【プロ野球FA制度検証】選手全体の平等か、実力主義か?

2019/11/14

西武の「FA反対」で慌てた球界

 1993年にフリーエージェント(FA)制度が誕生してから2018年までの25年間で、最も多くの“流出者”を出している球団が埼玉西武ライオンズだ。古くは工藤公康や清原和博という看板選手から、近年では涌井秀章や岸孝之の両エースまで、計18選手がFA宣言して新天地を求めている(2018年シーズン終了時)。
 実はFA制度が導入された直後から、西武は主力退団の可能性が指摘されていた。同制度が最終合意されて1週間後、1993年9月28日付の日刊スポーツは一面で「工藤(公康)を筆頭に伊東(勤)、石毛(宏典)、鹿取(義隆)、平野(謙)、中尾(孝義)(吉竹(春樹)も今オフ取得可能)と大量のFA有資格選手を抱える西武は、他球団の『草刈り場』となる可能性を秘めている」と指摘している。
 こうした事態を最も恐れていたのが、西武の元オーナー・堤義明だった。
「堤さんが反対に回ったのは、自分たちの主力選手がFAになってとられちゃうからです」
 1993年シーズンがもうすぐ開幕を迎えようとする頃、堤が突然反対に回った理由について、日本ハムファイターズの球団代表を務めていた小嶋武士が説明する。堤の突然の変心は、“その後”に少なくない影響を与えた。
「予定外で、みんな慌てたと思います。これでは揉め出すということで、セ・リーグ側は中川(順)委員長がFAの導入を強引に発表した。コミッショナーもそういう観点でいましたからね」(第3回参照)
【証言】「裏金時代」にできたFA制度の思惑
 1993年5月14日、諮問委員会である「FA問題等研究専門委員会」で委員長を務める中川順(テレビ東京会長)は野球機構実行委員会の原野和夫議長(パ・リーグ会長)にFA制度の答申書を手渡した。パ・リーグが詳細に合意していないなか、中川は強引な行動に出た。
「中川委員長はかなり個性的な人でした。当時の東京12チャンネルという三流と言われたテレビ会社を一流に育てて、民放連の会長までやった人。相当強引なところもあったし、『拙速でもいいから行こうよ』という性格の方でしたね」
 メジャーリーグに精通する有識者としてFA問題等研究専門委員会に招聘された慶應義塾大学法学部教授の池井優は、中川についてそう語っている。
 そもそもなぜ、中川が委員長に任命されたのだろうか。小嶋はこう見ていた。
「おそらくナベツネ(渡邊恒雄)さんと吉國(一郎)コミッショナーが話し合ったんじゃないですか。川島(廣守=当時のセ・リーグ会長)さんあたりが間に入って。突如として中川さんの名前が出てきたから。それに対して誰も異議を唱えられない。(コミッショナーから)名前を出されて、諮問委員会を招集しますって」

選手に伝えられていた「導入ありき」

 球団側が水面下で駆け引きを行う一方、まだFA制度の詳細が固まらない頃から、選手には“導入ありき”で伝えられていた。
 1993年シーズン序盤、日本プロ野球選手会の会長を務める岡田彰布は、球団サイドの交渉窓口を担った中日ドラゴンズの伊藤濶夫球団代表に名古屋のホテルに呼び出されている。ちょうど当地で中日戦を控えていた。
「二人で会って、とにかくFAをやろうと。細かいことはこれから詰めるみたいでスタートしたと思う。(それ以前の交渉は)全然参考にならなかったんや」
 日本プロ野球選手会が労働組合として認定された翌年の1986年、元巨人の選手だった大竹憲治は事務局長に就任した。
 プロ野球の「選手会」と言えば、多くのファンには2004年の球界再編騒動の際、スクラムを組んで球団オーナーたちと戦った印象が強いだろう。
 だが当時から20年近く前、大竹の就任時の状況はまるで異なっていた。
「僕が選手会で働いている頃、選手たちは役員になりたがらなかったんですよ。球団に睨まれたくないから。自分たちの権利を守りたい、地位を向上したいというのがあっても、それを表に出せなかった」
【検証】「FA制度」では、なぜ悪者が生まれるのか?
 当時、労働者であるプロ野球選手の権利は現在よりはるかに弱く、オーナーや球団に意見するのは容易でなかった。それを何より物語る出来事として、1986年シーズン終了後にはヤクルトスワローズの選手全員が選手会を脱退するという事態が起こっている。その裏で囁かれたのが、オーナーの松園尚巳による“圧力”だった。
 当時の選手たちは地位向上、待遇改善を望んでも、自ら動こうとする姿勢はほとんどなかった。それはFA制度をめぐる交渉でも同じで、大竹の記憶によれば、選手会長の岡田が球団サイドと交渉したのは2、3回しかないという。
「選手たちは試合が最優先ですから。(交渉には)あまり関心がなく、『任せます』と。こっちにしたら、『ああだ、こうだ』と言われるより楽なんですよ。だけど、本来はそうではないでしょう。自分たちがやるべきことを我々が代行してやっているんだから、ちゃんとした意見を聞かせてくれないと困る」
 岡田の前任だった原辰徳会長の下で選手会がFA制度を提案した1991年12月、その骨子は以下の通りだ(1991年12月3日付の読売新聞「きょう3日からプロ野球選手会臨時大会 『フリーエージェント』要求」より)。
<1>いずれかの球団に通算7年(21歳未満での入団者は10年)以上在籍し、その間、5分の1以上の公式戦に出場するか、2分の1以上の公式戦に一軍登録されていた選手は特別資格選手の資格を取得する

<2>特別資格選手は、11月20日までは、所属球団とのみボーナス支給を含め、交渉できる

<3>11月20日までに契約を結ばなかった時は、フリーエージェントとなり、どの球団とも契約を結ぶことができる

<4>ボーナス選手かフリーエージェントの権利を行使した選手は、以後、3年たたないと、再び特別資格選手の資格を得ることはできない
 しかし球団サイドは「財政的にゆとりのある特定球団に有力選手が集中する」とし(1992年1月25日毎日新聞大阪朝刊「[HOW]プロ野球フリーエージェント制前進、選手縛る統一契約書見直しに意義」より)、「まずはできることからやろう」と“一軍半”選手に限って対象とする案を出した。
 それに対して選手会は1992年12月1日の臨時大会で、「要求はあくまで全選手を対象としたFAだ。一年間の協議期間中、約束通り、選手会は静観してきた。その答えがこれでは、答えになっていない」と再検討を促した(1992年12月2日読売新聞「『FA』実現へストも辞さず 1軍選手対象をあくまで要求/プロ野球選手会」より)。
 選手会と球団側はなかなか折り合いがつかなかったが、少なくとも実現に向けて両者は交渉を続けている。大竹によれば、FA制度実現へ、一気に進んだターニングポイントがあったという。
「球団側がバーターを言い出してきたんですよ。70人枠です」
【高橋由伸×上原浩治】お互いの引退、そしてプロの矜持

なぜ70人枠が必要だったのか

 現在、プロ野球の支配下登録選手は各球団70人だ。1991年のドラフトから、60人枠は70人枠に拡大された。
 球団サイドの提案に当初、選手会は反対していた。その理由を大竹が説明する。
「(当時提案された70人枠では)選手を1軍の40人と2軍の30人に分けて、1軍メンバーとして登録できるのは40人枠の中から28人。残りの12人はケガなどの交換要員です。何かあったら、この12人から1軍メンバーを選ぶ。そうすると30人の中に入った選手は1軍に行けないわけです。だから選手会は、その条件に対して『NO』と言いました」
 対して球団側は「70人枠を受け入れないなら、FA制度の導入も認められない」と主張した。
 両者の交渉が暗礁に乗り上げるなか、選手会長の岡田は同事務局長の大竹に対し、「12球団の選手会に、球団の案を受け入れるか、受け入れないか聞いてくれ」と頼んだ。大竹が各チームを回ると、選手たちはFA優先だった。
「30人の枠の中に入った選手はかわいそうだけど、弱肉強食の世界だから仕方ないだろうと。それで12球団の選手たちが70人枠をOKして、FA導入へと急速に加速しました」
 なぜ、球団サイドは「40+30の70人枠」を提案したのだろうか。その真意について、「何度言っても(選手会は)理解できなかった」と小嶋は語る。
「当時の60人枠でも、1年間に1軍に登録される選手は38〜42人くらい。残りは2軍でやっている。だから1軍の枠は40人いいだろうと。その選手に対していかに優遇策をとってあげるかを考えた。
具体的な話では、例えば選手の年金がありました。実質的に破綻して、今はないですけどね。60人枠だった当時、選手会に対して『1軍枠の選手を優遇する年金制度に変えたらどうだ』と提案すると、『選手全体の年金制度なので、1軍と2軍で選手を差別することはできない』というのが選手会の主張だった。我々にしてみれば、活躍した人たちに対する優遇策が年金制度であり、FA制度でもある。そういうことを大所高所から研究していった」
 8軍からなるMLBの場合、1軍にあたるメジャーリーグと、2軍以下のマイナーリーグでは選手たちの待遇は極端に異なっている。
 例えばメジャーに43日以上在籍した選手は年金を受けられ、10年以上在籍すれば満額で年間21万ドルを支給される(詳細は「AERA.dot」の「イチローがもらえる年金額が凄い! 満額支給の日本人選手は…」参照)。逆にマイナーのみで終われば1ドルも支給されない。アメリカでは実力社会がはっきりしている。
 対して日本では、選手たちは1軍と2軍の平等を訴え、FAや年金について全員を対象にするように求めた。それは労働組合として当然の姿勢かもしれないが、実力主義のプロ野球において、球団側は受け入れられなかった。その論理を小嶋が説明する。
ファームの選手はまだ貢献していないわけです。それなのに(FAなど)優遇策で対応を求めるのはおかしい。逆にファームの選手に監督やコーチをつけて、能力を開発して、選手の価値を上げている。価値を上げている途中の選手にまで年金制度や優遇策を対象にするのは、必ずしもいい話ではない。だから対象にする選択を明確にすべき。それが一軍枠です」
FA制度に反対した堤義明氏。しかし、その思惑は外れ…写真:Kaku Kurita/アフロ
 こうした説明を小嶋は何度もしたが、選手たちは理解できなかったという。
 一方、FA問題等研究専門委員会に参加した慶應大法学部教授の池井は、第三者の立場からこう見ていた。
「日本球界の体質って、はっきり言ってものすごく古いですよね。だから急速に改革しようと言っても、無理だよと。選手のほうにも、『君ら、あまり拙速にやるんじゃないよ』と言っていました。今まで選手は野球一筋でやってきたから、交渉段階でベテランの球団代表とやっても、若者ってねじるようなものだったんですよね。
我々としては選手の立場、球団の立場というよりも、『とにかくFA制度を何らかの形で発足させることが必要じゃないか』ということでスタートしました。それでFA制度ができて、我々が後をフォローすることなく(FA問題等研究専門委員会は)解散したんですよね。議論する時間が足りないし、長年染み付いた日本球界の古い体質を一朝一夕でスパンと変えるのは無理でした」
 FA制度が交渉されていた1990年台前半、日本プロ野球選手会は顧問弁護士もいないような組織だった。中畑清が会長を務めていた80年代中盤には存在したが、その弁護士は日当として支払われる顧問料に見合う働きをしておらず、また書類で「選手会」とすべきところを「戦手会」とするなど誤字脱字が多かったという。そうして選手会は弁護士全般に対して信頼をなくし、すべて自分たちでやろうとなった。
 そんな状況にあった選手会で選手たちは「とにかくFAの権利がほしい」とまず形だけを望み、中身は球団主導で決められた。FA制度が最終的に合意された1993年9月21日、選手会長の岡田が発した「選手たちが妥協した」という言葉がすべてを物語っている(1993年9月22日毎日新聞「選手会労組の譲歩で決着」より)。
 選手会が1987年3月に要求してから6年以上かけて実現されたFA制度は、「Free Agent」という名前とはまるで別のものとしてスタートされた。(敬称略)()内の名前は編集部注