なぜ「分断」と「空気」が、世界のアジェンダなのか
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書きました。意外にも「分断と多様性」は遠いようで、近い概念なのです。皆さんは両者の違いをどう表現するでしょうか?
私は、それは「移動があるかどうか」だと思っています。より正確にいうと、移動がない塊は分断であり、移動がある塊は分断ではない、ということです。
言い換えるならば、社会が真の意味で分断しているのか、それとも分断していないのか、というのは、この移動が発生しているかどうか。より正確にいうと、異なる価値観を持った人たちが移動しているかどうか、で判断できる、と感じているのです。「分断」と聞くと、黒人差別をイメージせずにはいられません。
というか、黒人差別こそその言葉を表す最も適した事例ではないでしょうか。
そして、多様性と分断の違いは、多様性とは「ある状態」であり、分断とは「する事」だと思っています。
もう少し言えば前者は事実であり、後者は誰かの意思によってなされることかと。
なので世界が分断されていると感じる時は、その背後に誰の意思があるのか、誰が誰を分断しているのか、その理由はなんなのか、を考えることが重要だと思います。
なお、この記事では分断を心理的コストが生み出すとし、会社組織の中の例と絡めていますが(その考え方自体は違和感はありません)、重要なのは「誰にとっての心理的コストなのか」という部分だと思います。
つまり、自分自身が分断に関わっていないか?という問いが重要だと思うのです。
分断される側も相手を分断していることってあるでしょうから。グローバルにおいて”多様性”は分断にも統合にも使える言葉なのだと思っています。ただ、日本の場合は、分断の文脈になってしまうことが多いのはその通り。なぜなら歴史を通じて、徐々に多様性がコストという認識を持つように社会を設計してきたるから。
適切な移動コストをお互いに払えるのかどうか?また、移動コストを担保できる安心感があるか?といったところが今の日本の課題なのかもしれませんね。
また、採用や離職率だけでなく、経営マネジメント上、心理的な”求心力”と”遠心力”の使い分けを意識しています。偏ると本当に多様性だけでなく変化にも弱い組織が出来てしまうと感じています。