「対面指導」崩さぬ文科省 オンライン授業に壁
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この記事を読んでも最後まで、何故ダメなのかが
分からなかった。
なので想像だが、全員がオンラインに出来ない限り、
不平等と言う事であろうか?
そうだとしたら、問題は文科省なのか、それとも
国民の側なのだろうか。
仮に文科省省が踏み出した時、メディアは今度
不平等だと、政府側を批判するのであろうか?
息子が行くアメリカ、こちらは大学では有るが
全てオンライン。
ドイツでのニュースは、もはやテストは対面でないと
いけないのか?の議論が行われている。
また、オンラインででは体験出来ない人との関わり
をどうするのか?と言う既にオンライン中心の
議論となっている。
全員を教室に集めるより、個人が事前YouTube で
勉強し、分からない事をオンラインで先生に聞く
方式の、有効性は広く認知されている中、
国の最も大切な教育の議論が深まる事、
それには、何故出来ないかを、オープンに議論できる
環境が必要だと思う。
批判だけでは、進化は出来ない。「学びに格差が生じる」というのが躊躇の理由とされるとき、いつも思い浮かぶのは
「Equality:平等」と「Equity:公平」の概念の違いです。
“平等”と“公平”の違い
https://prf.tokyo/archives/detail/id=894
「非常事態宣言下でも、こどもたちの学習機会を損なわない」
という目的を据えたとき、
パソコンやタブレット、ネット環境がない子がいるからそもそもオンライン化すべきでない…と考えるのは、平等。
パソコンやタブレット、ネット環境がない子には貸し出しなどの緊急措置をとりオンライン化を進める…と考えるのは、公平。
どちらが良いのでしょうね?
もちろん、そうはいっても現場は相当な混乱の中だとはおもいますが、「非常事態」だからこそ、これまでとは違う柔軟な発想が求められています。
そして「いま現在」を見るのか、「数十年後」を見るのかで、国としてとるべき振る舞いが変わる。これは「先生」という仕事の定義やあり方も変わる。そう思っています。オンライン授業、オンライン診療はwithコロナ時代には必須。文科省や厚労省などの官僚はこれまでの慣習に縛られて柔軟な動くができない。重要なのは政治のリーダーシップ。新しい環境に適応できるかどうかは国力にも直結する。これを良い機会に変えていきたい!