2021/1/29

【西 和彦】学問の世界に身を置いて、精神の安定を保つ

NewsPicks エディター
若い読者は知らないかもしれない。あのマイクロソフトがベンチャー企業だった1970年代後半、創業者のビル・ゲイツとポール・アレンの傍らに、ボードメンバーとして一人の日本人がいたことを。その日本人こそ当時まだ20代だった西和彦氏だ。

しかし、西氏は経営方針の相違からビル・ゲイツと決別し帰国。アスキーを上場させ、出版、ソフトウェア、半導体、通信事業を拡大するが、バブル崩壊とともに経営が悪化し、社長の座を追われることになる。

波乱万丈な「半生」とその「反省」を語り尽くす。(全7回)

アカデミズムの世界へ

経営が悪化していたアスキーに救いの手を差し伸べてくれたCSKの大川功さんが、亡くなる前に僕にこんなことを言われたことがあります。
「お前は経営者をやるより、学者をやったほうがええんとちゃうか。学者といってもただの学者とちゃうで。大学の経営をやるんや」
大川さんの言葉通り、僕はいまアカデミズムと教育の世界に尽力しています。
西 和彦(にし・かずひこ)/アスキー 創業者、東京大学大学院工学系研究科IoTメディアラボラトリー ディレクター、須磨学園 学園長

1956年神戸市生まれ。早稲田大学理工学部在学中の1977年にアスキー出版を創業。ビル・ゲイツ氏と意気投合して草創期のマイクロソフトに参画し、79年米マイクロソフト副社長に就任。ビル・ゲイツ氏と対立し、85年マイクロソフトを退社。帰国してアスキーの資料室専任「窓際」副社長となる。87年アスキー社長に就任。89年、当時史上最年少でアスキーを上場させる。資金難などの問題に直面し、98年アスキー社長を退任。2001年すべての役職から退任。その後、米マサチューセッツ工科大学メディアラボ客員教授などを経て現在、東京大学大学院工学系研究科IoTメディアラボラトリーディレクター、須磨学園学園長。著書『反省記』
実は僕は1990年代のはじめから、アスキーの仕事のかたわら、東京工業大学の非常勤講師を務めていました。
それまでは普通のエンジニアだったので、授業といってもどんなふうにすればいいのか皆目わからず、最初の授業は90分でパワーポイントの資料を100枚くらい使って話をしたものです。
90分でパワーポイントを100枚使うとどうなるか。内容が濃すぎて、学生が全員寝ます。僕自身もものすごく疲れる。
それでだんだんコツというか、適度な力の入れ方もわかって、20~30枚くらいを使って授業をするようになりました。