“問い”を立てられる人材こそ、イノベーションを起こせる

2019/3/14
ギリシャ時代から「奴隷とならず自由に生きるために必要」とされた「リベラル・アーツ」は、科学技術が日に日に発達していく今を生きるビジネスパーソンにとっても必須となりつつある。世の中にイノベーションを起こすためには、経験や分析・論理に軸足を置いた「サイエンス」だけでなく、直感や感性・アート(美意識)=「リベラル・アーツ」を備えるべきだという考えが、欧米を発端に日本でも盛んになっているのだ。

社会で“問い”を投げ掛け続けるような人材になるには、どのような学びが必要なのか。『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?』の著者・山口周氏と、立命館大学グローバル教養学部(2019年4月より開設)設置委員会副事務局長の崔裕眞教授が語り合う。

今、グローバルなリベラル・アーツが求められている

山口 昨今、自動運転車の開発が進んでいますが、グーグルなどのプロジェクトチームには、技術者だけでなく人文科学の専門家が増えています。
 最適な運転自体は機械化できたとしても、たとえば高齢者が自動運転車に乗ったときに、開発者にとって予期せぬ行動を取るかもしれない。「何が起こり得るのか」をシミュレートするうえで、「人間の専門家」が必要とされているのです。
 それは興味深いエピソードですね。
山口 学問は「不思議だな」という感情から生まれています。しかし、学問が専門化・細分化するうちに、われわれにとって、最も不思議で重要な問題、つまり「人間とは何か」という問いに答える学問がなくなってしまった。
 リベラル・アーツは、人間という存在の謎に迫るための学問です。現在は自然科学に分類される天文学、そして音楽も、もとはリベラル・アーツでした。
 いろいろなことが自動化されても、必ずそこに人間が関わる。だから科学の発展にしたがって、リベラル・アーツがますます重要性を増すのです。
崔 私のルーツは韓国で、両親がカトリックであったことから私もクリスチャンです。父が韓国の外務省に勤務していたため、海外での生活が長く、子どもの頃から欧米とのコンタクトが多かったし、イギリスのカレッジでは寄宿舎で修道士のような生活を送りました。
 そこで私が学んだのは、古代ギリシャ以降2500年の歴史を持ち、クリスチャンの価値観が2000年以上かけて育まれた、極めて頑固な従来のリベラル・アーツです。
 ところが、中国の台頭やイスラム圏の人口増などにより、クリスチャンの価値観だけにもとづいた高等教育システムでは、世界で活躍する人材を育てることに限界が訪れています。今、世界に求められているのは、本当の意味でのグローバルなリベラル・アーツなのです。
山口 同感です。インターネットも世界に大きな変化をもたらしました。ただし、よく言われる「インターネットによって世界が縮まった」という説は少し疑わしいと考えています。
 伝書鳩の時代と比べれば、確かに情報の伝達は確実になり、早くなった。一方で、それぞれの考え方を持った人が個々に“島”をつくっていて、孤立する状況も生み出している。
 たとえば、トランプが大統領選で勝ったとき、私のFacebookのタイムラインでは、喜んでいる人はひとりもいませんでした。トランプの勝利に喜んでいたのは、同じような教育を受け、政治に同じような期待を持った人たちで、違う場所でギュッと固まっている。
 いわゆるエコーチェンバーです。いかに私が多様性のないネットワークの中にいるかを気付かされました。
 それが際立ってくると、IS(イスラム国)のように、対立をむしろ増長してしまう。ISはまさにインターネットの力を使って、欧米から若い人たちを集めている。これでは、人間が技術に振り回されているようなものです。

日本という枠の中からでは見えない日本の強み

 私も最近、SNSとの付き合い方を考えるようになりました。Facebookを見ていると、イギリスにいる友人の朝食がわかります。でも、横に座っている同僚の様子がわかるわけではない。最近はフェイクニュースも多いです。コミュニティがタコツボ化して、それぞれが勝手なことを発信している。
 SNSだけでなくマスメディアも、本来は一部の意見にすぎないものを、いかにも国を代表する意見かのように盛って電波に乗せてしまう。これでは不要な衝突や偏見を増やすだけです。
 もちろん立命館大学グローバル教養学部での授業では、積極的に最新のテクノロジーを活用したいのですが、学生と一緒に2日くらい、一切テクノロジーに接しない授業もやってみたいですね。
山口 崔先生はマルチナショナルにいろんなところをご覧になってきた。それはタコツボとは対極ですよね。内省するだけではわからない、自分のアイデンティティを確認する機会に恵まれていたのではないかと想像しますが。
 イギリスのカレッジでの体験がまさにそうですね。私は欧米人のものの考え方をそこで学んだわけですが、無批判にそれを受け入れようとしたときに彼らから指摘を受けました。
「自分はアジア人だ」というアイデンティティを私に教えてくれた国は、アジアでも、日本でもなく、イギリスだったのです。
山口 海外を知っている人は「日本人はシングルスタンダードではないから、トップダウンで考えるのが苦手だ」と言います。私は長いことピンとこなかったのですが、編集者の松岡正剛さんなどは「日本には相反する2つの軸がある」とおっしゃっています。
 物差しがひとつだけだと、より全体主義に陥りやすい。相反する2つの軸があって、微妙なバランスを取るほうがサスティナブルだ、と。
 松岡さんが例に挙げていたのが、故・笹川良一氏が出演した1980年代のテレビCMです。「戸締まり用心、火の用心」と言いながら、最後には「人類みな兄弟」という文字が出る。
 あるアメリカ人がこのCMを見て、「人類みな兄弟なら、戸締まりなんか必要ないじゃないか」と言った。確かに矛盾しています(笑)。でも、日本人は、「それはそれ、これはこれ」と捉えて、あまり気にしない。
 あるいは、山本七平さんが『私の中の日本軍』という本に、捕虜時代の経験を書いています。捕虜収容所で、アメリカ人の若い将校がダーウィンの進化論の授業を始めた。言うまでもなく、山本さんはじめ、みんな進化論は知っていた。
 だから「そんなことは知っている」と言うと、将校は驚いたそうです。「だったら、なんで天皇が神だなんて信じてるんだ」と。
 なるほど。私が体験した欧米のリベラル・アーツ教育や高等教育には、ひとつの軸があります。それは、神との契約関係です。一人ひとりの人間と神との間に垂直の関係がある。日本にはそういう感覚はありませんね。
 統治システムも、天皇家があり、一方に幕府があり、ときに牽制し、ときには助け合い、権威づけもしながら、安定を探る。2つの軸を持ちながら、これほど長い間ひとつの文明として栄えた国は日本しかありません。
 中国も韓国も「王朝」という軸があって、完全に別の体制がリプレースされることを繰り返してきました。
 いろいろな人と和をもって生きていくのは、日本人には染み付いた感覚でしょうが、これは世界的に見て特異なものでしょう。
山口 日本のなかだけ見ていても、それには気付けませんね。
 グローバル教養学部は、オーストラリア国立大学とコラボレーションしていますが、アジアをはじめとする世界中からやってきた学生と、どうやってその日本ならではの感覚を共有するかが、ひとつの重要な課題です。
 そんな日本発だからこそ、グローバル教養学部がいわゆる欧米モデルのリベラル・アーツとは異なる面白さを加味した、グローバルなリベラル・アーツを生み出せるのではないかと考えています。

“問い”を立てる力がイノベーションを牽引する

 日本人には「新しもの好き」という特性もあります。それゆえに、中国大陸、朝鮮半島や欧米の文化も取り込んできた。まるで幕の内弁当のように、一番おいしい組み合わせでパッケージングする能力が優れているんです。
 経済学者であるヨーゼフ・シュンペーターが言うところの「neue Kombination(新結合)」を、何千年にもわたって鍛えてきたのが日本なんですよ。
 日常でもカタカナ語や和製英語には驚かされることがあります。たとえば「リベンジ」。「次はリベンジしよう」と、皆さん気軽に言っていますが、英語本来のニュアンスだと、殺意を抱くくらいの復讐ですから(笑)。
山口 「エモい」や「ナウい」のようにすぐに言葉を作りますしね(笑)。
 パッケージングにも共通する部分ですが、キャラクター作りも得意です。漫画の『ONE PIECE』には、絶え間なく新しいキャラクターが出てくる。吉本新喜劇も一人ひとりのキャラクターが立っています。これは独特な個性と性格を持つ商品を作り出すことにつながる能力ですね。
 ただ、その能力が悪いほうに発揮されることもあります。
 たとえば、「フォルクスワーゲン」と聞いたとき、頭の中に思い浮かべるフォルムはみんな、だいたい共通しています。
 ところが、日本の自動車は、パフォーマンスは素晴らしくても、車種の一つひとつが全部キャラクターとして独立しているため、「トヨタ」や「日産」と聞いても、車の顔が思い浮かばない。つまり、メーカーのアイデンティティが見えてきません。
山口 BMWは日本車と比べて、倍くらいのプレミアムが乗っています。値段は倍だけど、安全性も倍なのかというと、そんなことはないし、馬力も倍ではない。要するにユーティリティとしての、モビリティという意味では大した違いはない。
 では、何が違いを生んでいるかというと、感性価値です。パーソナリティというか、ブランドが持つある種の人格やストーリーに、それだけのお金を払っているのです。
 そんな状況で、最近のマツダは善戦していますね。デザインに一貫性を持たせることで、ひと目見れば「マツダだ」とわかるようにしている。これは自分たちが得意とすることを自覚して、それをどう発揮すれば価値を最大化できるかを考えた結果です。
山口 マツダのイノベーションに限らず、現代は、これまでとは違う方法で課題を見つける力が必要になっています。
 昭和30年代であれば、「暑いから家の中で涼しく過ごしたい」とか、「食べ物が腐らないように保存したい」など、世の中にニーズがたくさんあった。日本の会社は、世の中の問題に、クーラーや冷蔵庫などのユーティリティを提供しながら大きくなったわけです。
 ところが今、世の中の人は、日常生活を送る上で、不満らしい不満を感じていません。そこにどんな価値を提供できるのか、どんな課題を見いだすか、会社やリーダーが自ら考えなければいけない。
 アインシュタインは、問題解決に1時間用意されているとしたら、55分は適切な問いを探すのに使い、残りの5分を問いを解くのに使うと言いました。つまり、問いを立てるほうがより知的な作業だということです。
 その意味で、日本が今まで求めてきた問題解決型の知性には限界があります。私がいたケンブリッジ大学の学生や教員が優れていたのは、「正確な答えを早く出す能力」ではなく、「クエスチョンを提起し、それを周りの人たちと共有する能力」でした。
山口 自分で問題を提起したり、課題を発見したりするために必要なのは、サイエンスではありません。
「人間は本来どのように生きていくべきか」「コミュニティはどのようにあるべきか」、あるいは「働き方は本来どうあるべきか」。
 そういった問いは全人格的な問いなので、「私はこうあるべきだと思う」と考えを持っていけなければ、これから先、イノベーションを起こすことはできない。そして、その視座はリベラル・アーツにこそ涵養(かんよう)できるものです。
 そのような問いを立てる能力に加えて、必要と考えるのが「共創力」です。20世紀は企業をはじめとする組織の目的が「競争」でしたが、21世紀は組織や人材がチームワークを持って「共創」する時代となりました。
「共創力」を身につけることが、真の意味での競争力を保ち、社会に貢献することを可能にするのです。
 そして、世界各地の異なる価値観と行動様式、文化と歴史的文脈を真摯(しんし)に探求し、積極的に包容・受容しながらリベラル・アーツの新たな進化を主導的に追求し、日々実践する。
 グローバル教養学部がその拠点となり、欧米諸国の長き歴史と伝統を持つリベラル・アーツへの見識と理解を深めるとともに、日本独特の文化と歴史や価値観を探求し、新たな考察を加えることで、バランスのある独創的な“アジア発”のリベラル・アーツの創出を促していきたいと考えます。
(執筆:唐仁原俊博 編集:海達亮弥 撮影:新江周平 デザイン:田中貴美恵)