2020/12/25

【宮台真司】閉塞した社会で「幸福」を思考する(後編)

 JTがこれまでにない視点や考え方を活かし、さまざまなパートナーと社会課題に向き合うために発足させた「Rethink PROJECT」。

 NewsPicksが「Rethink」という考え方やその必要性に共感したことから、Rethink PROJECTとNewsPicksがまさにパートナーとしてタッグを組み、ネット配信番組「Rethink Japan」をスタート。

「Rethink Japan」は、これからの世の中のあり方を考え直していく番組です。

 世界が大きな変化を迎えているいま、歴史や叡智を起点に、私たちが直面する問題を新しい視点で捉えなおします。

 全6回の放送を通して、文化・アート・政治・哲学などといった各業界の専門家をお招きし、世の中の根底を “Rethink” していく様子をお届けします。

宮台真司 × 波頭亮 日本の思想を再考する

 Rethink Japan、第5回は「日本の思想」をテーマに、東京都立大学教授、社会学者の宮台真司さんをゲストに迎えてお届け。
 モデレーターは、佐々木紀彦(NewsPicks CCO/NewsPicks Studios CEO)と、経営コンサルタント・波頭亮さん。
 波頭さんが初回から投げかけてきた社会や思想への問題意識を元に、現代社会の閉塞感を徹底的に語り合った今回の収録。白熱した議論は、初期ギリシャの思考からテック革命後の未来まで、かつてない広がりをみせた。
 記事の前編はこちら

崩壊を加速させたとき、社会はどうなるか

波頭 どう大学で、若い子に日々教えてるんですか?
宮台 僕は廣松渉の影響受けているでしょ? 廣松渉は、さっき申し上げた意味で粉飾かもしれないけれど、ローザ・ルクセンブルクの影響を受けています。現に、廣松はブント(共産主義者同盟)の東大委員長でした。「ブント」はむろんスパルタクス・ブントから来ています。
 その代表だったローザ・ルクセンブルクは「都市の矛盾を最大化させるために、資本主義を加速させろ」と言っています。
 マルクスの「矛盾の極点で革命が起こる」の一部を取り出し、「だったら矛盾を加速しろ」というメッセージを加えたものです。「徹底的にダメになっちまえ!」という思考。僕はその影響をモロに受けました。
 だから40年前から「どうせダメになるのが明らかならば、加速的かつ徹底的にダメになれ」という立場です。だから安倍政権4期目を望むとか、トランプ政権が誕生すればいいなってずっと言ってきたし、菅政権誕生を心から喜びました。
 この種の思考は今アメリカで「加速主義」と呼ばれ、「新反動主義」と呼ばれる思想クラスタの一部ですが、実は、戦間期のローザ・ルクセンプルクの焼き直し。共通して、「どうせダメになるのが明らかならば」という条件節においてディストピアの到来を告知しています。
 つまり「どうせダメなら」、茹でガエルにならないためにも、適応限界速度を超えて崩壊を加速させた方がいい。これは廣松涉から直接習った思考で、40年間変わらない。
宮台 さて、加速した後にどんな社会になるか。皆さんもそこに関心があるでしょう。ローザの場合は共産革命だけど、米国加速主義者の場合はテック(=ハイテクノロジー)革命です。僕も同じ。共産革命ならぬ、テック革命を志向します。
 クズだらけの社会で民主政ベースの「制度による社会変革」は無理だからです。ただし僕はここ数年「条件付き」加速主義者を自称してきた。理由は、テック革命に2つの方向があるからです。そこで宮台が分岐します。
 テクノロジストを中心とする新反動主義の核をなす加速主義はピーター・ティールからニック・ランドーに受け渡されたもの。ティールは御存知の通り、ペイパル創業者でフェイスブック巨額出資者。学生時代から反左翼を旗印に過激に活動してきました。
 彼はパトリ・フリードマン(元祖ネオリベであるミルトンの孫)とポリネシア政府から領域を借りて「人口洋上国家」を作りつつあります。その理由が問題です。
 彼の考えでは、人間は基本的にクズ。クズが作った法律や制度で社会が良くなるはずがない。だから「制度による社会変革」を信じない。これは北一輝や石原莞爾や宮沢賢治ら主意主義者の思考に通じる。彼らも制度だけでは人は幸せにならないと考えたからです。僕もそう。
 ところがその後が面白い。この人は主意主義者なのかと思いきや、そこに突然、主知主義的・非主意主義的なテックが出てくるんです。「制度による社会変革」は無効でも「技術による社会変革」によって埋められるとするんです。
 具体的にはドラッグとサイバーゲーム。無害なケミカルと、仮想現実や拡張現実のようなゲーミフィケーションがあれば、脳内物質のコントロールで、人はいくらでも幸せになる。
 再配分で豊かになって蓄財や散財の享楽を味わうにせよ、所詮は脳内物質の問題だから、再配分やそれを促す政治がなくても、ドラッグとサイバーがあれば大丈夫でしょ、みたいな。
 そこから先は映画『エリジウム』(ニール・ブロムカンプ監督、2013)に似る。洋上人工国家には、ケミカルとサイバーの選ばれたデザイナー(開発者)が住み、洋上人工国家の「外の世界」にケミカルとサイバーのプラットフォームを提供する。「外の世界」の人々はケミカルとサイバーで幸せになる。
『エリジウム』では「選ばれた者」がスペースコロニーに住み、「選ばれざる者」は治安の悪い不潔な地上を這いずり回るけど、そこが違います。

「幸福」は、記憶と向き合って初めて体験できる

宮台 「ならば、いいじゃないか」というわけにはいかない。確かに、多幸感という意味での幸福は、脳内物質の問題です。でも、そこから先に考えるべき問題がある。
 オウム真理教が問題になった25年前に『朝まで生テレビ』などで語りました。長い苦行で法悦(ニルヴァーナ)に達するのもいいが、所詮は脳内物質の問題だから、電極とリゼルグ酸ジエチルアミド(LSD)で手軽に《法悦》に達すればいいじゃないか、それがオウムでした。
 苦行とLSDは果たして同じか? 違うよ。長い苦行には記憶が付き物で、記憶に裏打ちされた実感が伴う。脳内物質のコントロールに記憶は関係ない。僕らは果たして、記憶と無関係に幸せになって良いのか。これは人倫上の本当の大問題です。
 僕は、幸せは幸せでも、「多幸感」と「幸福」を区別します。ケミカルとサイバーによる脳内物質の操縦が与える「多幸感」と、記憶と向き合いながら初めて体験できる「幸福」とは、違います。
波頭 それで記憶って単語をキーワードに使われてたんだね。わかった。
宮台 放っておくと先に紹介したビジョンが実現します。テクノロジストはめちゃ頭いいし、プラットフォーマーが既に大きなヘゲモニー(指導権)を握っている。政府はプラットフォームの内部に介入できなくても、プラットフォーマー自身は自由自在だ。
「システムの奴隷」としての「鉄の檻における沒人格」に続いて、ピーター・ティール的世界観に基づいて今度は「テックの奴隷」という新たな「鉄の檻における沒人格」になる可能性が間近です。
 どこがおかしいかは価値観の問題です。でもこう言うと分かるんじゃないかな。幸せ・不幸せの話で言うと、今までは「佐々木さんが不幸せなのは、社会が悪いからだ」と言えた。ところが、米国加速主義のヴィジョンが実現すると「佐々木さんが不幸せなのは飲んでるクスリの選択が悪いからだ、やっているゲームの選択が悪いからだ」という風に完全に個人化される。
 これは現に起こっていて、社会学者は「心理学化された社会」と言います。
佐々木 DNA鑑定とかもされちゃうんでしょうね。全部されちゃうんでしょうね。たしかにな……。

コロナ禍で浮き彫りになった「トゥギャザーでいる体験」と「身体性」の重要さ

佐々木 例えばちょっと直近の話だけど、コロナショックとかって何かの気付きのきっかけになるんですか?
佐々木 要するにそれまで、ビジネスパーソンって毎日通勤電車で通って、会社通って、まさしくシステムのど真ん中でそこに浸ってたわけじゃないですか。それが無くなった時にポカーンとなって、色々考えた人も多い気もするんですよね、それってやっぱり甘い考え方ですか。
宮台 甘くはないです。それで、日本でだけ出来なかった産業構造改革ができるようになるかもしれない。OECD加盟国で日本だけ過去25年間も実質所得が下がり続け、2018年には一人当たりGDPが韓国に抜かれ、今は最低賃金も先進国中で最低水準で、シングルマザーは困窮のどん底だ、みたいな話は、それで解決に向かうかもしれない。いいことです。
 でも、価値観という話で強調したいのはその問題じゃない。問題は感情の働き方です。
 大学はリモート授業がメインのままだけど、新入生達がやっぱり可哀想です。今はバイトの口もないし、仕送りもピークの半分に減ったので、地元の実家から授業を受けている学生も多くて、どの大学もリモート授業をやめられません。
 特に新入生にとっては問題が大きいです。大学に入ったのに、サークル活動ゼロ、飲み会ゼロ、教室での雑談もゼロ、生協食堂のグループワークもゼロ。大学に入った気がしないと言います。
 だから僕は時々都会に学生を集めて食事パーティーやりますが、新入生はめっちゃ喜びます。対面と遠隔のハイブリッドで合宿をやると、新入生は殆ど対面を選びます。彼らを見て「あぁトゥギャザーであることがこんなに大切なんだな」って思います。
 ちなみに旧知の仲なら、会わなくても、例えば僕は佐々木さんの人柄も佇まいも分かっているけど、新入生は違う。誰かとトゥギャザーにいて互いを感じられないことが、ストレスになるんです。
宮台 同じことが小中学生にも起こりうるのが大問題です。大学生や高校生ぐらいになると、「あ〜zoomで良かったよ。学校行くの面倒くせぇしな。」みたいな生徒がむしろ多いくらいです。でも、僕んちの子供たちを見ていると、少なくとも小学生まではそうなりません。
 それを見ると、無意味に一緒にいて冗談言ったり喧嘩になったりすることに凄い意味があるんだということ。それが後から効いてくるんだと思います。
 トゥギャザーでいる体験が若い人から奪われる悲惨さが、年長世代に気づかれているかな。年長世代には、記憶の話でいえば、わざわざ会わなくったって、かつてオフィスで働いていた同僚の記憶がある。
 リモートワークになっても──ビットバレー渋谷のオフィスが全てガランドウになったところで──どうってことない。でも、新入社員を含めて未だトゥギャザーになったことない人にとって、トゥギャザネスからの疎外は大きなことだと思う。
波頭 コロナについてはね僕はね、宮台さんのお考えも面白かったけど、僕が思っているのはオルタナティブっていうのを強制的に経験させられて、これもありだなって実感したのはすごく良かったと思う。
宮台 それは間違いない。
波頭 日本ってさ、本当は変わっていった方が良い事、あまりにもなんの合理性もなく、それは資本合理性だけではなくて、人々が幸せになる為の、豊かになる為の、新しい生活を営む為のところに関してあまりにもコンサバで変わらなかったのは、やってみたらこれでもなんとかなるよね。
 だけど、やってみたからわかるかつてのやり方の良い所と悪い所、これここまでは変えた方が良いよねっていうのを色んな事が分かったって意味で良かったなっていうのが感想の一つね。
 もう一個はね、その時に失われて、失くしちゃダメだよなっていうので、宮台さんがずっと、単なる修練・洗練された情報だけでは人間は十全じゃないっていうので「記憶」っていうキーワード使われたけど、それ良いなとは思ったんだけど、僕はずっとAIだったり情報だったりに込められないものって、身体性ってすごく大事だと思う。
波頭 さっきのSEXの話も含めて、身体性ってすごく大事だってきっとみんなわかったと思うの。その二つがコロナのネガティブなデメリットはいっぱいあっただろうけど、その二つは良かったなと思って。だからここから段々段々、with コロナなのかポストコロナなのかわからないけど、再構築、再始動していく時に、その二つを前提により良くしてほしいよね。
宮台 波頭さんは面白いポイント突いておられます。AIが人間の職業を置き換えて行くよという議論は10年ほど前から盛んで、ベーシックインカムがそれに結びついてると話しました。
 身体性について興味深いのは、医者と看護師とどっちが残るかというと、医者は弁護士と同じく知的判断者なので置き換え可能だけれど、看護師を含めたケアワーク総体は身体ワークであり感情労働なので簡単には置き換えられないという予想です。
 身体的・感情的な記憶の履歴が意味をもつ営み──人肌的なものって言ってもいいけど──があるかどうか。そうした営みゆえに生じる「理不尽なれども我行かん」みたいな損得を超えた「内から湧き上がる力」があるかどうか。それによって職業や人のステータスが再編成される可能性があります。
 コロナが再編を速めるのだとすれば良いことです。再編が適切なものであるためにも、茹でガエルにならないように、むしろ再編が加速したほうが良い。
宮台 加速主義的な「全てはテクノロジーに置き換えられる」という発想に抗う橋頭堡(きょうとうほ)の一つは、「それでもオレはAIじゃなく、人間のほうが良い」と思えるものは何なのかが、明確になること。
 既に「人間よりもAIのほうが恋愛相手にふさわしい」みたいなヴィジョンが『her/世界でひとつの彼女』みたいなSF映画で描かれているけど、性愛の記憶がある人間は観た瞬間に絵空事だと笑えます。「身体性なき性愛なんてありえねえ」って思えるからです。
 でも、古市憲寿のように「SEXなんて粘膜の接触と粘液の交換じゃん」みたいに語るような「記憶なき人間」も増えています。だから、AIテクノロジーによる置換の速度が遅いと、「記憶なき人間」の増殖速度に負けるかもしれない。
 古市はプリテンディング(敢えてするフリ)で言っていると信じてあげたいけれど、「生身の恋愛なんてコストパフォーマンス的にありえない」と言うヤツが現に大量増殖しているは無視できません。
 コロナが突きつける最大の問題は、人肌的なもののテクノロジーによる置換速度と、「記憶なき人間」の増殖速度との、せめぎ合いです。
 ヴェーバーの合理化論の延長線上で「もう人間なんて消えた方が良いんじゃね?」って方向にテックを使うのか、「されど人間だろ」って具合に人間的なものをむしろ強調する方向にテックを利用するのか。「人間的なものを消す方向のテック」なのか、「人間的なものを際立たせる方向のテック」なのか、の分岐です。
佐々木 分かれ目なわけですね、今。面白いですね。

損得システムから抜け出す鍵は「アフォーダンス」と「ミメーシス」

佐々木 その中で、宮台さんはやっぱりシステムっていうところで、システムって言葉と法とか損得勘定じゃないですか。ここからどう抜け出すかっていうのが今日の大きなテーマだったと思うんですけど、そこは前も番組でもおっしゃっていましたけど、虫と触れ合うのが大事であるとか今の身体性の話もありましたけど、やっぱりそこにつきるんですか?
宮台 そうです。学問の言葉で言うと生態心理学でいう「アフォーダンス」と、古いギリシャの言葉だけど「ミメーシス」──ミーム(摸倣子)の受け渡し──です。
 アフォーダンスとは、物による呼びかけで自動的に心身が動作することで、ミメーシスとは、人に呼びかけられて感染してしまうことです。どちらも能動態的な選択ではなく、気が付くとそうしているという意味で中動態的です。どちらも心身の能力だから、失われ得ます。
宮台 小さな子供はたいてい虫好きです。でも特に女の子は小学校2年生ぐらいになると「あたし女の子だから虫きらーい」と言うように社会化されちゃう(笑)。ウチの上の二人の女の子はそうなっちゃった。と思っていたら、下の男の子まで「虫じゃねえよ、ゲームだよ」ってなっちゃった(笑)。
 ところがどっこい、虫が沢山いるところに連れて行くと、ガンガン虫取り始めるんですね。劇的な光景です。
「なんだよ、やっぱ虫好きじゃん」と言うと、「虫なんか全然好きじゃないんだけど、カラダが自動的に採っちゃうんだよ」って答えるのね(笑)。これがアフォーダンスです。
「イスがあると座るのは、疲れていて座れる物を探していたから」というのが、昔の心理学の説明だけれど、生態心理学では「イスに呼びかけられて=アフォードされて、イスの力で座った」と記述するわけです。
「原っぱにいる虫」によるアフォーダンス以外にも、アフォーダンスは、無生物によっても、生物によっても、それどころか「他人の身体」によっても生じます。だから、アフォーダンスは「人間的なもの」を考える時の鏡になります。
 例えばSEXの中核はアフォーダンスです。相手の体温や動きや表情や声などによってアフォードされる──相手の体験が自分の内部に再現される──中動態的な体験です。それを僕は「フュージョン系」と呼びます。
 ところが今の若い男の多くは、波頭さんもご存知のように、アダルト映像を見て「これがオレの達成目標だ」となります。そして「どう達成目標に持って行けるか」という具合に目的-手段図式の能動態に閉ざされます。
 だから、女の心身の見えない内部で何が起っているのかにはお構い無しで、自分のプログラムを効率的に進めます。これは損得マシンという意味でクズです。僕は「コントロール系」と呼びます。
 そうしたクズ男が増えれば、「わたしの体験に無関心な男はいらねぇわ」という女が増えるのも当然。逆に男のほうは「コントロールできない女はいらねえよ」となる。これが過去20年間余りの「性愛からの退却」の実態で、ワークショップで手軽に観察できます。観察から、処方箋を構想できます。
 僕らが無生物や生物や人体の動きにアフォードされる態勢を言葉の外側に持てるように育てることがポイントになります。
宮台 次がミメーシス。ウェーバーに戻ると、彼は近代以前の古い社会は「カリスマ的な正統性による支配」と「伝統的な正統性による支配」を交替し続けてきたとします。カリスマとは彼によると「ゲバルトとお金に還元できない非日常的資質」です。
 つまり「波頭さんはすげぇ!」ってことです。「すげぇ波頭さんが言ってるんで、内容が正しいどうか全然わかんないけど、波頭さんが言ってるから従う」というのが「カリスマ的な正統性による支配」です。
 カリスマに触れた時、ラカンの言葉を使うと、人は絶対的な享楽に浸れます。つまり力に触れて力が湧くんです。力が伝染する。だからカリスマとは実はミメーシスの話です。
 それで「よく分からないけど、この人が言うようにやってみたくなっちゃう」というわけです。そうした「力の感染を生じさせる力=カリスマ」こそが、ウェーバーによれば社会の出発点だと言うのです。似た思考が、同時代人エミール・デュルケムの集合的沸騰の概念です。
 でもカリスマを持つ人も死にます。当初は血縁カリスマと言って血縁的な継承者が「力をの感染を生じさせる力」を継ぐけど、代を重ねるとカリスマが衰えて、「昔から皆がやってきたから、内容が正しいか知らんけど、従う」という伝統的正統性に頽落(たいらく)します。ウェーバーの「カリスマの日常化」です。
 でも社会の環境が変われば伝統ではやっていけない。新しい社会が必要です。そこで再び「すげえヤツ」が現れて一切合切が入れ替わる...…。
宮台 言葉を説明すると、正当性 rightness と正統性 legitimacy は違います。正当性は内容の正しさです。1+1=2みたいな。正統性は内容とは無関連な自発的服従契機です。正当性だけでは服従動機の調達機会が少なすぎて複雑な社会は営めません。
 大規模定住=文明以降の複雑な社会を営むには、正当性とは区別された正統性が必須です。内容によって従うのではなく、形式によって従うということです。
 近代社会にもむろん正統性がある。でもカリスマ的ないし伝統的な正統性ではない。そこに出て来るのが「合法的な正統性」です。僕らは合法手続き due process から生まれた決定に、内容とは無関連に従います。
 さて、合法手続きもまた、合法手続きによって決定されたものです。だから、市民革命やその機能的等価物に遡らないと端点は見つかりません。こうして僕らは「合法性の循環」と呼ばれる「鉄の檻」──またしてもコレ──に閉ざされるんです。それがウェーバーの絶望をもたらします。なぜかというと、何処からも力が湧かないからです。
 力が湧いて社会を樹立し、その後は力の残り火で伝統を継ぐけれど、力が減衰してくると、また力が湧いて...…というサイクルが途絶したからです。
 だから「鉄の檻」に適応した「沒人格」つまりボットみたいなクズが、社会の全域に蔓延します。それが「今」です。つまり「ミメーシスの衰滅」が問題なんです。
波頭 そろそろアメリカとヨーロッパと中国まで一緒に三等分ずつしろとは言わないけど、アメリカ一辺倒から少し脱却するタイミングだろうと思うけどね。
宮台 波頭さん、本当に面白い論点です。冷戦終焉後のグローバル化の過去30年、ヨーロッパはアメリカを敵にしています。さっきの保守主義の観点からすると、グローバル化を駆動するネオリベって、記憶のない存在で、クズと同義だからです。
 これは非常に重要なことで、「アメリカのようにならないぞ」という敵認定が力になっているわけ。実は似たところが中国にもあります。中国は大きな国だけど、大きな国では一国だけ──中国の言葉では──資本主義的市場経済ではなく社会主義的市場経済を採用している。
 それを皆からディスられていると被害妄想的に思い込んでいるので、だからこそ「俺たちはどこよりも幸せになるぞ」みたいに、やっぱり周りを敵にしている感覚が凄く強いわけです。その証拠に、各国が躊躇する垂直的な生体監視や信用スコアを、躊躇なく採用します。
 さて日本はどうか。ケツ舐め対象としてアメリカを選んじゃった上で、アメリカが敵だというから中国を敵にする。仮にアメリカが中国と仲良くして「日本よ、お前も仲良くしろ」と言ってくれば中国と仲良くする。最悪のヘタレです。
 中国人はもとよりヨーロッパ人が徹底的に軽蔑しているクズのケツを、クソがついていても舐めるというのは、実にミットモナイ。この方向性の延長線上には何も「よきもの」はない。
佐々木 日本には敵って無いんですかね、今は。
宮台 今はない。かつてはあった。日清・日露戦争に勝ったとき、ヨーロッパとアメリカには黄禍論 Yellow Peril がブームになった。岡倉天心の「武」に対する「美」の対置がアジア主義を最初に起爆したけど、次に黄禍論への対抗がアジア主義をブーストした。
 武力だけの頭の悪い白人種に対し、文明と心を持った黄色人種が対抗し、最終的には世界を制覇するのだと。これが廣松渉にベースを与えた話をしたけれど、かつては長いスパンで明晰に考え抜かれた敵がいました。
 ところが、昨今湧いているのは、経済指標も社会指標も含めた全ての数値データが日本のダメさを示しているのに、「日本すげえ!」と強迫的に反復する神経症です。
 まさにそうした神経症患者の蔓延に象徴される日本人の劣等性こそが原因なのに、「中国と韓国が日本をダメにした!」みたいな自意識の発露としての被害妄想に閉ざされるヘタレぶり。そこには長いスパンで明晰に考え抜かれた敵はいません。無力どころか有害です。
 昔はそうではなかったんです。武に対する美にせよ、黄禍論に対する白禍論(宮台造語)にせよ、「内容的に西欧みたいになったら、アジアは終わりだ」とか「アジアが力だけの文明にならないために、日本人ができることは何か」というところから、アジア主義の思考がでてきたという歴史の流れがあるんですね。
 つまり、神経症的なみすぼらしい敵認定ではなく、長いスパンで明晰に考え抜かれた立派な敵認定が、必要だということです。

近代の行き止まりは必然。その社会で大切にすべきこと

佐々木 あっという間に時間が経っちゃいましたけど、最後に今の波頭さんの論点も含めて、では今後日本にどんな思想が必要なのかっていう、今日のテーマど真ん中でフリップに書いていただいて、最後のメッセージで終わらせてもよいでしょうか。それではまず宮台さんからお伺いしてもよいでしょうか。お願いします。
宮台 「社会という荒野を仲間と生きよ!」
 これは、僕の著作のタイトルでもあるけど、「社会という荒野を仲間と生きよ!」。さっきのウェーバーやハイデガーの話でお分かりのように、近代の行き止まりは、操縦桿を握っている連中が間違えたのではなくて、必然的にこうなったんだというという思考が、とても大切です。必然的とはどういうことか? 
 ヒトには、技術を導いた「近道をするゲノム」と社会を導いた「孤独を嫌うゲノム」があるけれど、技術が発展すると必然的に両方のゲノムが矛盾し始めるのね。
 近道をしよう=負担を免除しようとしてテクノロジーの体系に取り込まれる結果、「人の助けはもういらない、システムさえあれば充分」という風になって人が寂しくなるからです(ちなみに技術には、武術や演奏術のような身体的な技芸と、道具の合理的複合からなるテクノロジーがある)。
 現に、今の日本は在宅死の4人に1人は孤独死です。LINEが途切れた時に誰も訪ねてくれなければ大学生でも孤独死します。孤独死の半分以上が60歳以下の現役世代です。繰り返すと、こういう流れは、誰かが操縦桿を切り間違えたんじゃなく、必然的なものです。
 ただ日本人は、自力で全体を思考できる人が少なく、三島由紀夫的に言うと一夜にして天皇主義者が民主主義者になるほど「空っぽ」なので、どこよりも早く問題が表れただけ。
 再確認すると、「社会がどんどん荒野になっていく」というマクロな流れは今後も変わりません。人をクズにするテックと、人を涵養(かんよう)するテックがあるにせよ、マクロには人をクズにするテックが主流になる他ない。
 でも、「だからどうした! 自分の生き方は変えないぞ、仲間は不幸にさせないぞ」という具合にミクロな伝承線をちゃんと保つことが、各人の「幸福への道」になる。それを深く弁えるのが大切です。特にテックデザイナーに必要な構えです。
佐々木 国全体としてこんな思想が必要とかそういうのじゃなくて、まず個人として、そういう風に仲間をちゃんと作って生きること自体が大事ってことですよね。
宮台 佐々木さん。僕らのエネルギーには限りがあります。社会全体を変えようという構想は、無限のエネルギーがあれば実現できるけれど、結局は期待外れの連続でしょ? それでもへこたれないためには実感が必要です。
 ここまでできるかな→できた→更にあそこまでできるかな→できた→...…というような手応えの連続が、実践の持続可能性にとっては必要です。だからずっとワークショップをやってきました。小さな実践の実績を確実に積むことです。
 例えば、日本のフェミニズムの出発点はリヴ運動で、リヴの出発点は赤軍派などの左翼セクトの内部が男尊女卑の家父長制だったという反省です。ことほどさように、大言壮語する輩を間近で見るとメチャクチャって幾らでもあります。
 だからその逆を行くわけです。「大言壮語は信じず、どんな生き方をしているかだけ見るぞ」という風に、右だの左だのといったショボいイデオロギーでツルむのをやめ、仲間を選別していくことが重要です。
佐々木 わかりました。ありがとうございます。波頭さんお願いします。
波頭 「記憶と身体性 →勇気を以て行動」
 僕もね、最初「国は」っていう話で書き始めたんだけど、今、宮台さんの言葉を聞いて、個人に、視聴者に伝えたいのって、今日僕が宮台さんから聞いてなるほどと思った「記憶」。
 やっぱりこれからの時代大事にしなきゃいけないのって「記憶と身体性」だと思った。身体性を持ってそれで記憶をつくることが自分の背骨を形成していくんだよね。そうじゃないと本当にシステムの部品になっちゃう。背骨と脳の無い。
 じゃあどうやって身体性をともなった背骨になるような記憶を作れるかっていうと、勇気を持って行動すること。とにかく行動。シニカルにペダンティックに対象から距離をおいて見ているだけだったら、やっぱり上手くいかないんだと思う。
 火傷してみたり、転んでみたり、そういう身体性に染み込む、身体性を持って得られる経験で記憶が出来て、その記憶が自分の背骨になるんだよということを視聴者に伝えたい。もうちょっと国民全員が足下を考えるべきだよね。
 単に時代劇観るとかそういう話じゃなくて、本来どういう国なのというのを自省して自覚してほしい。これは社会に対してのメッセージだね。
佐々木 今日、波頭さんいかがでしたか。
波頭 面白かった。あの、なんかこんなこと言うのかえって不遜かわからないけど、そうだ記憶っていうキーワード放り込むと、色んな保守とリベラルだったり、ラディカルとコンサバティブだったり色んなことを説明する良いキーワードだなと思って。寡聞にして僕、記憶でそこを語るっていうのは初めて。
宮台 僕だけかもしれません。
波頭 「記憶と身体性」がキーワードだね。
宮台 そう。実は、両方とも「刻まれるもの」なんですよね。刻まれないところからは何も出て来ない。だから「社会という荒野を仲間と生きる」ことで刻むんです。
佐々木 宮台さんいかがでしたでしょうか。
宮台 詰め込みすぎたなと(笑)。
波頭 そうだね。
佐々木 やっぱり宮台さん何でも話せるんで。
宮台 今日の話は、他の大学では15コマ使って喋っています。
佐々木 早送りでありがとうございます(笑)。
宮台 記憶で言うと、マイケル・サンデルがフリードリッヒ・ハイエク両義性に注目しますが、ハイエクは最初期のリバータリアン(自由至上主義者)で、「記憶のあるリバータリアン」「良きものを知っているリバータリアン」ですが、それが「記憶なきリバータリアン」に代替されていくことで、リバータリアニズムが市場原理主義へと頽落して行ったんです。
 ハイエクは、当たり前だけど、市場原理主義者ではない。市場原理主義者であれば、思想家であることはできません。
 その意味で、リバータリニズムとして一つに括られがちでも、記憶が脱落すると、クラスターの中身が全く別物に変質して、思想だったものが、思想に値しないガラクタになるっていう。それを僕らはサンデルと共に目撃できるんですよね。
波頭 サンデルの名前が出たらやっぱりあげておきたいのは、それこそね、言論的思想家がハイエクであるとしたらそれを上手くアカデミズムとして現実に適用したジョン・ロールズがいてこそ、やっぱり現代の背骨、要するに骨格ができたと思ってるの。
 僕だからハイエクの思想の中でロールズが尊重されるようなのがいいなって。
宮台 ロールズに触れるのならリチャード・ローティにも触れたい(笑)。サンデルやローティの執拗な論駁(ろんばく)に屈したロールズは、93年に「普遍的リベラリズム」を捨てて「政治的リベラリズム」に変わります。
 ローティの言い方だと、ロールズの普遍的リベラリズムは、所詮はアメリカ的生活形式を前提としたナショナリズムに過ぎない。
 ちなみに、ローティは、普遍の看板を取り下げればいいだけで、リベラル・ナショナリズムで充分だとします。
 ところがロールズ自身は充分じゃないと考えて、政治的リベラリズムへと大胆に舵を切りました。簡単に言うと、ヨーロッパやアメリカの自由を尊重する民主政という意味でのリベラリズムとは違っていてもいい。
 君主政治でも神政政治でも、人々が良きものだと思っているものが保存されるのであれば、それでいいのだ、いや、そうでなければならないと。正しい思考です。
 かつてのロールズは「社会を生きるのに必要な最低限の基本財」はどこも同じと考え、「君が俺でも耐えられるか。耐えられないなら制度を変えろ」という立場可換性を全世界で実現すべきだとしていた。
 でも歴史や文化が違えば基本財が違って当たり前で、自由な民主政ないし民主的な自由が必要だと考えるのは欧米社会に埋め込まれている──サンデルの言葉ではシチュエイテッドである──からじゃないか。
 といった文脈拘束性を執拗に主張する人たちに対し、ロールズは「確かにそうだ」として自説を変えた。以降の政治学の主題は、「リベラリズムか、アンチリベラリズムか」から、「一元的リベラリズム(ナショナリズム)か、多元リベラリズムか(コスモポリタニズム)か」に変わった。
 変わったロールズは、各国ごとのリベラルな愛国主義があるとする後者になった……みたいな話はまた機会があれば(笑)。
佐々木 お二人で映像コンテンツ作ったら20本くらい作れそうですね、簡単に。ということで今日はたっぷり語っていただいてありがとうございました。
波頭 ありがとうございました。
宮台 ありがとうございました。
 Rethink PROJECT (https://rethink-pjt.jp)

 視点を変えれば、世の中は変わる。私たちは「Rethink」をキーワードに、これまでにない視点や考え方を活かして、パートナーのみなさまと「新しい明日」をともに創りあげるために社会課題と向き合うプロジェクトです。

「Rethink」は2020年7月より全6話シリーズ毎月1回配信。

 世の中を新しい視点で捉え直す、各業界のビジネスリーダーを招いたNewsPicksオリジナル番組「Rethink Japan」。

 NewsPicksアプリにて無料配信中。

 視聴はこちらから。
(デザイン:斎藤我空)