【末續慎吾】一流の「楽しい」とアマの「楽しい」の差

2020/3/17
時代の急速な変化は「アスリート」のあり方を変えている。それはビジネスの世界とも同じだ。今、必要なのは古いものと新しいものをブリッジし、新しい解釈と真理を求めること。末續慎吾氏がこれからの時代に必要な「アスリート像」を考える。
私の競技人生のターニングポイントになった日があります。2017年のことです。
その日に行われる大会にすべてをかけていました。チームも私も万全だった。
しかし、雷雨で走ることは叶いませんでした。
それまで雲一つない青空だったのに、走る直前に鳴り響いた雷の音。落ちてきた雨……。
どうにか走れないか。何度も運営と掛け合い、心は乱れました。
あの日のことは忘れません(この話はまたいずれどこかで)。
今、コロナウィルスの影響で東京五輪の開催についてさまざまな憶測や展望が語られます。アスリートの心中を察するにあまりあります。
決して五輪のすべてが正しいとは言いませんが……事態を注視したいと思います。

アスリートの「楽しい」とは何か

さて、ここからが今回のお話です。
スポーツを感情で捉えるとどんな言葉が思い浮かぶでしょうか。
スポーツをする側からすれば、楽しい、苦しい、嬉しい、悲しい……。
スポーツを観る側にも同じように喜怒哀楽があります。
では、この喜怒哀楽は本当に同じものなのでしょうか。
【末續慎吾】「根性」「気合い」という前近代的なモノを捉え直す
前回、「根性」について書かせてもらいました。
アスリートにとって、限界を乗り越えるために必要な要素であること。必ず「(一種、理不尽にも見えるような)厳しさ」があること。論理化が必要であること……。
しかし昨今、この「根性」といった「厳しさ」や「苦しさ」を伴うものは敬遠されがちです。そして(その反動なのか)アスリートにおいて「楽しさ」を追求することに価値が見い出され、その「楽しさ」は「厳しさ」の真反対に存在するもののように用いられます。
あたかも「根性」といったものを「必要のないもの、旧態依然としたもの」として忌避し、合理的に「楽しむ」ことの方が価値がある、とでもいうような。
今回注目をして見たいのは、この「楽しさ」についてです。
アスリートにとって「楽しさ」とはなんなのでしょうか。
例えば「厳しさ」を感じないようにトレーニングをすることでしょうか。
または指導者が、限界を与えなければ成長しないと判断したときに、そこに「楽しさ」を伴わせなければならないということでしょうか。
私の感覚は、そのいずれでもありません。
私が「楽しい」とするところは、“スポーツないしアスリートというのは自己完結的な存在ではない”、ということ。結論から言えば、他人を介在することにある、と思っています。
同じルールのもとでライバルと戦う。自分がこれまで戦ってきた同志への思いを持つ。応援してくれる人たちの存在を感じる。ひいては、社会の中で何かを伝えられる存在になる……。
そこには自分だけの感情で完結させない、第三者性があります。
つまりこの連載で何度も指摘している「三人称」になることにこそ、アスリート、スポーツの「楽しさ」があるわけです。
【末續慎吾】なぜ「10秒の壁」は次々と打ち破られるようになったか
多くのアスリートがコメントとして「楽しんでやりたい」と話すのを耳にします。
(メディアを通す言葉はときに本心でないこともありますが、)この「楽しむ」という感情の意味によって、そのアスリートがプロフェッショナルであるか否かがわかります。
第三者性が備わった「楽しさ」の感覚を持つことがプロフェッショナルである、とも捉えられるからです。
残念ながら自分が「楽しければいい」とか「楽しくやれば勝てる」といった意味における一人称の「楽しさ」は、プロフェッショナルのアスリートには存在しません。
先に触れた現代の風潮は、「根性」といったものが敬遠されるにつれ、プロとは程遠い意味の「楽しさ」をも含んで伝わってしまっているのではないか。私はそう感じています。
では、プロフェッショナルのいう「三人称の楽しさ」とはなんなのでしょうか。「楽しんで走りたいと思います、プレーしたいと思います」と話すトッププロに隠された「楽しさ」の意味です。
2006年アジア大会ドーハ。200Mを走る末続慎吾氏。

イチローさんが「伝える」ことを選んだ

昨年、元メジャーリーガーで、同年4月に現役引退を発表されたイチローさんが、学生野球指導資格を取得した、というニュースがありました。
とても感銘を受けました。
イチローさんほどの結果を残し、求道者として自身の成長に邁進されてきた方が「伝える」ということに意味を見出した。決して、自己完結せずアマチュア世代、つまり未来に残そうとした。それも追求し続けた野球の世界を基盤にして──。
きっとイチローさんは「野球って素晴らしいな」と誇れる競技生活を送られたのだと思います。
私はこの姿勢にこそ、本当のプロフェッショナルの最終形があると思っています。
「野球って素晴らしい」そう思えたからこそ、その「楽しさ」を誰かに伝えたい。
これが三人称です。
同じ比較をするのはとてもおこがましいのですが、私自身もそうでした。
走り続ければ続けるほど、自己完結的な「楽しさ」から、「素晴らしいものの中にある楽しさ」へとその感覚は昇華していきました。
【鈴木誠也】感覚を研ぎ澄ます驚異のトレーニング
スポーツは人を感動させる力がある、と言われます。
それが本当であるならば、まさにこの「人に伝えたい楽しさ」、つまり「素晴らしい」という感情を持ったアスリートの姿があるからではないでしょうか。
私はここに、日本のスポーツ界が世界と伍するときに必要な要素が詰まっていると思います。
いま、スポーツの世界ではドーピングが大きな問題になっています。
東京五輪に向けてロシアに処分が下ったように、この世界には残念ながらドーピンをしてでも勝とうとする者がいます。
それに比して、日本ではそういう世界がありません。勝ちたいという思いが他国より弱いわけではない。
シンプルに、スポーツという聖域を知り、「ドーピングをして勝ったんだ」と子どもに、次世代に胸を張っていえますか? という問い向き合えるだけの第三者性があるからです。
自分が行なっている「素晴らしいもの」に真摯であるからこそ、伝えられないことを“しない”という国民性があるとも言い換えられます。
末續慎吾が考える「これから強くなる」アスリートの条件
もちろん、日本人であってもアスリートの世界ですから清廉潔癖ではありません。
勝った、負けたが存在する以上、“一つの走り”によって“一人の競技者人生”を絶っていることだってあるからです。
でも、そのときにその隣にいた同じ競技者への思いを持って戦える強さが日本にはあります。
また、自分自身が勝てないまま終わってしまっても、それを乗り越えるための方法を次世代に伝えようとする姿勢もあります。
私たち日本人はそれを繋ぎ続けてきました。
そうして「道(みち)」ができ、「道(どう)」となってきたわけです。
日本はこうした精神性が世界に比してとても強いと思います。リレーや駅伝といった「繋ぐ」競技が発達したことは、その証ではないでしょうか。

日本人が持つ「第三者性」と世界

前回も指摘しましたが、世界と戦っていると(ヘビー級とモスキート級レベルの)あまりに圧倒的な差に途方に暮れます。
現代は、テクノロジーや理論が発達し、その伝達速度も広さも大きくなりました。こと世界と比べても「走る理論」については、遜色ないといえます。
だからこそ、そこに私たちが繋ぎ続けた競技の持つ第三者性、「道」といった精神性を加えていくことで、世界のトップアスリートにも勝てるようになるのではないでしょうか。
これは海外の多くのトップレベルの選手にはないものだと思います。もちろん、違ったルーツはあるでしょうが、戦ってきた肌感覚で言えば、彼らに第三者性を感じることはほとんどありませでした。
一方で100M、200Mの世界記録保持者であるウサイン・ボルトには我々と似たような思考があるようにも感じます。
彼は、身体能力を持ちつつ、論理性を兼ね備え、そして伝えるということに対しても他人から期待されることに対して「自分だけの走りをすればいい」という選手ではありませんでした。
つまり第三者への期待に対して応えるための行動をしていた。
だから強かったのだと思います。
アスリートには「道」があります。
素晴らしいと思える「道」です。
この道にはさまざまな感情が存在しています。「楽しさ」も「厳しさ」も。変な言い方ですが、この「道」の中にある根性や気合いといったものもどうしても必要になってきます。
決して過去のものを礼讃したいわけではありません。
「道」の上に現代的な素晴らしい進歩を重ねていくことこそ、これからのアスリートが強くあるために不可欠なものだ、と思うのです。
(構成:黒田俊、デザイン:九喜洋介、写真:getty image)