「イラン系日本人」の私がイランでラーメン屋を開きたくなった理由 | 『ふるさとって呼んでもいいですか』著者ナディに聞く
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注目のコメント
自分がイランに行って、知らないイラン人から優しくされたら、この記事をもう一度読み直してみたいと思いました。
どうでしょうね、同郷の人間だと認識されるかされないかの違いのような気もしますが、それはあまりにも捻くれているのでしょう。
一つ、自分に最近あった出来事を話しましょうか。
日本のあるラーメン屋さんに母と私と10代の弟2人の4人で夕食を食べに行った時に、既に店内でおばあさんが1人ラーメンを食べていたのですが、私達がテーブルに着いたとたんにビール瓶を4瓶が置かれて、あちらのおばあさんからですと言われました。
急で驚きましたが、おばあさんのお気持ちという事でまだお酒の飲めない弟達の分も私が飲ませていただきました。あまりにも斬新なおもてなしでしたが、非常に心から暖かくなるものがありました。
記事に出てくる日本は非常に心の狭い所ですが、まだまだというか見えていないだけでかなり多くの人の暖かみが日本にはあると思いますよ。逆の立場で外に出ていますが、アイデンティティを確立する上でも、日本の外から日本を見る経験は重要だなと感じます。
本当に日本を愛することができますからね…ナディさんにこう言ってもらえただけでほんとに本を書いて良かったなと思います。ナディさんの『ふるさとって呼んでもいいですか』、とてもいい本なのでぜひ年末年始の読書に。
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外国人に向かって「努力が足りない」とか「家でなんで日本語教えないのか」と言っても解決にはならないと思います。むしろ、日本社会はその外国人たちと「挨拶してますか」「交流してますか」という問いかけのほうが大事ではないでしょうか。
社会が「外国人嫌だ」という雰囲気を作ってしまったら、その先、日本人と外国人の関わり合いは減る方向にしかいきません。
私のほうも、外国人が不良だったら「国に帰れよ」と言われるので、とにかく良い子でいなきゃと思っていました。それは大人になってからも同じで、「私は求められていないんだ」「日本を良くしたいと思っても、そういうことは言っちゃいけないんだ」と思っていたんです。29年も日本にいたのに、です。
でも望月優大さんの『ふたつの日本──「移民国家」の建前と現実』を読んで変わりました。どこにいても、誰にでも、人権があり、感じたことを言ってもいいんだと知ったんです。
すべては社会のあり方次第なんだ、それがいま言いたいことです。みんなが「自己責任」で「もっとやれよ」という社会より、「がんばったね」「元気?」と言い合える社会のほうが、大人も子どもも過ごしやすいと思いませんか。そんな社会が人を育て、心のゆとりを生むと思うんです。