パンデミックに際して、私たちはいかに「移動」が現在の社会の根幹となっているかを痛感している。グローバルな移動によってウイルスが世界中に拡散し、都市封鎖や物流を制限すると、世界の経済活動が急激に減速する…。このような社会のあり方をいち早く示していたのが、社会科学において最も注目される研究者の一人であるジョン・アーリだ。

本連載ではアーリが2008年に刊行した書籍『モビリティーズ──移動の社会学』から全8回にわたって、「移動」がいかに社会の根幹を成し、社会を変えてきたかを紹介する。

歩くこととその社会的世界

人が移動する時には、必ず断続的に足で歩く場面がある。後の章で見る大規模な移動機械を利用する時ですら、至るところで徒歩による移動が見られる。
移動の歴史から見れば、歩くことは間違いなく最も重要な移動形態である。そして、今なお、歩くことは他のほとんどの移動形態を構成する要素である。そこで本章では、ほとんどの移動を支えている、この徒歩という移動形態について論じたい。
ジンメルは、いかにして歩くことで地表面に跡がつけられ、時とともに小道の固定構造に凝結していくのかを論じた。小道とは、人びとが日々の生業にいそしむなかでなされる旅の跡の積み重なりを示すものである。
インゴールドが描き出しているように、小道のネットワークは、幾代にも渡って積み重ねられてきたコミュニティの活動を体現している。人びとが自分自身を歴代の人びとと同じ道を辿っていると想像することができるのは、すでにある小道が繰り返し踏みしめられるようになる時である。
また、「モバイル」の語源の一つが「暴徒(モブ)」にあること、さらには、「統治心性」とのつながりにも言及した。
18世紀後半までのヨーロッパでは、外を出歩く者は、浮浪者や荒くれ者とみなされる危険な「他者」であった。歩き回る人間を違法な存在とするような法やシステムが作られた。歩く者は軍の一員でもない限り「他者」であった。出歩かなくても済むのであれば、誰も出歩こうとはしなかった。
そして、出歩く人びとの多くは、多くの場所への立ち入りを禁じられていた(たとえば北京の紫禁城)。不法侵入を定める法はしばしば厳格なものであった。フットパスが設けられ日常的に利用され維持されていた場所でも、慣習的な通行路が存在していたとはいえ、歩き回る権利(散策)はほとんど認められていなかった。
また、何らかの移動システムによる支配がさまざまな社会の特徴をなしていることにも触れた。
たとえば、脚力が「退化していく長い坂道」が始まったのは、象徴的に言えば1830年であり、100万人の英国人が初の大規模な旅客鉄道であったリバプール‐マンチェスター間のイコン的開通を目撃した。
さらに、脚力を脅かすことになったのは自転車や自動車移動といった移動システムであるが、このシステムは、階級、ジェンダー、エスニシティ、年齢、健常/障害関係によって不平等に広がっている。

「歩行」を4つの視点から考える

そこで、本章では、歩行の歴史における数々の契機について検討するが、それは以下の4つの特徴を明らかにする。
第一に、歩行する身体がさまざまなかたちで社会生活を生産し再生産していることである。踏みしめ、その足跡を踏み直すといった身体のリズムは、驚くべき数の生物社会的な営為を生み出している。
ソルニットが論じるには、「歩くことで、小道、道路、交易路が生み出されてきた。ローカルな土地勘と大陸横断的な土地勘が生み出されてきた。都市や公園が造られてきた。地図、ガイドブック、ギアが作られてきた。さらには、巡礼、登山探検、ぶらり旅、夏のピクニックといった歩くことをめぐる無数の物語や詩の宝庫が生み出されてきた」。
歩くことは、時間がかかる場合もあるとはいえ、距離の摩擦を克服する最もありふれた手段であり、田園、郊外、都市における数多の社交の要をなしている。過去2、3世紀に渡って「着座社会」が発達するまで、生活の軸をなすものは、歩くこととしゃがみ込むことを通して経験されていた。
第二に、徒歩の移動は他の移動の土台となり得ること、そしてそのことが人間を他のすべての種と区別するものであるとはいえ、歩くことについて「自然」と言えるものは何もない
多様な環境をまっすぐに動いていく、さまざまなスタイルと方法がある。各々の歩き方には一連の身体技法が伴い、それらは、各人を取り囲み作り上げる世界でのあるべき姿を、それぞれ事前認知的に、さまざまに先どりすることに依存している。
したがって、第三に、数多くの歩き方があり、歩くことは日常のこと(たとえば、買い物)であったり、苦痛の理由(たとえば、強行軍の進行)であったり、快楽に満ちた活動(たとえば、大好きな丘を登ること)であったりする。
このそれぞれが、西洋思想の長い歴史において見られてきた、「足に対する頭」の全般的な支配、すなわち、地に足をつけることに対する認識の優位に疑義を呈するものである。
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歩くことは至るところで見られ、両手の動きと結びついており、歩くことによって、人びとはその物理的、社会的世界に埋め込まれ差し込まれる。歩くことを通して、周りの環境が知覚され、認識され、生きられる。
さらに、とくに奇妙な「近代的」な歩行のかたちとして、歩くことそのもののために歩くことが挙げられる。つまり、自ら望んで、時として危険と不安を感じさせる自然環境へと生身を投じるのである。
そうした絶頂の瞬間に、身体は極限状態に至り、「地球と触れ合い『自然』と一体となる手段、さらには、何かしらの治療効果を有する手段までも」手にする。「歩くことは、心の平穏を回復する手段になる」
最後に、歩くことは、いくつものテクノロジーと相互に依存し合う関係にある。テクノロジーは、歩くこと、とりわけ歩くことそのもののために歩くことに対して、さまざまな発展の可能性をもたらしている。
歩く者は、数々の全般的なテクノロジーと組み合わさり、固有のテクノロジーとも組み合わさることで、さまざまな場所へ、さまざまな速さで、さまざまなスタイルで、歩いて行くことができる。
たとえば、履物をはじめとする衣類、休憩所、舗道と小道、他の移動手段、歩いて行ける場所、移動や通行に関する規則や規制、標識などを考えてほしい。こうしたテクノロジーが、人間身体の能力、たとえば、体力、身長、体重、視力、平衡感覚、触覚などと重なり合っている。
そして、テクノロジーと組み合わさることで、「実際に歩く」、世界に触れる、どのような場所であるのかを知る、さまざまな歩行する身体を生み出す、などといったいろいろな能力が生まれているのである。

街路を歩く

都市の街路は、すぐにできてしまうというよりも、むしろだんだんと舗装されていき、この舗装が歩行の身体技法を変容させている。
18世紀中葉のロンドンをはじめとして、近代社会はその行路を舗装することを学び、そして、都市空間を閲兵場のようなものに変えていった。舗装が歩行の性質に大きな変容をもたらしたのは、かつては「くぼみ、砂利、わだちだらけの通りを、無数の家庭や路傍の商いから生じる汚物や糞便が散らかるなかで」用心しながら歩かなければならなかったからだ。
歩行者たちの出自はあらゆる階級に広がっていたが、唯一の例外である支配層は、自分の足で歩く者たちにその身体を運ばせて、くぼみ、砂利、わだちだらけの通りを抜けていくことができた。
中国の支配層の場合、漢王朝の時代には、運び役の人間が背負う軽い竹製の座椅子に座って旅をしており、後の王朝になると、さまざまな巻物に棒で支えられた木製の運び台が描かれるようになる。支配層の高齢者や女性がとくに乗っていたらしいのが、後の西洋でセダン・チェアー〔駕篭〕として知られるようになったものである。
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17世紀中頃までには、賃貸用のセダン・チェアーがロンドンで普通に見られるようになった。このセダン・チェアーは、馬車よりも道路の空間をふさがなかったこともあって、一般の人びとの間で広がった。これ以外にも、「運搬役」として歩行する人間の例は、スコットランド、ラテンアメリカ、北米で見ることができる。
ところが、1761年の立法を受けて、歩くことに新たな発展の機会がもたらされた。すなわち、ロンドンの豊かな街区の街路は、でこぼこがなくなり、定期的に清掃がなされ、汚水やゴミを気にせずに済み、夜には明かりが灯され、遮るものがなくなり、直線状に配列されることが明文化された。
こうして、周りを見る能力と周りから見られる可能性が生まれたのである。これは一大転機とみなし得る。ここには、インゴールドが近代社会の無接地性(グラウンドレスネス)の増大と呼ぶもの、すなわち、「歩行の経験が足踏み機械を操作することへと縮小してしまうこと」が見られる。
そして、足踏み機械は次第に至るところに見られるようになり、舗道の表面に跡を残さずに、多くの人びとは新たな歩き方でより速くより遠くまで行くことができるようになった。
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このことは、手足を通じて得られる感覚が長い時を経て消えていくというエリアスの「文明化の過程」の分析の一契機をなしている、と考えることもできよう。わたしたちが足跡を残さないのは、小道がすでに舗装されてしまっているからに他ならない。
しかし、舗装することがすべての「歩行者」に新たなアフォーダンスをもたらしはしたものの、そうしたアフォーダンスの大きな特徴として、階級、ジェンダー、年齢、エスニシティによる相違が見られた。ロンドンの舗装された街路は、当初から、都会に住む男がぶらつく場になっていた。
ぶらつくことで、都市はフローの空間に変容し、そこでは、商品が可視化され、陳列され、「消費」されるのを待ち受けている。クラブ、オペラハウス、劇場、アーケードが次々に生まれたことで、ぶらつく男たちが行き来する場所が列状につながる一方で、ロンドンのイースト・エンドにある「向こう側」の場所で「見境のないぶらつき」が、しばしば見られた。
もっと一般的に言うと、独り身の男性歩行者の経験は、新たな近代都市の街路の特性とされるものを説明することの一つになった(ロンドンでは、とりわけブレイク、ワーズワース、ド・クインシー、ディケンズの作品を通して明らかにされることになった)。
ジョン・ナッシュによる19世紀前半のピカデリー周辺地区の計画には、上流階級の買い物・娯楽ゾーンを設けることが盛り込まれていた。このゾーンは、周辺地区を歩き回る人びとに向けて「スペクタクルとしての都市」を作り出す展望を切り開くものであった。
※本連載は全8回続きます
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本記事は書籍『モビリティーズ──移動の社会学』(ジョン・アーリ〔著〕吉原 直樹・伊藤 嘉高〔翻訳〕、作品社)の転載である。