【中島イシレリ】「嫌だった日本の習慣」を改善した日本代表

2019/11/11
ONE TEAM(ワンチーム)――。先のラグビー・ワールドカップで日本の躍進を支えたこのチームスローガンは、言葉どおり、チーム(組織)がひとつになることの大切さをストレートに伝える、強烈なメッセージでもあった。

前回、廣瀬俊朗が指摘したとおり(『ラグビー代表が見せた「多文化共生」の強さ』)、ラグビーの持つ精神や外国人選手をはじめとした「多様性のある集団であったから」こそ実現したものである。

実際にプレーしていた選手たちもそれを実感している。

「yeaboii」(イヤボイ)の掛け声で話題をさらった中島イシレリ。金髪ヘアがトレードマークの30歳は、1年前から日本代表に召集。今ワールドカップでは、途中出場ながらPR(プロップ)として全5試合に出場。躍進を支えた。

その中島は今回の代表チームについてこう言った。

「今回の日本代表の姿、これこそがONE TEAM。ONE TEAMは兄弟、いや家族。ファミリーなんですよ。みんながチームのために言い合い、助け合い、そして協力し合う。それがONE TEAMなんです」

かつて「トンガ代表を目指していた」と言う中島イシレリは、なぜ日本代表として誇りを持てるようになったのか。今回の『ONE TEAM』はどんなものだったのか。

中島イシレリから見た『ONE TEAM』を前後編で紹介する。

家族が繋いだ日本との縁

現在30歳になる中島が日本代表デビューしたのは昨年11月。
遅咲きだが、日本への来日は早く12年前にさかのぼる。流通経済大学ラグビー部の内山達二監督のスカウトによってトンガからラグビー特待生として来日した。
そもそも「中島イシレリと日本」の出会いは運命的だった。ある偶然の出会いがなければ、おそらく中島は今でもニュージーランドでラグビーをしていたはずだった。
「そうそう」と頷きながら、中島は破顔して当時を振り返る。
「僕が高校3年生のときですね。内山監督が初めて、ラグビーのスカラーシップ(奨学金)でリクルートができるようになって、トンガに来たんです。50人くらい候補選手が選ばれて、そのうちひとりしか行けなかなったんですが、僕はその中に選ばれていなかった。僕はニュージーランドにスカラーシップで行くつもりだったからです」
当時からラグビーはしていた。もっと上を目指すためにニュージーランドでプレーしたい、というのが中島の思いだった。一方で、流経大の内山監督は、候補の50人から選手をスカウトしようと考えており、そこに「中島イシレリ」の名はなかった。
しかしーー内山監督がトンガに滞在していたホテルで、中島の祖母と遭遇したのだ。
「僕のおばあちゃんがホテルで働いていたんですよ。マネジャーとして。そこにたまたま、内山監督と代理人の人が泊まっていた。ちょうど僕がいた(リアホナ・ハイスクール)高校のラグビー部が強くなっていて、おばあちゃんもずっと僕のことを応援してくれていたから、『うちの孫、ラグビーやってるよ。デカいですよ。 どう? 会ってみない?』って言ったみたいで。それで監督が『会ってみたい』って言って、それで家に来たんですよ」
1989年7月9日生まれ。トンガ出身。高校卒業後に来日し、流通経済大学ラグビー部でプレー。その後、トップリーグで活躍し、2018年8月には日本代表に初選出。ワールドカップ日本大会でもベスト8進出に大きく貢献した。神戸製鋼コベルコスティーラーズ所属。
中島と内山監督との初対面は朝だった。中島がちょうど学校に出ようとしたとき、内山監督が訪れたのだ。そして、身長186センチ・体重120キロのイシレリ少年を見た瞬間、内山が言った。
大きな声で「あっ、彼を取りたいです!」。
中島が回顧する。
「朝、急に来て、監督が僕のことを見た瞬間、「あっ!彼を取りたい!」って言って。自分のプレーを一切見ていないのに。50人にも選ばれていないのに(笑)」
内山監督の一目惚れだった。
それに対し、中島は「考えておきます」と言い残して学校へと向かったのだが、ニュージーランドへの思いは変らなかった。
「だって、そのとき日本のこと知らないもん(笑)。日本は中国と一緒で、ビジネスの国だと思っていた。スポーツをするイメージなんてなかった。だからニュージーランドに行きたくて(笑)」
日本に行くべきかどうか――。
中島が頭を悩ませている最中、内山監督からは何度もメールで連絡があったという。そこで熱心に日本行きを勧めたのが、中島の父親だった。
「でも、お父さんが日本に行ってきなよって。
えっ、僕、日本のこと、なにも知らないよって言ったら、日本はいい国だよって。みんな優しいよって。お父さんは頭がいいから、会社を作っていろいろやってて、それで日本のことを知ってたんですよ。
ラグビーもできるし大学も入れるよって。でも、僕は大学に興味がなくて、ラグビーがしたかった(笑)。それでちょっといろいろな人に話を聞いた。昔のトンガのラグビー選手にも話を聞いたら、日本でプレーしていたよって。
そこで日本にもラグビーあるんだって分かった。いろいろ話してちょっと行ってみようかなって思って」
家族会議の結果、ニュージーランドではなく日本行きを選んだ中島。
監督の内山にそれを伝えると次の週にはトンガに挨拶にやってきたと言う。
「次の週、すぐだよ。すごいよね、うれしかった」

日本のラグビーに馴染めなかった

内山監督とともに飛行機に乗り成田空港へと降り立った中島は、当時のことをよく覚えている。
「日本に来るとき、荷物を持たずに、ハーフパンツにTシャツにサンダルに来たんです。そのとき冬で、めっちゃ寒かった。
飛行機の中は暑くて、暑い暑い暑いって思ったら、外に出たら寒いー(笑)。(季節外れの服装だから)なんか周りにめっちゃ見られてた。今考えれば、よくそんな格好で来たなって(笑)」
ともあれ、日本での新たな生活が始まった。周囲の協力もあってホームシックにかかることはなかった。「走ってばっかり」と思っていたラグビーも、試合になれば楽しい。
目標はトンガ代表になることだった。
「トンガ代表になりたいっていう思いは、高校生でラグビーを初めたときからありましたね。でも日本に行ったら、やっぱり目標とか変わっていった。日本に来ても、トンガ代表に声をかけてくれるかなって思ったけれど、全然声がかからなくて(笑)。で、日本代表に呼ばれてそっちに行った」
トンガ代表になりたいという夢をずっと持ち続けていたのは当然だった。
中島の祖父は、トンガ代表の伝説的プレーヤー。7人兄弟の長男であるイシレリは、その祖父の名前を受け継いでいる。
「代表のキャプテンと、監督もしていました。その弟も一緒にやっていました。写真では見たことがあるけれど、なんかみんなめっちゃ凄かったらしい。ナンバー8やって、フルバックもウイングもやっていた。オールマイティ。でも、僕は足が遅くて。なんでじゃろ? みたいな(笑)。
身体の大きさはおじいちゃんに似たんですけど。あれ、おかしいぞ、お爺ちゃんはもっと足が速かったのにって(笑)。俺の名前、イシレリはおじいちゃんの名前と同じ。おじいちゃんが付けてくれたんですよ。イシレリという名前は、親族の中に何人かいるんです。でも 僕だけラグビーしているんですよ」
おじいちゃん譲り、規格外の体躯を武器に、大学1年生から試合に出場した中島だが、ずっと日本のラグビー文化に馴染むことができなかった。
日本の部活文化特有の“上下関係”という、しきたりだ。
「先輩と後輩の関係。上下関係ね。あれが嫌いでした。後輩のアイデアを取り入れてくれない。トンガはそういうのはない。逆に、先輩が後輩のことをちゃんと聞いてくれる。でも大学ではそうじゃなかった。
例えば、試合中に先輩がダメなプレーをしていたとしても、僕からもっとこういうプレーをしたほうがいいって言えなかった。言っても怒られる。言ったらケンカになるし、みんなも見ているし。
だから、できるだけ優しい言葉をかけるようにしていた。はい、分かりましたって。すごく気を使っていました」
最終学年を迎えた中島は、その“上下関係”をなくすことに努めた。オープンマインドの精神をもってチームをひとつにまとめ、流経大を関東リーグ初優勝へと導いた。
「もちろん先輩後輩の関係は大事だけど、ラグビーには必要ない。ラグビーはチームで戦うから。上下関係は必要ない。僕が4年生のとき、流経大が強かったですよ。4年生ばかりだったけど、後輩も何人か出ていた。
でも彼らにプレッシャーはかけない。ミスしても、次、次って、怒ることはしなかった。だから、それでいいチームができたのかなって。そういうチームにしたいって、入ったときからずっと思っていて、自分が4年生になってやっと実現できてよかった」
大学時代、上意下達のチームからの脱却をはかった経験を持つ中島。
そこには、まさに「ONE TEAM」の精神が宿っていた。
「ONE TEAMとは、大学の頃みたいに、上下関係に気を使うみたいなことはない。先輩と後輩の関係なんてない。グラウンドの外ではもちろん別だけど、グラウンドに入ったら関係ない。
先輩だろうと後輩だろうと構わない。トレーニングが終わったら、ラグビーのことは外に持っていかない。
練習とかで仲間と喧嘩しても、練習が終わったら普通にみんなと仲良くする。ラグビーはお互いに言い合えないと、いいチームにはなれない。いい勉強にもならない。
今回の日本代表の姿、これこそがONE TEAMですよ。ONE TEAMとは兄弟、いや家族。ファミリーなんですよ。みんながチームのために言い合い、助け合い、そして協力し合う。それがONE TEAMなんです。言いたいことを言う。だから、ONE TEAMになれた」
1989年7月9日生まれ。トンガ出身。高校卒業後に来日し、流通経済大学ラグビー部でプレー。その後、トップリーグで活躍し、2018年8月には日本代表に初選出。ワールドカップ日本大会でもベスト8進出に大きく貢献した。神戸製鋼コベルコスティーラーズ所属。
※明日に続く
(執筆:小須田泰二、デザイン:九喜洋介、松嶋こよみ、写真:花井智子、ゲッティ)