「働き方改革」関連法が施行されて半年近くが経った今、時短勤務やリモートワークの推進など、各企業で積極的な姿勢が見られる。一方でそれ自体が目的化し、本来の目的である生産性の向上や、新たな価値創造の実現にはまだ届いていないようだ。
本連載では、書籍『働き方2.0 vs 4.0 不条理な会社人生から自由になれる』(橘玲 著)から、その一部を4回にわたって紹介する。
「手段としての働き方改革」が一巡した後、私たちはどのような働き方、ビジネスの生み出し方を考えるべきだろうか。

#1 【橘玲】スキルをシェアする時代に、現代日本の「働き方」は遅れすぎている
#2 生き方・働き方が衝撃的に変わる未来、会社は存在すべきか

管理職なしには創造も生まれない

『プラットフォームの経済学』(日経BP社)では、知識社会の高度化とテクノロジーの進歩によって高スキル労働者(クリエイティブクラス)がフリーエージェント化する一方で、プラットフォーマーのようなグローバル企業が拡大し、そこで多数の「管理職」が働くようになると予想しています。
クリエイティブクラスとはその名のとおり、なにかを創造(クリエイト)するひとたちであり、その典型がシリコンバレーで「世界を変えるイノベーション」を目指す若者たちです。
それに対して会社の「管理職」は、彼ら・彼女たちの創造を手助けし、創造物の権利関係を定め、流通や配信、利用を管理し、収益を回収して分配するという仕事をしています。「管理職」は市場の潤滑油であり、その存在がなければどのような創造行為もたちまち行き詰まり、空中分解してしまうでしょう。
グローバル市場が巨大化し、複雑化するにつれて、さまざまな国籍の文化的・歴史的・宗教的に多様な市場参加者の利害が交錯し、「管理職」の役割はますます重要になると同時に細分化されていきます。
その結果皮肉なことに、誰のためになんの仕事をしているのかわからなくなってしまうのです。業務にかかわる膨大な契約の一部に携わるコーポレー ト・ロイヤーなどは、その典型でしょう。

ムダな会議はなくならない

このように考えれば、「この世界になにひとつ貢献しておらず、とてつもなくみじめだ」という嘆きの意味がわかります。しかしそれでもこの仕事は必要であり、だからこそ高い報酬が支払われるのです。
こうした事情は、日本のサラリーマンにはよくわかるでしょう。大手企業では業務全体に占める会議の割合は20%近くにもなるとのデータがあります。経営者は「ムダな会議をやめろ」と号令をかけますが、それでも一向に減りません。
これはブルシットジョブ(部外者から見てなんの役に立っているのかまったくわからない仕事)そのものですが、しかし会議をやめてしまうと部門間の調整などがうまくいかず、業務が滞ってしまうからまた復活するのです。「資本主義の陰謀」で無意味な仕事がつくりだされているのではなく、周囲だけでなく本人ですら「無意味」と思っている仕事にも、なくなってしまうと困る理由があるから存在しているのです(たぶん)。
ブルシットジョブの概念を提唱した、文化人類学者で「アナキスト」を自称するデヴィッド・グレーバーは、ホワイトカラーの仕事の多くは「ブルシット」だが、世間一般で「ブルシット」と思われるバスの運転手や看護師、清掃係は直接的に社会に貢献しているといいます。
たしかにそうかもしれませんが、問題なのは、こうした仕事が (訓練を受ければ)多くのひとが従事できることです。それに対して、いくら「ブルシット」でもコーポレート・ロイヤーになるには高度な資格が必要になります。この需要と供給の法則によって、「社会に貢献している仕事が低賃金で、なにも貢献していない(と本人が思っている)仕事は高報酬」ということになるのです。

「民主化」される専門職

ホワイトカラーの仕事が左翼(極左)や、シリコンバレーで「テッキー」とも呼ばれる究極のリベラル思想の人たちから目の敵にされるのは、知識を不当に独占していると見なされるからです。
1980年代に初期のAI(人工知能)であるエキスパートシステム開発に携わり、法律分野での専門知識のあり方を研究してきたリチャード・サスカインドは、息子のダニエル・サスカインドとの共著で、「専門家」を以下の4つで定義しています。
1.専門知識を有している
2.なんらかの資格に基づいている
3.活動に関する規制がある
4.共通の価値観により縛られている
マックス・ヴェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で述べたように、近代資本主義の成立とともに専門職が台頭してきましたが、そこには「大いなる取引」と呼ばれる特権が隠されていたとされます。それを哲学者ドナルド・ショーンはこうまとめています。
「人類にとって非常に重要な、専門家の並外れた知識へのアクセスを手にする見返りに、社会は彼らに対し、それぞれの専門領域における社会統制の権利、職務における高度な自律性、誰が専門的権限を引き受けるのかを決める権利を認めている」
知識社会において、専門家(プロフェッショナル)は知識へのアクセスを管理することで大きな社会的信用と高い報酬を獲得してきました。その典型がカトリックの神父で、神の言葉(聖書)の解釈を独占し、ローマ教皇は国王に匹敵する権力を手にしたのです。
しかしサスカインドは、「これはひとびとが知識を手にする方途がかぎられていた時代の過渡的な現象で、テクノロジーによって必要とする人に十分な知識が適切に届くなら専門家の役割は縮小していくし、そうなるべきだ」といいます。専門職において不可欠な要素とは「専門家」ではなく、ひとびとが抱く知識へのニーズなのです。

人がコントロールしきれないほど、知識は溢れている

専門家の仕事が機械に代替されつつあるもうひとつの理由が、知識の爆発的増加に人間が対応できなくなったことです。
これはとりわけ医療で顕著で、平均で41秒ごとに新しい論文が発表され、2014年に刊行された医療関係の出版物のうち、ある医師が自分に関係するものをすべて読もうとすると、毎日すくなくとも21時間を費やさなくてはなりません。
WHO(世界保健機関)による国際疾病分類の第9版では1万3000以上の病気が分類され、臨床医は現在、約6000種類の薬品と、4000種類の内科的・外科的処置を行なうことができるとされます。このすべてを正確に理解することは人間には不可能で、標準化して機械で処理できるようにするほかはありません。
こうして専門職の標準化とシステム化が進んでいくのですが、皮肉なことに、それによって専門家の存在意義が揺らいできます。糖尿病患者へのインスリン投与をセンサーデータに基づいて自動的に行なうようにすれば、専門家の判断は不要になります。

「AIに仕事を取られる」のは移行期だけ?

テクノロジーの理想世界では、体内を循環するナノロボットによって医療データが収集され、それが高速通信網でクラウドに送られてAIが解析し、異常があった場合は適切な薬が自動的に送られてくるようになります。
その先には「外科医ロボ」が出張し、自宅で手術を行なうSFのような未来が到来するかもしれません。そうなれば、専門家としての医師は不要になるでしょう。
こうした脱専門家(専門職の民主化)の試みは他の領域でも進んでおり、教育、法律、ジャーナリズム、経営コンサルティング、税務と監査、建築などが挙げられていますが、その状況は一様ではありません。
たとえば法律の領域では、知識を機械に組み込むことで脱専門化が実現できます。自動運転では車は交通法規に違反できないので、交通違反を取り締まる必要もなければ、違反者を処罰するための司法システムも不要になるでしょう。
 サスカインドは、「専門職が提供する実用的専門知識へのアクセスと料金は受け入れ可 能なレベルとはほど遠い」として、専門家の既得権を破壊して消費者に手頃な料金で適切な知識を提供することが「正義」にかなっていると主張します。
こうしたリベラルの理想主義によって専門職の未来は機械に代替されていくのかもしれませんが、それにはまだかなりの時間が必要でしょう。世の中はテクノロジーように「指数関数的」には変化しないのです。
 AIと医師とが診断の正確性を競い合った転移性乳がんの診断コンテストでは、誤診率はAIが7.5%、医師が3.5%でしたが、AIと医師が協同した場合は0.5%と劇的に精度が向上しました。
移行期にはブルシットな仕事が機械に代替される一方で、(一部の)専門家はAIなどを活用して、より高度で高給の仕事をするようになり、富と影響力を拡大させるのではないでしょうか。
※本連載は全4回続きます
(バナーデザイン:大橋智子、写真:piranka/iStock)
本記事は『働き方2.0vs4.0 不条理な会社人生から自由になれる』(橘玲〔著〕、PHP研究所)の転載である。