田原総一朗「コロナ禍は“第3次大戦” 今、グローバリズム再考の時だ」〈週刊朝日〉(AERA dot.)
コメント
注目のコメント
ユヴァル・ノア・ハラリ氏の意見には、EU圏内に住んでいるとその国々の対応や分断を肌身に感じることができます。
実感としては、もともと以下課題をはらんでいましたが、この人類VSウイルスという危機に際してその各国の思惑が表面化しているといった方が、しっくりきます。
<今回の危機で、私たちは特に重要な2つの選択に直面している>
1つは「全体主義的な監視」と「市民の権限強化」のどちらを選ぶのか。
もう1つは「国家主義的な孤立」と「世界の結束」のいずれを選ぶのか。
・”中央集権的な監視と厳しい処罰”が市民に有益な指針を守らせる唯一の手段ではない。
・”市民に十分な情報と知識を提供し、自分で可能な限り対応するという意識を持ってもらう”方が、はるかに強力で効果ある対応を期待できる。
・”自国を優先し各国との協力を拒む道を歩むのか、グローバルに結束していくのか(中略)前者を選べば危機は長期化し、(中略)後者を選べば新型コロナに勝利するだけでなく、21世紀に人類を襲うであろう様々な病気の大流行や危機にも勝利することができる。「グローバリズム再考の時だ」
同意。
今回のコロナ禍は、発端から拡散、被害に至るまでグローバリズム社会の弱点を突いた重大なものだった。
最終的にはサプライチェーンの寸断による休業、非正規の解雇という事態に進みつつある。
2000年代初頭は「国際分業」の名の下「高付加価値のサービスを国内で、低付加価値の労働は国外で」等ともいわれた。
しかしそれは労働力の価格の暴落をもたらし、雇用を不安定化させた。結局インテリの驕り、「我々の行っているような活動が優等であり、全国民はこのようになるべきなのだ」という考えが、大きなしっぺ返しを食らっている。食料自給率は低迷し、一度国外からの食料調達が滞ったら、我々は食糧をどこに求めればいいのか。
しかし、佐伯氏の「近代批判」とハラリ氏の「超近代」のどちらが好ましいか、という議論は悩ましい。田原氏は「ハラリ氏の議論に共感」とのことだが。。。
私は率直に疑問を抱かざるを得ない。果たして人間は何の価値尺度も見通しもない世界で生きていけるものだろうか?<市民に十分な情報と知識を提供し、自分で可能な限り対応するという意識を持ってもらう方が、(中略)はるかに強力で効果ある対応を期待できる>というのは、昨今の買い占めパニックを見ていると、単に著者の「願望」に過ぎないのでは、という思いを抱かざるを得ない。
「市民に十分な情報と知識を提供し」ということがそもそも可能なのか、もしそれが国家の支配の道具として為されるのであれば、「市民の自主性」の名の下、無責任な統治が蔓延る結果とならないか、それは「強権的な国家」よりも陰湿で悪質な統治になるのではないか。今の日本の「自粛」のみを求めて国民の安全に全く責任をとらない政府のやり方を見ていると、その危惧も起こり得る予感がする。
また「多国間で協調していく」ことは論を待たないが、今回の中国の感染症対策はその間隙を突いたように思える。一国が無責任な態度で隠ぺいを行い、それが多国間で重大な被害をもたらしたとき、その多国間構造はそれに対して適切な是正措置を取り得るだろうか?
中国は今や世界の工場であり、グローバル経済下、その意向にどの国も配慮せざるを得ない状況だが、今後その多国間主義の真価が試されるような気がする。