【中野善壽】あの寺田倉庫「改革の立役者」が明かす規格外の人生

2020/4/19
2011年に寺田倉庫のCEOに就任し、2019年6月に退任するまでの間、富裕層向けの保管業を強化するなど斬新なイノベーションを牽引してきた中野善壽氏。戦後の混乱の中で幼少期を過ごし、個人消費の最盛期に伊勢丹、鈴屋で海外出店などを担った。

1991年に台湾に拠点を移してからは、力覇集団、遠東集団などの要職を歴任。その実績と人柄から、多くの経営者や文化人に慕われる。

初の著書『ぜんぶ、すてれば』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)出版を機に実現したロングインタビューで、“規格外”の「仕事の哲学」をじっくりと語ってくれた。(全7回)

僕の信条

いつでも「無」になれる自分でいる。
常識や過去にとらわれてはいけない。
今日生きることがすべてである。
これが、僕の行動のすべてを決めている信条です。
2011年、古くからの友人だった寺田倉庫創業家の寺田保信さんに、期間限定のバトンを受け取る形で“押しかけ社長”になりました。
中野善壽(なかの・よしひさ)/元 寺田倉庫社長兼CEO、東方文化支援財団代表理事
1944年生まれ。弘前高校、千葉商科大学卒業後、伊勢丹に入社。子会社のマミーナにて 社会人としてのスタートを切る。1973年鈴屋に転職し、海外事業にも深く携わる。1991年、退社後すぐに台湾に渡る。台湾では力覇集団百貨店部門代表、遠東集団董事長特別顧問及び亜東百貨COOを歴任。2010年、寺田倉庫に入社、2011年、社長兼CEOとなり、2013年から寺田倉庫が拠点とする天王洲アイルエリアをアートの力で独特の雰囲気、文化を感じる街に変身させた。2018年、日本の法人格としては初となるモンブラン国際文化賞の受賞を果たす。2015年12月、台湾の文化部国際政策諮問委員となる。2019年6月、寺田倉庫退社、2019年8月、地域や国境を超えた信頼感の醸成をはかり、東方文化を極めたいという卓越したビジョンを持つ東方文化支援財団を設立し、代表理事に。現在に至る。
それから8年ほどかけて僕が行ったことを「大胆なイノベーション」として、数え切れないほどの取材のオファーを受けてきました。出版の依頼も幾度となくありました。しかし、僕はそのことについて自ら語ったことはほとんどありません。
なぜ語らなかったかというと、そもそも自分の実績に興味がないという理由が1つ。そして、何よりも過去を振り返ることが好きではないのです。
過去を語り、過去にすがり始めると、人間はダメになる。今目の前にあることが見えなくなり、進む足を止めてしまう。
いつでも軽やかに、身一つな自分でありたい。
新しい日を迎えるごとに、新鮮な感性で世の中の風景を見つめ、今この瞬間に感じるベストを選択していきたい。

持たない主義

だから、僕は日常生活においても「持たない主義」です。
社会に出てからは、基本、家や車を所有したことがなく、ファッションは好きだけれど、高級ブランドの服や時計を集めることにも興味はない。
周りに余計な心配をかけたくないから、稼いだお金も生活に必要な金額以外は全部寄付する主義です。
今は台湾と日本を行き来する生活ですが、持ち物はいつも小さな鞄1つ。中身は下着と財布、パスポートくらい。
情報に溺れたくないから、スマートフォンは3日で解約。スケジュールには極力、余白をつくり、「感じる時間」を大事にする。
そうやって身軽でいるだけで、感性が研ぎ澄まされ、“時代の声”や“場所の声”が聴こえてくるのです。
例えば、寺田倉庫が拠点を置く東京・天王洲の街は、この10年で様変わりしたと言われます。
寺田倉庫は1950年に政府から委託された米倉庫として創業した老舗の会社です。かつては水運に恵まれた立地を生かして栄えましたが、飛行機や長距離トラックによる物流が普及するとともに、倉庫業としての強みを活かしにくくなり、低迷期を迎えていました。

この会社の「価値」は何か

社長の役目を預かった僕は、全棟合わせて床面積約10万㎡の資産を今この時代にどう活かすべきだろうかと、ただ真っさらな気持ちで考えてみました。
寺田倉庫が積み重ねた歴史をあえて考えず、今日オギャーと生まれたばかりの会社の舵を取るような気持ちで考えてみたのです。
海へとつながる運河を前に、頬に風を受けながら、時と場所の声をゆっくりと聴きました。