従業員25万人、月3万台を販売

サクランボ色やダークシルバーの車のフレームが、ゆっくりと工場のラインを動いていく。さっきエンジンを据え付けたところで、今は、床から180センチくらいのところにぶら下がっている。
突然、大きな雪そりのようなロボットがフレームの下に滑り込み、同じスピードで動き始めた。そりの台座部分には、ベッドのマットレスほどの大きさの電池が横たわっている。
すると、そりの昇降テーブルが持ち上がり、車底に電池が設置される。たちまち青いつなぎに白い軍手を着けた作業員たちが、リベットガンで車底に固定する作業を始める、すると昇降テーブルが下がり、そりロボットは次のクルマへと走り去って行った。
電気自動車(EV)と聞くと、米国人はテスラのような高級車を思い浮かべるが、この中国南部の工場で組み立てられたEV SUV「唐(TANG)」の小売価格は24万元(約3万5700ドル)から。ターゲットは世界最大のEV市場・中国の中間層だ。
メーカーの比亜迪汽車(BYD)はブラグインカーの世界最大手だが、知名度はおそらくテスラの数分の1だろう。しかしBYDは、世界最速のスピードで進む中国の電気モビリティーへの移行を大きく後押しする存在だ。
BYDが深圳に設立されたのは1990年代半ばのこと。いわゆるガラケーとデジタルカメラ向けの電池メーカーとしてスタートしたが、現在は約25万人の従業員を擁し、毎月3万台もの純電気自動車(BEV)またはプラグインハイブリッドカー(PHEV)を国内で販売している。
その大多数の車種は、テスラのようなステータスシンボルではない。BYDの最安モデルである「e1」は、補助金後の値段が6万元(8950ドル)だ。

中国政府が強力バックアップ

BYDの乗用車や電気バス、フォークリフト、商用バン、道路清掃車、そしてゴミ収集車は、BYD製の電池だけで走る。
中国各地の工場の年産能力は約30ギガワット時で、初代から現在まで製造されてきたiPhoneの全台数を動かしてもまだ余る電力量だ。昨年には、青梅省に世界最大級(93万平方キロ)の車載用電池工場を稼働させ、今年2月にも同規模の工場建設に着手した。
その成功により、創業者の王伝福会長(53)はビリオネアになった。それだけではない。10年前にBYD株を10%取得したウォーレン・バフェット(正確にはバフェットの投資会社バークシャー・ハサウェイ)も大きな利益を手にした。
中国は猛烈な勢いでEVの導入を進めてきた。政府の大掛かりな補助金政策と内燃エンジン車の所有を不便またはコストのかかるものにする地方自治体の条例が組み合わさって、いまや世界のEV販売台数の半分以上を中国が占める。
昨年の上海のEV販売台数は、ドイツ、フランス、イギリスの国内販売台数を上回った。杭州のEV販売台数は、日本のそれを上回った。深圳の2万台のタクシーは事実上すべてBYDのEVだ。
これに対してニューヨークでは、メーカーを問わずEVタクシーは20台以下に過ぎない。中国では50万台以上の電気バスが走っているが、アメリカでは100台以下だ。
中国政府は、都市部の大気汚染対策と成長産業育成策として、2040年頃までにガソリン車を全廃したい考えだ。その市場規模を考えると、中国の需要は21世紀の自動車のあり方を決定づけるだろう。
それは運輸産業における優位をはじめ、あらゆる戦略的利点を中国にもたらすだろう。

海外進出を阻む反中感情

EVの量産化と普及を10年以上前に予測した王にとって、この流れは大きな勝利だ。と同時に、BYDは前代未聞の挑戦にも直面している。
巨大市場と明確な政策の方向性に魅了されて、フォルクスワーゲンやフォード・モーターといった世界の大手自動車メーカーが、中国人好みのEVを続々と投入しているのだ。
しかもタイミング悪く、中国政府は今、EV購入補助金を縮小している。BYDのように、車種が低価格帯に偏っているメーカーにとって大きな打撃だ。
海外に販路を広げようにも、反中感情の高まりがBYDにたち塞がる。たとえば米国では最近、全米の交通当局が連邦補助金を使って中国メーカーの列車・バスを調達するのを禁止する法案が提出された。
このため投資家は懸念を募らせている。香港株式市場のBYD株は、2017年9月に世界一の上昇を見せたが、この1年で18%も下落した。
だが、王と同僚たちは、グローバルブランドを築いて、こうした疑念が間違いであることを証明する決意だ。
とはいえ、王らは大衆EVのパイオニアとしての歴史に誇りを感じる一方で、「一番乗り」は「長期的な成功」を保証するものではないことにも気づいている。BYDは中国の電気モビリティー革命を始めたかもしれない。今度はその着地点を見つける必要がある。

携帯電話向けバッテリーで成功

1990年代初め、王は北京の有研科技集団有限公司(GRINM)に研究者として勤務していた。GRINMは、冶金学的発見に基づき現実的な応用法を研究する政府系研究所で、王は電池や家電製品に欠かせない希少金属(レアメタル)を研究していた。
やがて、鄧小平時代に始まった起業ブームが政府機関にも広がるにしたがい、王は民間で何ができるか考え始めた。
1995年、王は深圳にBYDを設立した。ちょうど深圳が、田舎町から「世界とコネクトしたメガロポリス」に変貌しようとしているときだった。
「BYD」の由来ははっきりしない。ただ、現在では「自分の夢を作れ(build your dreams)」のアクロニムだとしており、そのロゴが入っている車種もある。
深圳の王は、グローバルなサプライチェーンから何かを得ようとする数千人の若手起業家の一人にすぎなかった。ただ、電池が大きなテクノロジーシフトのカギとなった時期に、王は電池の専門家だったという利点があった。
1990年代末にリチウムイオン電池を使ったノートパソコンと携帯電話が一般的になるにしたがい、BYDの低コストで迅速な製法は徐々に需要が高まり、中国メーカーが日本企業に代わる人気サプライヤーになる流れの中心的存在になった。
とはいえ、すべてがスムーズにいったわけではない。BYDは三洋電機とソニーから知的財産権侵害で訴えられた。三洋との訴訟は和解し、ソニーの訴えは日本の裁判所で認められなかった。
2000年代初旬までに、BYDの電池はノキアの携帯電話、ブラック・アンド・デッカーの電動工具、デルのノートパソコン、そしてこの時代の究極のステータスシンボルだったモトローラの薄型携帯電話レーザー(Motorols Razr)に使われていた。

テスラとは対照的なターゲット層

BYDは2002年、香港株式市場に上場。翌年には、経営難に陥っていた国有自動車メーカーの西安秦川汽車を買収した。当時、EVはまだ物好きな人向けの商品に過ぎず、カリフォルニアの厳しい排気規制をクリアするために設計された希少モデルに限定されていた。
だが王は、EVこそBYDの中核ビジネスの自然な拡張先だと考え、西安秦川汽車の買収により「電動車向けの充電可能電池の開発と生産がスピードアップできる」と主張した。しかし投資家の反応は悪く、西安秦川汽車買収が発表された日、BYDの株価は20%も下落した。
自動車の開発から発売までのタイムラインは長い。比亜迪自動車販売(西安秦川汽車の買収後の名称)で王の影響が見えるようになったのも、買収から5年たった2008年頃からだった。
2008年、BYDは世界初の量産型プラグインハイブリッドカーである「BYD F3DM」を発表した。フルチャージで60マイル(96.56キロ)走行可能という触れ込みだったが、デザイン的なセックスアピールはゼロ。同じ年にデビューしたテスラのロードスターとは対照的だ。
『カー&ドライバー』誌には、時速93 マイル(約150キロ)という最高速度を笑われた。それ以来、BYDは乗用車の輸出をほとんどしていない。
だが、テスラがいわば「ちょいワルオヤジ市場」に焦点を絞っていたのに対して、BYDは地味な車両を電動化する事業と、太陽光パネルなどのインフラ供給事業を着々と構築していった。
2009年には電動バスの量産化を開始すると、2010年に湖南省から1000台を受注。国内から同規模の受注が続くとともに、アムステルダムやフランクフルト、ロサンゼルスといった外国都市からも受注が舞い込むようになった。
ただ、ロサンゼルスとアルバカーキ(ニューメキシコ州)では批判が起きて、アルバカーキはBYDのバスを返品する事態に追い込まれた。カリフォルニアでは、BYDの工場労働者の時給が1ドル50セントだという批判が起きた(BYDが最低賃金以上を支払っていることを示すと、カリフォルニア州当局も納得した)。
※ 続きは明日掲載予定です。
原文はこちら(英語)。
(執筆:Matthew Campbell記者、Ying Tian記者、翻訳:藤原朝子、写真:©2019 Bloomberg L.P)
©2019 Bloomberg L.P
This article was translated and edited by NewsPicks in conjunction with IBM.