ハーバード大学で絶大な人気を誇る東洋思想の講座がある。教壇に立つのは、マイケル・ピュエット教授。カレッジ教授賞の受賞歴を持つ彼が学生に求めるのは、授業を通じて、ただ古代哲学者の思想と格闘するだけではなく、自分自身や自分の生きる世界について根本的な前提を問い直してみることだ。

本連載では、ピュエット教授のエッセンスを書籍化した『ハーバードの人生が変わる東洋哲学 悩めるエリートを熱狂させた超人気講義』から、その一部を紹介する。

【ハーバードの東洋哲学】わたしたちは本当に自由を手に入れたのか
【ハーバードの東洋哲学】心を耕して決断力を高める──孟子と〈命〉

分け隔てすることの落とし穴

きみは森を歩いている。晴れあがった夏の午後だ。明るい日の光が緑あざやかな葉のあいだからもれてくる。
遠くのほうに、ほかの木よりはるかに高いりっぱなオークの大木が生えている。あまりに高いせいで、てっぺんがやっと見えるくらいだ。数メートル離れて、大木の陰に小さな若木が育っている。たぶんきみは、大木のほうが強く、硬く、威厳があり、若木はもろく、頼りないと思うだろう。
しかし、そこに暴風がやってきて、森の地面には大きな枝が散乱する。オークの大木は激しい風と雨と雷にもちこたえられそうにない。結局、オークの大木は地面に倒れてしまい、若木はそのまま無傷で残る。なぜだろう。
若木は暴風のなかで風にしなり、たわんだが、柔らかくしなやかなために、暴風が去ったあともとどおりまっすぐになった。若木はまさしくその弱さのおかげで、繁茂し優位に立つことができる。
*  *  *
わたしたちはたいてい、当然のこととして──なぜなら、そう教わっているから──影響力をもつにはこのオークの大木のように強くたくましくあらねばならないと考える。影響力を発揮するには、もっともらしく自己を主張し、こちらの意思に相手を屈服させなければならない、と。
しかし、これとは別の影響力の秘訣が中国哲学の書物のなかにある。たとえば、『老子』(『老子道徳経』ともいう)だ。
これによると、影響力は、弱そうに見えることの強みを生かし、分け隔てすることの落とし穴を理解し、世界を相互に関係のあるものととらえることから生じる。強さで強さを制することで力が生まれると考えるかわりに、まったく異質なことがらや、状況や、人のあいだのつながりを理解することから真の力が生まれると考える。
これはすべて、『老子』において〈道(タオ)〉と呼ばれているものの解釈から来ている。若木が生き残れるのは、道に近い存在だからだ。
とはいえ、若木はしょせん若木にすぎない。風が吹けば揺れ、無自覚に成長する。
わたしたち人間の場合、できることははるかに多い。つながりを理解できるだけでなく、新しいつながりを築いてまったく新しい現実と新しい世界を生み出せる。世界の建設者になることが力をもつ方法だ。

謎につつまれた思想家の教え

老子は、『老子』の著者とされる中国の思想家で、謎につつまれた人物でもある。
いつ生きた人なのかもわからないし、これが実在の人物の名前なのかどうかさえ議論が分かれている。中国語の「老子」はたんに「大先生」を意味し、だれのことを指してもおかしくない一般名称だ。
しかし、のちの時代の人々は、この説得力のある書物の著者をはっきりさせようとした。
やがて、老子は孔子より前に生きた偉大な聖人とされた。三〇〇年生きたと伝えるとっぴな説もあれば、のちにインドまで旅してブッダの名で知られるようになったと主張する説まである。
また、老子は道家と呼ばれる学派の始祖として──そしてのちに、道教と呼ばれる宗教運動の始祖として知られるようになった。ある伝説によれば、老子は本物の神で、宇宙の創始者であり、その神の啓示がのちに『老子』におさめられたという。
とはいえ、老子は道教を創始してはいない。
「道教=道を説く教え」ということば自体、『老子』が書かれた数世紀あとになってようやくできた。過去にさかのぼって老子が道教の始祖と考えられるようになったのは、『老子』がたびたび〈道〉を説いているからだ。

〈道〉とは探すのではなくつくるもの

ほとんどの人は、道と聞けば、それがなんであるかぼんやりと見当がつく。
中国の山水画を思い浮かべてみよう。筆と墨でさらりと描かれた山々はもやにかすみ、点々としたおぼろげな木々に覆われている。ときどき、見えるかどうかというほど小さい人の姿が描かれることもある。自然界の広大さを慰めとするさすらい人だ。
西洋人は、社会を離れ自然の調和を探求する人類の旅が描写されていると解釈しがちだ。山水画には、不変の世界と、その世界に順応して内なる安らぎと静穏を得ようとする人間が描かれているように見える。
これが一般に認識されている道だ。それは、「かなた」にある理想と理解されている。わたしたちのおよばぬところに存在する自然の極致であり、その力によってわたしたちは調和に帰らなければならない。
多くの人にとって、『老子』は半神話的な「黄金時代」への回帰に思える。人生がもっと純粋で単純だった時代、人が山水画のなかのさすらい人のようだった時代だ。人は自然界と調和を保ち、あるがままの流れに身をゆだね、道に近い存在だった。
けれども、この解釈は一九世紀、西洋がみずからを近代と宣言し、東洋を引き立て役とした時代に生まれたものだ。『老子』に書かれている内容より、むしろ、調和や静穏についての伝統的な中国の思想だとわたしたちが考えているものを今日的に美化したものだ。
『老子』は、どこか「かなた」にあるなんらかの調和のとれた模範にただ従うべきだとも説いていないし、さすらいの旅に出るか、素朴な太古のやり方にもどったほうが道に到達しやすいとも言っていない。無心の境地にいたり、静穏を保つために必死に努力すべきだとも言っていない。
『老子』の教えはまったく違う。
道は、今ここに、みずから能動的に生じさせられるものだと説く。わたしたちはだれしも、自分の生きる世界を変容させられるほどの影響力を秘めている。道はつくりかえることができるのだ。

地に育つあらゆるものは、道に帰る

老子にとって〈道〉とは、ことばで言いあらわせない、分化していない原始の状態であり、あらゆるものに先立つものだ。それは、
混沌としてすべてを内包するものであり、天地が生まれる前から存在していた。
宇宙のあらゆるものがそこから生じ、宇宙のあらゆるものがそこへ帰っていく。
また、道は複数のレベルに存在する。地上レベルでは、地に似ている。地表に生えている一本の草の葉を考えてみよう。
育つにつれて草は別個のものとして分化し、もっと大きくなるにつれて、さらに道から分離していく。十分に成長したオークの大木より、若木のほうが道に近いのはそのためだ。しかし、地に育つあらゆるものは、死ぬとふたたび地、すなわち道に帰る。
万物は盛んに生長している。わたしには、そのすべてがまたもとに帰っていくのが見てとれる。物はしきりに生成し繁茂するが、それぞれ生まれ出た根もとに帰っていく。
もっと宇宙的なレベルでは、道は現代の物理学者がビッグバンより前に存在したとするものに似ている。恒星や銀河が生じ、宇宙が分化する以前のことだ。
ビッグバン後、宇宙は分化した要素の集まりになり、空間や時間や因果の法則に支配されるようになった。
この法則はわたしたちには自然なものに見え、変えることもコントロールすることもできない。わたしたちはとにかくこの宇宙で生きるしかない。分化したすべての要素は、どこかの時点でふたたび無に帰るとされる。

子どものようなしなやかさを保つには

しかし、もっとも壮大なレベルでは、『老子』は分化する前のあらゆるものがいったいどこから時々刻々と生じているかという点に注目する。道を「万物」の母、すなわち宇宙のあらゆるものを生み出す源になぞらえている。
宇宙のあらゆるものは、出現したときはじめは柔らかくしなやかだ。つまり、最初に生じたとき、万物は子どものようなものだ。まだ道にとても近いため、若木や草の葉のように柔らかくしなやかだ。ところが、時とともに万物は硬くなり、ほかのすべてのものから分化する。
世界を分化したものと見なせば見なすほど、道からかけ離れていく。世界を相互に関係のあるものと見なすほど、道に近づいていく。道に近づくことで力が手にはいる。しなやかさと弱さの力を利用できるからだ。
新しい宇宙の法則を生み出すことはできない。けれども、道は宇宙レベルで起きていることばかりではない。日々の生活というもっとも世俗のレベルでは、常に新しい状況があらわれているし、その一つひとつが道から出現したミニチュアの世界のようなものだ。
道から万物があらわれ出る過程を理解すれば、そうした状況や世界のなかで漫然と生きるかわりに、状況や世界を変える力が手にはいる。実社会で新しいかかわりや環境や解釈をうまく生み出せるようになる。
このやり方を理解すれば、わたしたちはただの子どもではなくなり、母のような存在になれる。そして新しい現実を生み出す。
天下にははじまりがある。それは、世界のすべてを生み出す母と言っていい。いったん母を把握すれば、その子どもである万物のことがわかる。そして、子どものことがわかったら、またその母にたちかえってしっかりと守る。そうすれば、死ぬまで危険はない。
世界の仕組みを理解すれば、たんに宇宙にただよう無数の要素の一つでいるかわりに、いつでもどんなときでも道をつくりかえられる力を手にできる。
※ 次回は日曜日掲載予定です。
(バナーデザイン:大橋智子、写真:jorgeantonio/iStock)
本記事は『ハーバードの人生が変わる東洋哲学 悩めるエリートを熱狂させた超人気講義』(マイケル・ピュエット&クリスティーン・グロス=ロー〔著〕、熊谷 淳子〔訳〕、早川書房)の転載である。