相模原殺傷、植松被告に死刑判決 責任能力認定、横浜地裁
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この事件が報道された時、そうとうに怖かった。うちには身体障害のある母がいて、知的障害のある弟がいる。幸い、会社の仲間や地域の人たちに恵まれて、差別という差別はほとんど受けずに生きてきて、普通に仕事もできるし、普通に学校も通えるし、普通に買い物もできる、それが当たり前の環境で過ごしていた。
この数十年で、障害者への差別はなくなったと思い込みがちだけど、まだ差別は世の中から消えていない、と改めて思わされる。「障害者は生きている意味はない、だから殺しても良い」とまで考える人は稀だろうし、行動に移す人はさらに稀な極悪犯だけど「障害者に仕事を任せると、遅いしトラブルがあるから面倒」「どうして仕事をして成果を上げている私たちが割を食わなければならないのか」と潜在的に思っている人は、少なからずいる。
思い返せば、小さな差別は日常で受けていた。家族に障害があるから不動産が契約できない、弟が最初に通っていた作業所ではまともに会話などしてくれなくて閉じ込められるような日々だった、飲食店で食事をしていたらエレベーターが止められて動かしてもらえなかった。でもそれを差別と感じなかったのは、「ただの慣れ」でしかない。少しずつなくなっていくとは思うけど、それでも、今もなお差別は残っている。
でも、それは完全にはなくならないと思う。多様性を認めるならば、思想の多様性もあって然るべきで、根絶することはできない。大切なのは、そこから生まれる攻撃から、どう守るかなのだと思う。裁判所は死刑以外の選択肢はなかったろうと思います。
植松は「生きる価値のない人間は人間ではない。だから殺していいんだ」と主張し続けてきました。徹頭徹尾自己の行為は正義と考えています。忘れてならないのは、植松のように殺人行為は起こしていないけど、自分は正しいと主張し、生産性だのと同じような思考の人間は大勢います。ご遺族の方々の心持ちだとか、社会的な影響を考えるとこの判決は「妥当」と考えることについては共感できます。
ただ、問題の根本的な解決というか、今後のための対策についてはまた別で取り組むべきだと思います。
例えどのような悲惨な環境に身を置いていても、例え何かの影響で歪んだ思考に陥ってしまっても、やってはいけない一線があるのは間違いありません。
ですが、そういった、人を悪に染め上げる仕組みというものが存在しているならば、それを改善しない限り、また同じような事が起こるのではないかと、危惧しています。
特に、人生の絶対的成功パターンというか、逆に言えば一度落ちぶれたら復活しにくい、減点主義的な教育方針や就労慣習によって、努力が報われない環境だとかは、多様性が叫ばれる今でも根強く存在しています。
そういう社会システムの偏りがある限り、この事件は他人事では無いと、僕は考えています。
この世界は複雑系の因果の連鎖。
誰もが、その系(システム)の一部なのだと。
その前提で物事を見ると、個人の単純な善悪の視点とは異なるものが見えて来るのではと。