「宗教」とコミュニティの境目はどこなんだ問題
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注目のコメント
最近流行りのコミュニティと宗教の境について。
境は「事実を曲げるかどうか」ではないか。
因みに自分は、質問には答えず自分の主張だけをする。周囲に突っ込まれると、我々は迫害されている。キリストも迫害された。故に我々は本物である。という論理展開をオウム論法と呼んでいます。おそらく、多くの人がチラッとは思った事がある!?
「え?それって宗教と何が違うの?」の分かりやすい解説が。
間違いを認めるか、絶対でないか、確かにです。
落合さんのお話も知りませんでした。分かりやすい例。
サロン、コミュニティ、コーチング、コンサル、心理、幸福…
ビジネス的にも気になるし、エンタメ的にも「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」のようにホットな話題。
(映画はリアル事件とは違い、マンソン臭は薄めですが…最近カルトはドラマでもやたらと題材に)先日O場サロンでも話題になったコミュニティ問題。ここでは宗教と比較してますが、何言ってるのか全然分かりません。どうやらカルトや教主の話をしたいのかと理解しました。
宗教では、教主の個人的「権威」を利用して、実は成文化されていない「権力」の構造にビルトインさせる仕組みが働いています。教主は生きていても生きてなくても良くて、人間の似姿であるキリスト教が一番分かりやすいでしょう。偶像崇拝を禁じた形而上学的な宗教は、ポータブル教主を生み出せる誰でも教主な構造。
同じように成文化されていない日本的仏教になると、これが日常生活での風習や慣行といった別の形で、檀家のような宗教のコミュニティ化が起こります。
とまぁ宗教と対比するとかなり遠くなるので、左翼のセクトぐらいで良いんじゃないですかね。一見コミュニティっぽくも有り、リンチも有る。
コミュニティを現代的に建設的に議論するのであれば、中世の無縁所やアジールまたはアサイラムと比較するのが筋が良いと思ってます。その点で、網野善彦や阿部謹也の対談には及びもつかないかな、この対談は。