パンデミックに際して、私たちはいかに「移動」が現在の社会の根幹となっているかを痛感している。グローバルな移動によってウイルスが世界中に拡散し、都市封鎖や物流を制限すると、世界の経済活動が急激に減速する…。このような社会のあり方をいち早く示していたのが、社会科学において最も注目される研究者の一人であるジョン・アーリだ。
本連載ではアーリが2008年に刊行した書籍『モビリティーズ──移動の社会学』から全8回にわたって、「移動」がいかに社会の根幹を成し、社会を変えてきたかを紹介する。

社会生活のモバイル化

今日の旅の規模は、途方もないものになっている。他国への合法的な入国者の数は2010年までに少なくとも延べ10億人に達すると推計されている(これに対して1950年は2500万人)。1800年の米国民の一日の移動範囲は平均50メートルであったが、今では一日に50キロメートルにもなっている。
しかしながら、以前よりも多くの時間が移動に費やされているわけではない。かなりの偏差があるとは いえ、どの社会でも、一日の移動時間は一時間程度で推移してきているのだ。また、必ずしも以前よりも頻繁に移動しているようにも見えない。近年の英国における移動の回数は一人当たり年間1000件程度で推移している。実際に「 移動中」となる機会が増えたり、移動に多くの時間をかけたりしているわけではないとすれば、人びとはさらに遠くに、そして、さらに速く移動するようになっていることになる。そして、このことが決定的に重要である。
さらに、さまざまな通信手段が普及しているにもかかわらず、人びとがなおも物理的に移動するのはなぜなのだろうか。移動にはどのような効用と歓びさらには痛みがあるの だろうか。そして移動はどのような社会的・物理的影響をもたらすのだろうか。
物理的に動けることは、富める者にとっても、さらに一部の貧しい者にとっても世界で共通の「生活の手段」になっている。ピコ・アイヤーは、自らを「まったく新たな種族、大陸を横断し放浪 する部族であり、…ラウンジで一休みし、いつも次の出発ゲートに向かっている者」としている。
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皆々がモバイル・テクノロジーを利用するようになることで、何らかの意味で「動いて」いる、 あるいは「家」から離れている経済生活、社会生活が多くの面で変容しているように見える。動的な世界では、物理的移動と通信方法の間に多岐に渡る複雑なつながりが見られ、そして、このつながりが新たな流動性を形成しており、多くの場合、つながりを安定させることは困難である。
物理的な変化がつながりを「非物質化」しているように見える。人、機械、映像、情報、権力、貨幣、理念、危険は「常に動き」、世界中でしばしば急激な速さでつながりを作り、作り直している。
こうした問題を考えるとき、「移動論的転回(モビリティーズ・ターン)」、つまり、経済的、社会的、政治的関係の性格をめぐるこれまでとは異なる考え方が活かされている。SARSや飛行機墜落、空港拡張論争やSMSサービス、地球温暖化やグローバルなテロリズムまで、ここで「移動性」と呼ぶものの問題は、数多くの政策と学術的課題の核心をなしているのだ。
そして、時間をかけ、さまざまな空間を横断して重層的に営まれ組織化されている経済・社会生活が、さまざまなかたちの旅行、交通、通信に対する分析へとつなげられている。世界中に「伸びていく」社会諸関係の複雑なありように関する分析から、新たな理論、知見、方法論が生まれており、それらは、フローの諸プロセスとして、状況に合わせて動的に成立してもいる社会秩序化に対する分析を「動員/動態化(モバライズ)」し、組み合わせている。
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移動の多面性について述べることにしたい。まずは、「モバイル」ないし「移動」という語には4つの大きな意味があることを指摘しておこう。
第一に、モバイルという語は、移動しているか、移動可能なものを指す際に使われる。たとえば、象徴的な存在である携帯電話はもちろんのこと、モバイル・パーソン、モービル・ホーム、モバイル・ホスピタル、モバイル・キッチンといった言い方がそうである。モバイルとは、事物の特性であり人びとの特性である。さまざまな人工装具によって「障がいがあり動けない者」が何がしかの移動手段を獲得しているように、現代の数多くのテクノロジーによって、人びとは一時的に移動することができるような新たな方法を展開しているように思われる。 「ハイパーモビリティ」[Adams 1999]と呼ばれてきたものに対するさまざまな批判を除けば、モバイルという語は、ほとんどの場合、肯定的な部類に属するものである。
第二に、モバイルには、暴徒、野次馬、野放図な群衆を形容するような意味合いがある。暴徒は、まさに動き回り、境界のなかに完全に閉じ込めることができず、したがって追跡と社会的規制が必要であるために、無秩序なものとみなされている。現代の世界は、数多くの新たな危険な暴徒ないしマルチチュード (いわゆるスマート・モブズを含む)を生み出しているように見える。この危険な暴徒は簡単には抑え込むことができず、その統制のためには、既知の場所や特定の境界内でカウントし規制し固定化する、新たな広範囲に及ぶ物理的かつ/ないし電子的なシステムが必要となる[Thrift 2004b]。
第三に、移動には、主流の社会学/社会科学で用いられている意味合いがある。これは、上方ないし下方への社会的移動である。ここでの移動は垂直的なものだ。ある程度明確に区切られた垂直的な地位のヒ エラルキーがあり、個々人は、その親の地位や、階層内での自らの出発地点と対比させて位置づけること ができると考えられている。現代社会がこのように階層を上下する人びとの循環を促し、現代世界を多か れ少なかれ動的なものにしてきたかどうかについては、議論がある。循環の増大は、最上位の地位の数の 変動から生まれているだけであって、階層間の移動の増大から生まれているのではないとする議論もある。
第四に、移動には、さらに移民や半永久的な地理的移動といったもっと長期的な意味合いがある。これは水平的な意味で「移動中」ということであり、とりわけ、「よりよい生活」を求めて国や大陸を移動し たり、干ばつ、迫害、戦争、飢餓などから逃れたりするケースを指すことがよくある。現代社会は、この 意味での移動が多いとされているが、かつての文化を成り立たせていたのは、多くの場合、欧州から、欧州のさまざまな帝国が支配した国々への、そして後には北米への移動である。
本書では、以上のすべての「移動」について検討する。一口に「移動」と言っても、そこにはそれぞれ異なる時間性を有する種々の物理的な動きが見られる。たとえば、立ち止まること、ゆったりすること、 歩くこと、登ること、踊ることから、テクノロジーによって強化された移動、たとえば、バイク、バス、車、鉄道、船、飛行機、車椅子によるものまで実にさまざまである。
本書で検討する移動は、日、週、年単位のものから、人びとの一生涯に及ぶものまで、大きな幅がある。また、マルチメディア上の映像と情報の移動も含まれ、さらには、ネットワークに組み込まれたコンピュータを 通じてなされる一対一、一対多、多対多の通信のなかでのバーチャルな移動も含まれる。
移動論的転回に は、デジタル状のフローを通じて、人びとの交通とメッセージ、情報、映像の通信とがどのように重なり、 同時に起こり、収斂していくのかを検討することも含んでいる。さらに、物理的な移動がどのように上方、 下方への社会的移動と関係するのかも、移動の分析の中心をなしている。物理的ないしバーチャルに場所間を移動することは、地位や権力の源泉、一時的ないし恒久的に移動する権利の表れとなることもある。 そして、移動が強制されるところでは、移動が社会的な剝奪と排除を生み出す場合もある。
※本連載は全8回続きます
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本記事は書籍『モビリティーズ──移動の社会学』(ジョン・アーリ 〔著〕 吉原 直樹・伊藤 嘉高 〔翻訳〕、作品社)の転載である。