

──Hippo社のサービスは、安心を提供するだけでなく保険料も安く抑えられるという点で、魅力的です。日本でも同じサービスは実現できますか。
舩曵 IoT技術の活用は、まず何よりIoTセンサーを普及させることが第一だと考えています。当社の加入者にセンサーを配るという方法に加え、ハウスメーカーをはじめとした住宅業界や不動産業界など、業種の垣根を越えた協力が得られれば、そのスピードは加速します。
 さらに言えば、屋根の強度を高めたり、より漏電しにくい仕組みを建設基準に加えるといった取り組みをプラスすることにより、さらに高い効果が期待できます。
 火災や自然災害による被害が起こりにくく、最小限に食い止める仕組みができれば、お客様から頂戴する保険料も抑えることができます。
 新しい技術の導入には個人情報に関する法律や制度の改正も必要になるかもしれませんが、こうした働きかけもあわせて、総合的に取り組んでいく必要があると思っています。
坂村 それは重要なポイントです。米国ではGAFAのようなイノベーションが生まれるのに、日本では少ないといわれますが、それは決して日本人が劣っているからではありません。最大の原因は根本的な法律の考え方が異なるためです。
 簡単に言えば、日本の法律はやっていいことが書いてあって、米国の法律はやってはいけないことが書いてあるのです。こうした環境下では、米国の方がイノベーションを形にしやすいのは当然です。
 このため、米国で生まれた技術やサービスがそのまま日本で展開できるかというとなかなか難しく、そこには法律や制度の多くの壁があり、どんなに革新的な技術やアイデアがあってもスタートアップが単体で社会を変えていくのは難しいというのが現実です。
 そこで大きな役割を担うべきは、大企業です。業界はもちろん、社会に大きな影響力を持つ大企業にしかできないことが、日本ではたくさんあるはずです。
舩曵 当社が果たすべき役割と責任の大きさは、私も痛感しています。一方で、日本の保険会社は代理店網が充実していて、お客様との接点が多く持てるので、住宅に心配な状況がある場合にも相談に乗ったりすることが可能です。
 安心して暮らせる見守りを提供するという新しい役割にも、アドバンテージがあると考えています。
坂村 住宅の事故に遭遇すると、いくら保険金が下りても元通りの生活を取り戻すまでには時間がかかりますし、その間は、自宅が安心できる場でないという心細さの中で不自由を強いられます。
 ましてや火災や自然災害は、人命にかかわる事故です。IoTを活用して事故を未然に防ぐという考え方は心底共感しますし、大手である三井住友海上が、そこに大きな投資をし、チャレンジしていることを頼もしく感じます。

新しいリスクを予見し効率的に極小化していくには

──米国のインシュアテック企業と言えばLemonade社が有名ですね。今年6月にIPOを果たし、3000億円以上の企業価値を生み出しました。今回のディールについて、なぜHippo社を選んだのか、また、事業投資としての魅力を教えていただけますか。
舩曵 2社の大きな違いは、Hippo社は持家、Lemonade社は借家を対象にしている点です。また当社が学びたかったIoTセンサーを活用したビジネスのエコシステム構築については、Hippo社に一日の長があると判断しています。
出所:三井住友海上
 また、Hippo社のお客さまは継続率が非常に高いという強みがあります。Hippo社が創り出す“住宅周りのエコシステム”がその大きな要因です。
 このIoTセンサーから得られる情報が貴重なため、家に関連するさまざまな有力プレーヤーがHippo社の元に集まり、それにより、Hippo社のお客さまにはさまざまなサービスが豊富に提供され、「なかなか止められない=継続率が高くなる」仕組みになっている。
 未来のことは誰にも分かりませんが、今回の投資は額が大きい分リスクも高く、社内外から慎重論も出ました。しかし、たとえ失敗したとしても、そこから得られる価値や知見は決して小さくはないと考えています。
 今のHippo社の技術やサービスが1とするなら、それを10や100に拡大していくことが当社の使命です。その一方で彼らと人材交流することで、ゼロから1を生み出すプロセスやアプローチを真摯に学んでいくことも重要視しています。
 当社は歴史のある企業ですが、持続的な成長を続けていくにはこれまでとは全く違う価値観や文化を取り入れ、コミュニケーションしていくことが不可欠になります。
坂村 これからの社会を変えていける人材に求められるのは“バランス感覚”です。
 最近は「文理融合」というキーワードがよく聞かれますが、世の中を動かしていくには文理だけでは足りず、制度を動かす働きかけができる政治力と、仕組みを設計できるデザイン力を加えた「政文芸理」のバランス感覚が重要になると考えています。
 特に日本では、大企業の中でイノベーションを現実化する力を養うことが、社会をよりよい方向へ導く近道のひとつではないでしょうか。
舩曵 今、自然災害が増加していることに加え、新型コロナウイルスの感染拡大で、社会のリスクは刻々と変わっていることを実感させられました。我々はこうした社会のリスクに対し、常に逃げることなく立ち向かっていくことが求められます。
 新しいリスクを予見し効率的に極小化していくための技術力と発想を磨き、社会に新しい価値を提供できる損保会社であり続けたいと思っています。